天文学の発展と日本への影響

目次
中国古代の天文・算術
日本古代の博士
8世紀の中国と西域
中国の改暦
1543 コペルニクス「天球回転論」
16世紀の日本
16ー17世紀の中国
17世紀の日本
1564-1622 カルロ・スピノラ
1598-1672 吉田光由
1640?-1708 関孝和
1645 「九数算法」
1639-1715 渋川春海
1664-1739 建部賢弘
18世紀以降の日本の改暦
参考文献
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中国古代の天文・算術

(中)BC 2155 夏の時代、2 人の係官が日食を予言できなかったとして殺された。

(中)BC 50 ころ 「九章算術」一次の剰余方程式(Chinese remaindar theorem)など

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日本古代の博士

(日)AD553 欽明天皇、百済より医博士・易博士・暦博士を招く

(日)AD686 文武天皇(676-707)、飛鳥に占星台。陰陽寮に陰陽博士・天文博士・ 算博士・漏刻博士(水時計の専門家)をおく。吉凶を星で占うため。

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8世紀の中国と西域

751 唐とアラビア、サマルカンド近くで戦う。捕虜の製紙職人から技術 が伝わり、サマルカンドに製紙工場が作られる。

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中国の改暦

822 (中)中国で「宣明暦」に改暦。(太陰暦)これは狂いが大きく悪名が 高いというが、日本にも輸入されて長期間使われた( 862 - 1685 )。このころ 日本では伊豆(三島)に暦者がいたという。

1280 「授時暦」。一年を 365.2425日、ただし 100 年で 1/10000 日だけ短くなるとした。 (オマル・ハイヤムによった?なお正確には 2/100000000 日。) なお中国ではわかっている BC104 から AD1912 (グレゴリオ暦に改暦)までの間に 46 回改暦が行われた。

1271-1295 ころ マルコ・ポーロ、陸路から元に入り海路帰国。

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1543 コペルニクス「天球回転論」

これを精読した中に、イエズス会のクラウディウス(「ユークリッド原論」を ギリシャ語から直接ラテン語に訳した人でもある)もいた。

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16世紀の日本

1506-52 フランシスコ・ザビエル、イグナチオ・ロヨラらと共にイエズス会創立。 パリ大学でユークリッドを第6巻まで学ぶ。来日。広東で客死。

1537-1606 アレッサンドロ・ヴァリヤーニ 1572 に来日、九州および安土で布 教。1581 信長に謁見、安土の絵図を賜う。1582、天正の使節団 4 人と共に離 日。安土ほか各地に「セミナリオ」(神学校)「コレジオ」(学院)設立。コレジ オにおける学科は、コレジオ・ロマノと同じく数学と天文学を中心とするもの だったという。

1582 信長横死。

1587 秀吉(-1598)のキリシタン禁止令。まだ徹底したものではなかった。

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16ー17世紀の中国

1593 (中) 程大位(1533-1606) 「算法統宗」。

このころ中国では 1629 に Johann A. Schall von Bell(湯若望) と Giacomo Rho (羅雅各)とが「崇禎暦」を、1737 には Kepler の理論に基づく「(後)時 憲暦」を Iganaze K\"{o}gler (戴進賢)、Andrew Pereira が作っている。 1652 黄鼎著「天文大成」。なお、清の康熈帝 1655-1722 は Leibnitz と文通 があった。

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17世紀の日本

1600 関ケ原の戦

1603 家康、将軍となりキリシタン禁止令一時緩める。

1552-1610 マテオ・リッチ 1582、明末期の広東に入り布教。ユークリッド他 を徐光啓と共訳=「幾何原本」:「幾何学」の名のおこり。またクラウディ ウスの Epitome Arithmeticae Practicae (原著1585) を訳す=「同文算指」: 東洋への分数記号(「零約」)の伝来。

