生命物理は物理のフロンティアか


早川尚男 (京都大学大学院人間・環境学研究科)


(1999.3.24 於討論集会「生命物理と複雑系」東北大学電気通信研究所)

  1. はじめに
  2. シュレディンガーが何故大きな影響を与え得たのか
  3. シュレディンガーの後
  4. 非平衡物理と生命の物理: ステファン・ルデュクの残したもの
  5. まとめ
はじめに 本日は興味深い研究会にお招き頂き有難く感謝しております。 初めにお断りしておかなければならないのは私は生物に関してはずぶの 素人であり、複雑系といった一連の動きにも全く関与しなかったので この研究会でお話するのは適当ではないかもしれないということです。 実際、手持ちの研究どころか模索も展望も持ち合わせていないので 30分なり40分なりの時間をどうやって潰せばいいのかを危惧している 有り様です。せめて研究会までに自分の考えをまとめてWebに載せようと 思ったらサーバーのマシンが外部から潜入を受けて、マシン自身が ストップするにいたってまさに弱り目にたたり目といった風情であります。

ここでは雑談風に日頃思っている不満をぶつけるより他に術がない 様に思えます。先に展望がないと申しましたから私に出来ることは 過去を探って現状を捉えることしかないのですが、尚、困ったことに 歴史の生き証人とでも云うべき方々も本研究会に参加されておりまことに やりにくい。私がいい加減なことを発言したらすぐに訂正して頂くとして 生命物理の生き証人の方々もご存知ないような更に昔の話をメインに据えてお話 したいと思います。 注釈1

私の話の構成は、まずシュレディンガーに簡単に触れて何故 シュレディンガーの本が物理学者や生物学者に大きな影響を与え得たかを 話してみたいと思います。次にシュレディンガーの影響や 50年間生命の物理がフロンティアであり続けたという皮肉を日本での事例を 中心にしてお話したいと思います。更に最後に100年近く前の人であり、 1910年に発表した「物理化学的生命理論と自然発生」((Theorie phyico-chimique de ka vie et generations spontanees)が評判を呼んだステファン・ルデュク (Stephane Leduc)の研究について紹介して、その現代論的な意味と 非平衡物理の理論研究者に可能な生命の物理の意味を考えてみたいと思います。 シュレディンガーが何故大きな影響を与え得たのか この章に書く内容は殆んど1冊のから採ったものです。 その意味で他の所と同様に全く独創性のないつまらない意見であることを 御了承下さい。

シュレディンガーの「生命とは何か」が多くの物理学者が生命物理に目を向ける きっかけになったことに異論を挟む人はいないと思います。 この本は1943年のトリニティ・カレッジの公開講演 をまとめたものであることはよく知られていますが、 何故彼の本がこれほどの影響力を持ち得たのでしょうか。それは単に彼が 有名な物理学者であったというだけではない何かがあった筈です。そこを 簡単に探ってみましょう。

当時、生物学に関心のあったもう一人の(もっと)有名な物理学者として ニールス・ボーアがいました。彼は生物学に関しても幾つかの哲学的論文を 書いていますし、研究員としてコペンハーゲンに滞在していたデルブリックとも 生物学に議論する機会が多かった様です。しかしながらボーアは生物学に 深入りせず、その結果として生物学や若い物理学者にこの点では影響を与えなかった といって差し支えないでしょう. 注釈2 これは或はムーアの指摘するように ボーアの父が成功した有名な生理学の教授であったのに対して、 シュレディンガーの父が工業化学者でありながら本職の傍らで植物学を研究しており その満たされない人生を何らかの形で償おうとしたというのは当たっているかも しれません。

いずれにしてもシュレディンガーは潜在的に生物学に深い関心を抱いていたばかりでは なく、既に本を出版する前に生物物理の世界的権威と見られていた様であります。 このことは彼が若い頃に色彩論を研究し、 単に光学的な議論に留まらず視覚そのもの の生物学的な議論を突っ込んで行なったためであると思われれます。 少なくとも視覚の問題に関しては量子力学の誕生以前から世界的な権威であり、 古典的理論を発表してそれが受け入れられていたことは注目に値します。 つまり唐突に「生命とは何か」を論じた訳ではなく、本人の中では熟成するものが あったから発表したと考えるべきでありましょう。

