ルイセンコ事件は科学史上最悪の事件として記憶に留めておかなければならない。

非科学的な辺境の植物育種家だったソビエト連邦の トロフィム・デニソビッチ・ルイセンコ(Trofim Denisovich Lysenko,1898-1976) はレーニン・スターリン時代、ラマルクによる進化論を修正した ミチューリン主義の提唱者であった。 ラマルクは18世紀フランスの科学者で、ダーウィンよりはるか以前に 獲得形質を受け継ぐ事によって進化論が起こるという進化論を提唱していた。 しかしラマルクの理論は適者生存による自然選択説ほど 進化をうまく説明できないため、 進化科学者によって却下されている。

ラマルキズムは、意志が基本的原動力であると信ずる人々、たとえば 20世紀フランスの哲学者 ベルグソンなどには好まれた。ダ ーウィニズムや自然選択説は、神がすべてを創造し、すべてに目的が あると信じる人々の多くには嫌われた。それは 自然選択は機械的かつ唯物論的、おまけに定量的かつ非目的 的なためであろう。

皮肉な事に唯物史観とマルキズムを信奉する筈のソ連でも ラマルクの亜流であるミチューリンの進化論がソ連の共産党指導部の 支持を得た。更に教条主義的な学問が可能であったソ連では党指導部 が承認したミチューリン主義以外は認められなくなっていった。 それだけに留まらず、ミチューリン主義の指導者として党指導部から 承認されたルイセンコが 正統的遺伝学者や、自然選択を支持してラマルキズムを拒否した多く の科学者が、収容所に送られたりソ連から抹殺された。 ルイセンコは1948年のロシアの会議 で、メンデル的思考は``反動的かつ退廃的''である、そしてメンデリズ ムの信奉者は``ソビエト人民の敵である''とする熱狂的演説を行ない、 独裁的権力を握った。 科学者は権力に屈して自らの誤りと党の 知恵の正しさを告白する文書を書くか、さもなくば粛清された。

ルイセンコの方針にしたがって、科学は適切に調整された実験に基づ いて説明に適した理論ではなく、望ましいイデオロギーの方向へ導か れることになった。科学は国家に奉仕するものとして、正しくはイデオロギーに 奉仕するものとして行なわれることになった。結果として ソビエト生物学は衰退し続けたのである。(The Skeptic's Dictionary 日本語版 を参考にした。)


より詳細を知るには が参考になる。
以下では科学史メーリングリストにおける 藤岡毅氏による解説に基づき幾つかの疑問点に答えていこう。

どうしてルイセンコのような人物が、ソビエトの科学界を牛耳ることができたのかを本 当に明らかにするには、少なくとも1920年代末に開始された農業集団化の強行から 1948年の農業科学アカデミ−総会の決議までの間のソ連国内、特にソ連共産党内の 政治的、イデオロギ−的闘争の経過を調べる必要がある。

ここで農業集団化の時期にルイセンコが頭角を現したという点に着目してみよう。 1929年末から始まる農業集団化の強行とレ−ニンが開始していたネップ政策の終焉 はソ連史における一大転換となったことはよく知られている。 ヨ−ロッパ革命を展望して開始されたロシア革命は、結局は ロシア単独で、一国社会主義革命を維持する事を余儀なく されるようになった。 生まれたばかりの社会主義革命を崩壊から守るために、都市での急速な工業化が目指さ れ、都市の労働者階級に安定した穀物を供給する体制を作り出すことが革命政権の最大 で緊急の課題となった。 共産党内で主導権を握ったスタ−リンはその追随者とともに、この課題を最も性急に、 最もラジカルな方法で遂行し、農民からの強行的な収奪を行なった。 こうした事態の 下で、ソ連社会はかつてなく緊張状態につつまれ、抵抗する者は「反革命」、「ブルジ ョアの手先」として指弾され、弾圧された。