1613 慶長の使節団(伊達藩、支倉常長ら)出発、メキシコ経由でローマへ。翌 11月パウロ5世と謁見。

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1564-1622 カルロ・スピノラ

グレゴリウス13世の改暦(1582)を提案したクラウディウスにコレジオ・ロマノ で数学と天文学を学ぶ。教科書はタルタリア(1506-59)のものだったともいう。 イタリアで教師の経験の後、1595 日本へ向けリスボンを離れる。このときは 喜望峰に達する前に嵐のためブラジルに流されイタリアに戻る。1599 再度リ スボンより出発、1602年7月長崎に着く。来日途中で書籍類をイギリス海賊に 奪われた。1605-1611 京都天主堂の「アカデミア」で講義。1611年8月、徳川 幕府によるキリシタン禁止令。スピノラら長崎へ。1612、緯度を測定する目的 で長崎で月食を観測。1614 キリシタン弾圧。1618 捕縛、1623 長崎で火刑、 殉教。非常に謙遜で、自分の名や功績を故国に伝えることが少なかったという。

講義の内容は、キリシタン禁止令後に書が焼かれたため必ずしも明かでないが、 自らが学んだ数学書・天文書の内容を復元するものであったろうといわれる。 最近の研究によれば、ここで学んだ者が次代に急激な発展をみせる和算の祖と なった。聴講者には「算用記」の著者(氏名不詳)、毛利重能(日本ではじめて 球の体積を論じた「割算書」の著者)、吉田素庵(「塵劫記」)、田原嘉明(「新 刊算法起」)、百川忠兵衛(「新編諸算記」)などがいたという。

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1598-1672 吉田光由

富士川の水運で栄えた角倉家に生る。徳川家の大阪冬夏 の陣にも仕えた祖父吉田素庵(-1632)と共にキリシタンであり、京都の天主堂 に出入りしていたという。1627 より数回にわたり「塵劫記」を著す。 (円周率、 2119 およびその立方根の計算他。 祖父がスピノラから受けた教えを遺すためか。) 1633-41 熊本藩(細川忠利公)に招かる。1670 ころ京都で暦者渋川春海と会見。

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1640?-1708 関孝和

現在の群馬県藤岡市に生れ、6才のころ江戸で父母を亡くす。 日本の誇る和算家であるが前半生がよくわからない。 創造力あふれる数学者がいかにして教育されたか、解明が望まれる。

以下平山説に依れば、共に駿河大納言に仕えた縁により祖父と関係の深い駿河 の豪商松木家で育てられ、そこで内外(=中国)多くの算書に接した。松木家は 戦国時代から記録にあり、紀伊国屋と上野寛永寺中堂建立で儲けた他、渡来物 も商った。15才ころに出た「九数算法」(暦学)「新編諸算記」(平方根および 立方根)、23 才ころに出た「算爼」(村松茂清著)に大きく影響されたであろう という。20 才ころから「天文大成」を学び、25才ころ上州に移り塾を開くか たわら数学を研究、30才ころ甲府藩に抜擢される。1674「発微算法」出版、以 後30冊あまりの著書。暦の作成という動機から、現代の線形代数学および微積 分法にあたる演算を独自に開発。年代としてもライプニッツやニュートンより 早かった。円周率を 17 桁計算。尽不尽(アルゴリズムが有限でおわるか無限 に続くか)を認識。後の和算にとって決定的。1680「授時発明」。

当時、800 年の間に天象からのずれが大きくなった宣明暦からの改暦が検討さ れていた。会津藩、紀伊藩、甲府藩および京都土御門家などが改暦に関心。

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1645 「九数算法」

著者嶋田貞継は駿河の人(三島暦の関係者か)、後に会津 藩に仕える。太陰暦において19 年に7回のうるう月を入れるべきことが述べら れた。関に影響か。

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1639-1715 渋川春海

岡野井玄貞、松田順函、土御門泰福らについて暦法を学 ぶ。家綱、綱吉の碁所に仕えつつ暦法を研究。1683、中国で 1280 に成立した 「授時暦」にならった改暦案を上表、これが採用され 1685(-1754)「貞享暦」 に。1689 本所に天文台を設ける。