シュレディンガーの生命観は御承知の通り素朴な決定論に基づいていました。 特に彼は染色体に注目し「非周期的結晶」と呼ぶに相応しい物質であると注目して おりました。非周期結晶とは 個々の単位は同じではないが、それらが周期的に現れ規則的 配列をしているという意味で使っていますが、この考え方が後に重要な 役割を果たすことになります。特に染色体がその結晶的構造故に重要で遺伝暗号を 媒介する遺伝子を持つということはシュレディンガーが初めて陽に言った様です。 ここで強調したいのは結晶を重要視し、素朴な力学的考察で生命現象は 理解できるとした非常に力強い信念があった点です。 その意味で彼は生命を分子機械であると捉えていたと言えるかもしれません。 この点ではボーア或は デルブリックなどの多くの他の人たちと一線を画しています。つまり彼らは 量子論の誕生との類推から物理学に還元できない生命の特性があるかもしれない と期待していたのです。 シュレディンガーの後 シュレディンガーの講演は熱狂的に迎えられ、1946年には アメリカ国立科学アカデミーの主催で「物理学と生物学」という会議が 開かれています。またワトソンやクリックを初めとする多くの若い学生や 研究者に決定的な影響を与えています。この熱狂的影響は皮肉なことに ボーア流の新しい基本概念が生命現象から見い出されるに違いないという部分に 支えられていた面もあります。 またシュレディンガーの示唆によって遺伝子とその結晶構造が重要であると いう認識がおこり、ブラッグに率いられたキャベンディシュ研究所のX線回折の グループが遺伝子の構造解明に乗りだし、1953年に至ってワトソン、クリックらに よってDNAの2重螺旋構造が発見されました。更にその後、急速に分子生物学が 進展し、1965年には「分子生物学は終った」と言われる様になったのです。

分子生物学の進展が20世紀の科学の歴史の中で相対論や量子論に比肩する輝かしい ものであることに異論を唱える人は少ないでしょう。しかし、翻って 物理学へのフィードバックを考えますと、シュレディンガーの予想通りというか 何もなかったのです。つまり既存の物理法則で全て説明できてしまったのです。 その意味で1960年代に入った頃から物理学者の熱狂は醒め、フロンティアは 消滅したと言ってもいいのかもしれません。

日本ではどうだったのでしょう。おそらくはその事については大沢先生や武田先生 に語って頂くのがより適当かと存じます。しかし幾つかのエポックを語ることで その影響は窺い知ることができます。

1953年には京都で理論物理の国際会議が開かれました。そこの物性の分科では 今後多くの研究者が生命物理に研究分野をシフトするという雰囲気に満ち溢れて いたと聞きます。生物物理学会設立(1962)に至る迄の経緯は最近でも大沢先生 自らお書きになったものもあります ので私が筆を汚すことはしない方がいいでしょう。しかし当時の熱気はすざましく 現在の比ではないという事だけは間違いないでしょう。 非平衡物理と生命の物理: ステファン・ルデュクの残したもの 長々と皆さんが御承知のことを書き連ねましたが、いよいよ本題に入ります。 シュレディンガーの生命観として現代流布しているのは「生物は ネゲントロピーを食べて生きている」という言葉で集約されるかもしれません。 その言葉を契機(の一つ)にして非平衡・開放系の統計熱力学は発展していきました。 またプリゴジンなどの散逸構造論を経てパターン形成の物理に繋がり、その延長線上 に私の研究の出発点があります。このあたりの事情については 出席者の多くの皆さんが共有するものであり、わざわざ述べるまでもないこと でしょう。しかし70年代後半から80年代にかけては一般の研究者が生物への 興味を失っていたのかもしれません。実際、73年に出版された 岩波の「現代物理学の基礎」には「生命の物理」という一巻が ありますが、92年から刊行された岩波の講座「現代の物理学」には全体の冊数が 倍増したのにも拘らず生物物理に関する本は含まれておりません。