ルイセンコが小麦の春化処理技術による穀物増産に成果を上げ、 頭角を現したのはちょうどこ のように農業集団化の強行が行われた時期であった。 新しく組織されたコルホ−ズにおける穀物増産が最大の関心に上っていた党指導部はル イセンコの「成果」を見逃さなかった。 春化処理による穀物増産と思われたのは集団化による生産性の増大によるもので あったのか本当に春化処理技術が功を奏 したのか定かではないが、少なくとも農業の集団化と穀物の増産を実現すること で、社会主義建設に貢献しようと情熱を燃やした若い革命家や、熱心なコルホ−ズの指 導者の中で非常な人気を博した。

彼らが主観的願望を持って増産の誇張された報告をしたであろうことは想像に難 くない。スタ−リン指導部は その理由は定かでないにせよ ルイセンコと春化処理技術に厚い信任を与えるようになった。

ルイセンコと若いその支持者たちは党の信任を背景に、農業部門を中心に徐々に影響力 を拡大していきましたが、遺伝学などの学術的機関に影響力を拡大したやり方は にデマゴギ−的な政治的手法であった。 数年のうちにソビエト国内のすべての地域に適した穀物の新しい品種を開発するという 現実的に不可能な党及び政府の決定がある状況で、 正当な遺伝学の立場に立っていたヴァヴィロフを中心とするソビエトの遺伝学者は 淘汰による品種改良には手間と時間がかかるので 任務の遂行の困難性を認識していた。 それに対し、ルイセンコは党の要求するスピ−ドのさらに倍の早さでの達成を 口にしており、スターリンの粛正を恐れて結果を求め、同時に 遺伝学に余り詳しくない党指導部が早 期の達成を唱えるルイセンコとその支持者により強い支持を与えたことは あり得る事である。

ルイセンコ派が権力を握ることができたもう1つの要素は、彼らの農業技術を生物学的 な原則にまで高め、さらに、マルクス、エンゲルス、レ−ニンの哲学思想に裏付けられ ているかのようなこじつけをおこなったことにあると思われる。

1930年代の哲学論争で頭角を現した 若き哲学者ミ−チンはスタ−リンの庇護の下、 デボ−リン派を追い落とし、党のイデオロギ−機関を牛耳るようになった。 ミ−チンは科学をブルジョア科学とプロレタリア科学に分割し、 西側の科学をブルジョア的な観念論と捉えるという教条主義的な見解を 押し出していた。 ルイセンコは春化処理に批判的な遺伝学者を階級敵として非難するという政治的手法を 用いたが、それはミ−チンの手法と共通のものであった。

彼らはレ−ニンの死以降、スタ−リンによって急速に拡大した党員、特に意気盛んでは あるが経験も理論的能力も乏しい若い革命家の急進的な心情に訴えかけ、現実主義的に 、堅実にことを進める古い革命世代との対立をあおる役割を果たした。 スタ−リンは彼らを利用しながら、スタ−リンに従わない、力を持つ古い革命世代の政 敵を切り崩しに利用した。

ルイセンコに反対するソビエトの遺伝学者も手をこまねいてばかりいたわけではな かった。「メンシェビキ的観念論」「破壊分子」等の汚名を着せられた人々の中にマル クス主義を支持し、社会主義建設に積極的な人々も多数いた。しかし 結局スタ−リン主義の支配の下で、彼らは政治的に敗北を余儀なくさた。

最後に、日本ではマルクス主義の生物学、進化論といえばルイセンコ主義ばかりが取り 上げられます。それは、一時期日本のマルクス主義を支持する生物学者がおしなべてル イセンコの支持者であったことによるのであろう。 ルイセンコ主義とは異なる、進化学におけるマルクス主義的立場というものがあり得た ということに、もっと光が当てられるべきではないかというのが私(藤岡) の個人的感想である。


ヴァヴィロフについて:

メドヴェジェフの「ルイセンコ学説の興亡」(金光不二夫訳 河出書房1971)の第 1部第2章にも少しばかり書かれていますが、もう少し詳しく書かれたもので J.G.クラウザ−というイギリス人が書いた”Soviet Science”(19 36)の訳で「ソビエトの自然科学」(石井友幸訳 白揚社1937)というの がある。クラウザ−は1934年から1935年まで、ソビエトに長期滞在し、 ソビエトの科学研究の視察をし、この本をまとめたようですが、 この本のレ−ニン農業科学アカ デミ−の章でヴァヴィロフと彼の同僚や弟子たちの仕事がまとめられてる。

