インド、中近東および中世ヨーロッパの数学

〜「ゼロの発見」および、中世を数学がどう生きのびたかについて〜

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(印)BC 2000 ころ インダス文明の文字は未解読というが、宗教的必要(占星術)と、 すでに数字を持っていたメソポタミアとの交易のため、 数字は存在したであろうという。

(印)BC6c -2c 「シュルバスートラ」。宗教式典のための数学。円積問題など。

(ギ)BC4c ころ ギリシャに数学さかえる

(ギ)BC287-212 アルキメデス。てこの原理、浮力の原理、「積分法の入口」に あったといわれる。ローマがシチリアを功めた際、太陽光を集めて相手の船に 火事を起こした。幾何学の問題を考えていたところをローマ人に殺された。

(ギ、印)BC327 アレキサンダー大王インドへ達す

(印)BC3c アショカ王のころの石板。位取り数字はなかった。 一方すでにBC2c ころにはゼロ(「空」「点」)の概念があったともいう。

(ロ)AD2c プトレマイオス。天文観測(AD 127-157)。天文に関連して、 三角比(弦の表)を作成。「トレミー(Ptolemy)の定理」。 「アルマゲスト」周転円の理論(=のちの天動説の根拠)。

(ロ)AD3c ディオファントス。 代数、不定方程式。 ローマ時代はギリシャにおけるようには数学は盛えなかったが、 (「ローマ数字」による四則の困難も数学の普及をさまたげていたと 思われる。)ディオファントスの書はその後フェルマなどに影響を与えた。

(ロ)AD4c アレキサンドリアの図書館、キリスト教徒に焼かれる

(印)AD5c アールヤバタ(476-550?、ナーランダ近くで活躍)の天文書。 開平、開立、図形の面積、三平方の定理、正弦表、球面三角法、 π = 62832/20000 =3.1416 (プトレマイオスの影響?)。 またこのころの教典「ラリタヴィストラ」に 1059 までの 単位(位取り記数法)。少年のシャカ(BC463-383?)がガンジス川の砂の数を 数えてみせる。ヒンズー教、ジャイナ教などごとに別の単位がみられる。 (ジャイナ流では、自然数は 2 からはじまったという -- 「1 は数えなくてもそこにある」。) すでに計算(経理)を生業とする人々がいて、ガナカと呼ばれた。 数学的規則を文学的に表わしたため、後世その意味が失われたともいう。 原稿はシュロの葉に書かれた。

(印)598- ブラフマグプタ。その天文書に 0 の四則が述べられたが、 0 による割り算は誤り:0/a=0, 0/0=0 であった。 他に負の数、2 次方程式、多元連立一次方程式、不定方程式 (nx2 + 1 = y2 が x = 2t/(t2 - n), y = (t2 + n)/(t2 - n)を解にもつ)。

(印)629 バースカラ 「アールバティーヤ注解」。 π = √10 を、伝承であり「ウパパッティ(証明)」が無いとして批判。 (回)642 ササン朝ペルシャ、イスラムに破れる

(回)8c-9c ハールン・アル・ラシード(在786-809) 前後のアッバース家の政策により、コンスタンチノープルにあった アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、アポロニウス、 プトレマイオスその他の書がアラビア語に訳される。 このころコーランを批判する試みもあったという(アル・キンディ、医学者)。

(回)836-901 タビト・ベン・クッラ 医学、哲学、数学、天文学、 占星術に通じていた。ギリシア語とシリア語に長じ、上記の訳にあたった。 ギリシアの幾何学的数学と、回教国での代数的方法が共に同値な方法である ことを述べた。

(回)1040-1123 オマル-ハイヤーム。 「ルバイヤート」の作者、哲学者、数学者、天文学者。 3 次方程式を考察。しかし「平方の平方」のような 「3 次元以上の量」は考えなかった。グレゴリオ暦 よりも正確な暦を考案。(当時 1 年が 365d 5h 46m 26s であると測定 され、現在の測定 365d 5h 48m 46s と比べても十分正確である。) セルジュク朝の体制下で、前時代より不自由となった学問の立場を なげいたという。

(スペイン)11c 回教の大学さかえる。紙を作る技術も伝わったらしいが 後に回教勢力が退くとともにすたれた。なお、このころはまだヨーロッパには 位取り記数法さえ知られていなかった。

(印、回)11c-12c 回教徒北インドへ浸入。次いでチンギス=ハン(13c)、チムール(14c)。 このころ南インドは経済力があったという。

(印)1113- バースカラ、 インド代数の集大成「ビージャガニタ」。 数列の和、多変数または高次の不定方程式。

(ヨ、回)11c 末-13c 十字軍。

(ヨ)1170-1240 フィボナッチ(ピサのレオナルド)。 商人の父親と北アフリカを旅し、アル・フワリズミのアラビア数字と 位取り記数法を学ぶ。「実用幾何学」(96角形を用いたπの計算が示される)、 および「算法の書」Liber Abaci (1202) などを書くが 広まる迄には二〜三百年を要した。 (筆算の確立されたのが 15c といわれている。)

(印) 14c-15c 南インド(ケーララ)のマーダヴァは、 ライプニッツ(17c)より早く sin, cos, arctan などの級数展開を得た。

(ヨ)14c-15c フローレンスに ベネディット、ビアギオ、アントニオ・マジンギィなどの数学者

(ヨ、印)15c バスコ・ダ・ガマ、インドへ

(ヨ) 16c ダルディ、スキピオネ・デル・フェルロ、カルダノ、タルタリア。 3 次方程式の根号による解法(解の公式)。 カルダノはこのとき複素数の解も見いだしたが、「精神的苦しみ」 を忘れて計算せよと述べた。4次方程式の解法はフェラリ(1522-1565)。

(ヨ) 1601-1665 フェルマ、1596-1650 デカルト

(ヨ、印)17c 東インド会社、18c末-19c 東インド会社の援助でインドに学校。 1857 カルカッタ、ボンベイ、マドラスにイギリス式大学。


参考文献

  1. ファンデアヴェルデン 「代数学の歴史」 現代数学社
  2. ブルバキ 「数学史」 東京図書
  3. カジョリ 「初等数学史」(上下) 共立全書
  4. 吉田 「零の発見」 岩波新書
  5. 林 「インドの数学」中公新書
  6. 中村元 「インド思想史」 岩波全書
  7. アシモフ 「科学と発見の年表」丸善