最近、複雑系と生命物理を絡めた研究会が滅多やたらに開かれておりますが 私はその周辺をうろうろしているだけで積極的に参加した事がありません。 どちらかというとそういった動きには距離を置いていると言った方がいいかも しれません。幾つかの理由が考えられます。一つには他人のやることはやっては いけないという近親者の教えを守っているという面があります。 もっと大きいのは既にシュレディンガーの本の出版から53年を経て、既に 生命物理が次代のフロンティアであるという言葉が狼少年並の 意味にしか受け取れないという側面があります。おそらくは現代の複雑系絡みの 熱狂は既に述べたものに比べると遥かに規模の小さいものだと考えられます。 更にもっと根本的には分子機械でない捉え方をした場合に果たして非平衡物理の 研究者が意味のある貢献が出来るのかという根本的な疑問があります。 この点をOptimisticに捉えて荒波にもまれるにはいささか流行の波が激しく、 勇気が足りない様です。

さてその事を例証するために、我々理論家がどういう事が出来るかを シミュレーションしてみたいと思います。散逸構造の研究の多くは 適当な偏微分方程式を設定し、それをシミュレーションなり理論解析を することになります。その際、分岐理論などで普遍的な構造を持つ ある種の偏微分方程式に繰り込まれることなどが分かれば、後は ある意味でルーティンワークになると言っていいでしょう。生物現象を がマクロに捉えた場合に拡散と化学反応が重要であるのは自明なので こうした研究者が設定するであろう偏微分方程式群は反応拡散系 の一種になるでしょう。 つまりこうした捉え方では生命現象を反応拡散系に焼き直すことになります。 この焼き直しは、現在、私に可能である最も安直なアプローチと 言えるでしょう。反応拡散系は多彩な挙動を示しますので生物のような 動きをするモデルがあってもおかしくありません。 反応拡散系に拘らず、ある種のモデルに焼き直すことも 可能でしょう。例えば10年位前にはやったライフゲームはセルオートマトンで 生物もどきの動きを再現しています。複雑系の研究でしばしば行なわれる 様にある種の数値モデルを 設定し、ある側面の動きを生物に似せることは不可能ではないでしょう。

さて反応拡散系は生物なのでしょうか。或は他の数値モデルによって コンピューターのモニターで動いているものは生物でしょうか。勿論 厳密な意味では違います。しかし問題にしたいのは物理学におけるように 生命現象そのものを模倣したモデルというものは意味があるのか、という点です。 そもそも物理学では実態そのものではない抽象化されたモデルの解析を 通して本質の理解が進んでいます。特に統計物理や固体物理では自由度が多いので 何らかの意味で近似的な捉え方をせざるを得ず、その意味でモデルに基づかない 研究というのはないと言っても言い過ぎではない程です。こうした考えが 生物に適用できるかついては懐疑的です。というのは生物とは何かが分かっていないと 抽象化したものに本質が残っていないおそれがあるからです。 つまり生物らしさの議論がないとモデルという抽象空間に移したり、 或は抽象空間から現実の生物に戻すことはできないという事です。

この事が深刻な問題であることはもっと昔の一つの例から窺い知ることができます。 私が紹介したいのはステファン・ルデュク(Stephane Leduc)の事です。 注釈3 皆さんは彼のことをご存知ないと思います。彼は1853年11月1日にフランスの ナントに生まれ1883年以来ナントの医学物理学の教授であったと伝えられています。 OHPに示した彼の肖像は1914年の5月に雑誌「シャントクレール」でのものです。 その雑誌では彼は人工生命を創造したという風に紹介されています。 勿論その紹介は誤りであり、こうして晴れて疑似科学者列伝に名を連ねることが できたのであります。しかし彼の実験によって作られた「人工生命」は生物と 似ているばかりか1980年代に物理学者によって盛んに研究された パターン形成論でおなじみのものが数多く見受けられます。特に 塩化ナトリウムの結晶成長物はここ沢田研でも盛んに研究されたDLAそのもので あることが分かります。これは驚くべきことです。 少なくともここにご出席の多くの人は彼に興味を持つのではないかと思います。