「授時暦」(地球の公転周期を365.2422日と見積り、それは100年で 1/10000日短くなるとした)を渋川は 理解できず、ただ盲従したのみであった。これに対し関は 「天文大成」を完全に理解していたが、観測によって定めるべき 数表を持たなかった。徳川家はあるいは渋川と関とに暦作成を競争 させたともいわれ、この改暦は関の負けを意味したという 。この後関には 数学における創造的な仕事がない。甲府藩の勘定吟味役として検地などに あたった後、幕府の直臣に。晩年三方ヶ原(現在の静岡県磐田市)の開発を 計画したともいう。

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1664-1739 建部賢弘

はじめ甲府で綱豊(のちの6代将軍家宣)に仕え、1707よ り幕府大納戸番補佐として家宣(在1709-12)・家継(在1713-16)・吉宗(在 1716-45)の 3 代の身近に仕える。関流和算の一番弟子。

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18世紀以降の日本の改暦

1716 吉宗将軍に。ただちに改暦を検討、渋川春海の弟子に諮り洋暦導入の方 針を決定。1721 洋書輸入の禁を緩める。1744 神田佐久間町に天文台。

幕府天文方・西川正休に作案を命ずるが西川の学力不足のため準備が遅れ、案 ができたのは吉宗引退後の1750であった。関流三代目の山路主住(建部家から 「天文暦算書」を受けた)がこれを補佐。しかし案ができたところで京都土御 門家が文句をつけ、西川が質問に答えることができなかった為に改暦の実権は 土御門泰邦に移る。土御門家は関流に全ての暦算書提出を命じ、仙台に居た弟 子の戸板保佑に写させ、「関算四伝書」500冊、「天文四伝書」400冊となった。 このうち前者は伊達藩預かりとなり公開され、のち宮城県立図書館所蔵となり 現在に至る。後者は戦後にいたるまで土御門家の秘蔵となり、暦法の探究とい う和算初期の重要な動機が長く失われた。関の直筆原稿は多く伝わっていない ので、関流に痛打を与えたこの事件が皮肉にも彼らの完全な仕事を現在に伝え る結果となった。

1757 家重、吉宗の天文台を廃す。1765 に家治が復活。

1798 「寛政暦」Kepler の理論に基づく中国の「時憲暦」によった。

1811 家斉、蕃書和解御用掛を設置、大槻玄沢ら。1856 蕃書取調所、1863 開 成所、1877より東京大学に。

%1811 家斉「蕃書和解御用掛」設置、大槻玄沢ら。後 1856 蕃書取調所、1863 %開成所、1877 東京大学に。 % %1843 Lalande の天文書 ``L'Astronomie'' のオランダ語訳などを渋川景佑、 %足立信頭が独学、「新法暦書」を著し、これに基き実質的に日本で作成した最 %初にして最後の暦「天保暦」に改暦された。 1843 「天保暦」。高橋至時の弟子渋川景佑、足立信頭が Lalande の天文書 ``L'Astronomie'' のオランダ語訳などを独学、「新法暦書」を著し、 これによって実質的に日本で作成した最初にして最後の暦。シーボルト事件 の高橋景保は景佑の実兄。伊能の日本地図を外国人に与えたとして処罰された。

1873 (明治6)新政府、うるう月に際する月給支給を回避する為、太陰暦から太 陽暦へ改暦。

1888、1900 の「うるう年をなしにする」を前にグレゴリオ暦に改暦して現在にいたる。

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参考文献

  1. 平山 諦「和算の誕生」1993、恒星社厚生閣。
  2. コペルニクス「天球回転論」みすず書房
  3. 石田憲一「宇宙の科学」1997、丸善
  4. 中山茂「日本の天文学」1972、岩波新書(緑)。
  5. ノイゲバウアー「古代の精密科学」恒星社厚生閣。
  6. Joseph Needham 「中国の科学と文明(1)」思索社。(原著1954)
  7. 司馬遼太郎「空海の風景」(上下)中公文庫。

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