先の本によれば、1934年当時、ヴィヴァロフはレ−ニン農業科学アカデミ−の総裁 で、当時のソビエト科学アカデミ−の会員80名のうち、30名がレ−ニン農業アカデ ミ−の所員だったとされる。このことからすると、ヴァヴィロフの地位がどれほどの ものだったか想像がつく。彼は栽培植物の遺伝学的研究に多くの業績を残した。

余談であるが、 当時のソビエトの遺伝学は世界的にもトップレベルの水準にあり、193 7年には第7回国際遺伝学会が、モスクワで開催されることが予定され、その議長にヴ ァヴィロフが選ばれていた。(残念ながら、国際会議はスタ−リン指導部による中 止決定で実現しなかった。) H.J.Mullerは1933年から1937年までヴァヴィロフの下で研究を続けたし、J.B. S.Haldane(集団遺伝学の創始者の一人)もソビエトを訪問しヴァヴィロフから多くの影 響を受けた。

ルイセンコ支配の下で、Vavilovとソビエトの遺伝学を救うためにMallerら西側の遺伝 学 者はどのように反撃したかについては以下の文献に詳しく載っています。

参考文献

 
以下は藤岡氏の発言をそのまま収録します。
ルイセンコについて質問をした早川です。藤岡さんの詳しい解説は参考になり ました。が、割り切れない思いをまだ持っております。 問題は何故、1935年までに世界の学界のトップであるバビロフと対等に渡り合 えるまでに認められるようになったかという点に興味があります。 つまりバビロフも含めて専門家集団の殆んどがむしろ山師の言うことをすんな りと?受けいれてしまったことこそ問題にすべきだし、現代的な意味もあるよ うな気がします。
全く同感です。ルイセンコのような「山師」的主張がどうしてまかり通ったのか。それ は私にとってもいまだに謎です。この謎を突き止めたいというのが私がそもそもルイセ ンコ問題に関心を持ったきっかけでもあります。
現代においても怪しげな学説はいっぱいあります。またマスコミを通して有名 になる山師も少なくありません。しかし、専門家は大抵は「山師」に批判的な ものですがルイセンコの場合はそうでもないようです。そこいらの事情は多分 彼独特のデマゴギー的な手法とかソビエトの特殊事情と関係がないような気が します。
確かに、ルイセンコの学説は、最近はやりの「とんでも本」のたぐいと同列に扱うこと はできないと思います。日本でもかなり多くの生物学者がルイセンコの影響を受けた時 期がありました。「ルイセンコの説は間違っていたけれども、その主張には傾聴すべき 点もある」という程度の意見なら、現在も持っている方がいるかも知れません。ルイセ ンコの学説は「山師」的だったことは紛れもない事実ですが、私たちがそれをはっきり と「山師」だと認識できるのは現在の地点からそれを眺めるからであって、後知恵では ないかと思います。

従って、ヴァヴィロフや当時のソビエトの遺伝学者が当初ルイセンコを受け入れたのは なぜかを考えるには、1930年前後のソビエトという状況に身を置いて考えなければ ならないでしょう。そう考えると考慮しておかなければならない点が少なくとも3つあ ると思います。それは (1)ロシア革命を堅持し、社会主義の建設にすべてのエネルギ−が投入されたこと、 したがって自然科学も例外ではなく、遺伝学者は農作物の品種改良に成果を上げること が求められていたこと。 (2)1929年に始まった農業集団化と期を一にして、若い急進主義的な活動家を中 心とする新革命世代が登場し、急進主義的で、教条主義的な「文化革命」運動を始め、 古い革命世代に対する攻撃を始めたこと。 (3)20世紀の初頭にメンデルの法則が再発見されて以来、ダ−ウィニズムとメンデ リズムは対立関係にあったこと。ダ−ウィニズムとメンデリズムの統一は1930年に なってようやく数理理論によってその第一歩が踏み出されたばかりであり、遺伝学が専 門でない人々にはそれらを正しく理解することは非常に困難であったこと。