ではルデュクのことをもう少し詳しく見てみましょう。 まず彼の意図を紹介しましょう。 彼は「生命の基本的行為は 拡散と浸透である」と言明し、「生命体の形態や構造と酷似した」形態や構造の 製造を企画しました。言わば物理化学的力だけに依拠して生命を模造することを 目的としたのです。言い替えると記述、分析の後に「総合的生物学」を誕生させようと したのです。彼の意図したことは現在、 複雑系の研究者や反応拡散系で生物もどきを 再現しようというものと全く同様であると云えます。

次に彼の「総合的生物学」の意味するところを紹介しましょう。 彼はシュレディンガーとは反対に生命の本質は液体にあるとしました。 おそらくは19世紀末から今世紀初等にかけて一世を風靡した熱力学的世界観 の影響もあったでしょうが、生物をマクロにそして現象論として捉えるならば 現代でも正しい見方と云えるます。いずれにしても彼は「生物学は液体の物理化学の 一部である」という捉え方をしています。 彼の実験ではまさにそうしたプログラムを実行すべくコロイド溶液中から 結晶作用により沈澱生成物を作りました。 例えば結晶膜を得るには塩化カルシウムの一片を炭酸カルシウムの溶液の 中に入れるだけでいいのです。そうすれば塩化カルシウムが透明な膜に 囲まれ、本当の細胞と区別がつかない程のものができます。その「細胞」は 驚くことに分裂によって成長しさえするのです。物質を変えることでより 多彩な生物そっくりな形態が生成されることは御覧の通りです。こうした浸透成長 が生命を模倣している。実際、それが仕事をし、熱を発し、化学エネルギーを 力学エネルギーに変換することすら可能な場合すらあります。

おそらくはルデュクの行ったことは現在、私のような散逸構造や非平衡物理の 影響を受け、マクロに生物を捉え直そうとするものの到達し得る最高のもの でしょう。実際、彼の研究を非平衡物理として捉えると非常に優れた成果を挙げた と思わざるを得ません。 しかしながら彼の研究が20世紀において冷笑の対象でしか なく、結晶的生物観が支配的影響を持ったことは気にしない訳にはいきません。 つまり模倣しても生物そのものでなければ生命の物理としては意味がない のです。 まとめ 冗長なこの小論に殆んど内容はありません。生命の物理に臆病な 一物理学者がごく少数の事例を紹介して、その研究の流行に懸念を表明し ているのに過ぎません。今後、例えばルデュクの行った研究を理論的に 説明し、再構成することは純粋な非平衡物理の問題としては興味深いものかも しれません。しかしながらそこで創造された「生物もどき」はやはり生物ではなく、 生物学には何の意味も影響も持たないと思われます。やはり生命とは何かを もう一度考え直すことが行動の前に必要になるように思われます。


参考文献


  1. W. Moore, Schr\"odinger: Life and Thought (Cambridge Univ. Press, 1989).
  2. E. Sch\"odinger, Ann.Phys. {\bf 63}, 397-426, 427-56, 481-520 (1920). この仕事は彼の量子論の前の仕事としては最も有名なものの 一つであろう。非常に権威ある教科書に「視覚」についての執筆を依頼されている。 E, Schr\"odinger, Die Gesichtsempfindungen, in Muller-Poullets Lehrbuch der Physik, 2/1, 11 th edn, pp456-560, (Braunschweig, Vieweg, 1926). またファインマン物理学でも言及されている。
  3. 大沢文夫、日本物理学会誌 {\bf 51} No.10, 723 (1996).
  4. P. Thuillier, Le Petit Savant Illustre (Editions du Seuil, Paris, 1980): P. チュイリエ、小出昭一郎監訳(新評論 1984)
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