が、挙げられます。

(1)について。農業科学アカデミ−総裁という要職にあったヴァヴィロフは当然食糧 増産のための品種改良を進める責任を負っていました。技術的に有用なものがあれば積 極的に取り入れていくというのは彼の立場からすると当然のスタンスだったでしょう。 ルイセンコは農民出身の実践的な育種家として出発しましたが、初期の彼の研究は彼が 遺伝学の素養を身につけていなかったにもかかわらず、決して正統な遺伝学と対立する ものではなかったと思います。学識においても、社会的地位においても、ルイセンコと 比較にならないぐらい高いものを持っていたヴァヴィロフが、欠陥はあったとしても若 い意欲的な農民出身の実践家を登用し、今後の活躍に期待したとしても不思議なことで はないでしょう。

(2)について。ケンブリッジ大学教授で、ソビエト思想史の研究者ジョン・バ−バ− は論文「ソ連邦における知的正統性の確立(1928−1934)」(注1)の中で1 928年から1932年に生じた「ソビエトの知識人世界に吹き荒れた好戦性の波」、 「文化革命」について4つの点を指摘しています。1つは「マルクス=レ−ニン主義を 知的作品のすべての領域に適用」する試み、2つめは非マルクス主義的研究に対する全 面的で激しい拒否、3つめは学生や若い研究者による旧世代のマルクス主義知識人に対 する手厳しい批判、最後に「非政治主義に対する攻撃」すなわち「知的作品に対する『 党派性』の要求」です。 このような「文化革命」は当然国家の農業政策と直結しやすい遺伝学の分野においても 現れることになったと思います。ルイセンコのみが一人気を吐いたのではありません。 若い知識人層や党のイデオロ−グと見なされていた人びとは、「西側の遺伝学」を擁護 しているヴァヴィロフたち遺伝学者に疑いの目を向けるようになったのです。 こうしたことは遺伝学だけの特殊な現象でないことの例として、アインシュタインの相 対論がマルクス主義の世界観と矛盾するものでないことを主張し、相対論を擁護したボ リス・ゲッセンを挙げることができるでしょう。モスクワ大学の物理学教授であり、2 0世紀を代表する科学史家でもある彼は「メンシェヴィキ化しつつある観念論者」とし て批判され、ついに1935年に逮捕され1938年に獄死しました。(注2)

ルイセンコは、このような「文化革命」の雰囲気の中で、堅実で慎ましい育種家から、 新しい「遺伝学」のイデオロ−グ、ロシアダ−ウィニズムの「正統な継承者」、マルク ス、エンゲルスの見解の生物学における「擁護者」、へと変身していきました。すなわ ち正真正銘の「山師」となったわけです。彼は獲得形質の遺伝と、遺伝物質の否定を主 要な理論的武器として、すでに単一の世界科学となっている遺伝学に立ち向かったので す。ここで強調したいのは、この段階ではヴァヴィロフはルイセンコを決して支持しな かった、むしろそれとは反対にルイセンコに反対し論戦を行ったということです。

だから、私はヴァヴィロフたちがすんなりと「山師」を受け入れてしまったとは考えて いません。問題があるとすれば、彼らは誠実な科学者としてのルイセンコの見解の誤り を批判するにとどまったことだと思います。ルイセンコたちはもっと政治的にたけてい ました。彼らはスタ−リンや党の指導部が参加した1935年のコルホ−ズ突撃隊員大 会の場で、春化処理の有効性に関する学問的議論を、階級闘争の問題にすり替えるとい う大パフォ−マンスを行い、スタ−リンの信任を取り付けたのに対し、ヴァヴィロフは 何もすることができなかったのです。

(3)について。これはある意味ではルイセンコ論争が生じた学問的背景としては最も 重要だと思います。ご存じの方は退屈かも知れませんが少し歴史を振り返ってみます。

ダ−ウィンの「種の起源」によって19世紀に広まったのは非ダ−ウィン的な進化論で あって、ダ−ウィン的進化論が本当の意味で受け入れられるようになったのは1940 年代以降、総合学説が成立してからのことであるといわれます。(注3) むしろ19世紀終わり頃には自然選択より、獲得形質の遺伝のようなラマルキズムが大 きな影響力を持っていました。ダ−ウィンでさえ、1872年の「種の起源」第6版で 獲得形質の遺伝を取り入れ、自然選択説を補完しました。

20世紀初頭のメンデルの法則の再発見とその後の遺伝学の発展は、ダ−ウィンの自然 選択説の弱点を補い、ダ−ウィニズムの復活を可能とするものでした。しかし、メンデ ルの支持者たちは突然変異による飛躍的進化を強調したので、連続変異に対する自然選 択を強調していたピアソンやウエルダンの生物計測派と激しく対立することになったの です。 実験遺伝学を生み出し、遺伝子説を打ち立てたモルガンも突然変異による進化を主張し 、自然選択を重要視しませんでした。今世紀最初の10数年は不連続で飛躍的な変異が 進化にとって重要だと考えたメンデリストと、微少な連続的変異に対する選択効果が進 化をもたらすとしたダ−ウィニストの対立が続きました。

その後、実験遺伝学の発展により、微少な連続変異にもメンデルの法則が成り立つこと が示され、メンデリストとダ−ウィニズムが対立するものでないという考えがひろがり 、集団遺伝学の成立へとつながっていくのです。 西洋のメンデリストたちの反ダ−ウィニズムの影響を受けていなかったロシアのナチュ ラリストたちは、いち早く遺伝学と自然選択説を結びつける仕事をしていました。チェ トベリコフはショウジョウバエの野外集団に集団遺伝学的手法を導入し、彼の門下のド ブジャンスキ−はアメリカへ渡って、総合学説の創始者の一人になりました。(注4)

さて、こうしてみると、ルイセンコたちは、「メンデル−モルガン主義」という言葉で 遺伝学者を非難するとき、彼らは19世紀終わりの頃の進化論の立場(獲得形質の遺伝 というラマルキズムと自然選択の融合)に立っているといえるのではないでしょうか。 ヴァヴィロフもルイセンコも初期のメンデリストの反ダ−ウィニズムに反対し、ダ−ウ ィニズムを支持した点では共通ですが、前者が遺伝学とダ−ウィニズムの融合という進 化学の大道に沿ったのに対し、後者は遺伝学を拒否し、19世紀的なラマルキズムとダ −ウィニズムの融合に活路を求めたのではないでしょうか。

ある意味で はルイセンコが批判したように未だに分子進化の根本的な所ではメンデル・モ ルガン流の遺伝学というのはあまり有効ではないのではないかという疑問があ ります。(これは別に驚くに値しないことで最近、亡くなられた木村資夫は中 立進化説を唱え、少なくとも従来の突然変異の際の淘汰圧による進化というメ ンデル・モルガン流の古典的な説は変更を余儀なくされつつある)。まして当 時は藤岡さんの御指摘の様にNEPとの絡みで非西欧的な考えが歓迎された点は 理解できます。
木村氏の中立説はルイセンコの遺伝学批判と関係がないと思います。木村氏はライトの 弟子として、数理集団遺伝学を分子生物学に適用することによって発展させたのであっ て、中立説はあくまで総合学説の枠内にあります。総合学説はフィッシャ−が確立した 集団遺伝学を核として形成してきたので、フィッシャ−の持っていた自然選択万能の考 えが色濃く付随していたと思います。特に、セントラルドグマが成立したばかりの60 年代の総合説はそうでした。ライトは遺伝子浮動の重要性を強調し、選択説万能主義的 な理解を克服しようとしたと思います。分子進化の研究を通じて、中立な遺伝子の偶然 的固定が、生物の進化にとって重要な役割を果たしていることが次第に明らかになって きている今日、総合学説はよりト−タルな見地へ発展する可能性を秘めていると思いま す。

総合学説の選択説万能論的な、還元主義的な傾向に反発を覚えた人たちの中には、ルイ センコの見解の中に何かしら得るべきものがあるのではと期待を持った人もいたと思い ます。しかし、私はルイセンコの見解は科学史の対象としてのみ価値を持つのであって 、進化学が陥ってきた還元主義的な傾向の克服は、総合学説の発展の枠組みでなされる べきものだと思っています。

参考文献