(中)BC 50 ころ 「九章算術」一次の剰余方程式(Chinese remaindar theorem)など
(日)AD686 文武天皇(676-707)、飛鳥に占星台。陰陽寮に陰陽博士・天文博士・ 算博士・漏刻博士(水時計の専門家)をおく。吉凶を星で占うため。
1280 「授時暦」。一年を 365.2425日、ただし 100 年で 1/10000 日だけ短くなるとした。 (オマル・ハイヤムによった?なお正確には 2/100000000 日。) なお中国ではわかっている BC104 から AD1912 (グレゴリオ暦に改暦)までの間に 46 回改暦が行われた。
1271-1295 ころ マルコ・ポーロ、陸路から元に入り海路帰国。
1537-1606 アレッサンドロ・ヴァリヤーニ 1572 に来日、九州および安土で布 教。1581 信長に謁見、安土の絵図を賜う。1582、天正の使節団 4 人と共に離 日。安土ほか各地に「セミナリオ」(神学校)「コレジオ」(学院)設立。コレジ オにおける学科は、コレジオ・ロマノと同じく数学と天文学を中心とするもの だったという。
1582 信長横死。
1587 秀吉(-1598)のキリシタン禁止令。まだ徹底したものではなかった。
このころ中国では 1629 に Johann A. Schall von Bell(湯若望) と Giacomo Rho (羅雅各)とが「崇禎暦」を、1737 には Kepler の理論に基づく「(後)時 憲暦」を Iganaze K\"{o}gler (戴進賢)、Andrew Pereira が作っている。 1652 黄鼎著「天文大成」。なお、清の康熈帝 1655-1722 は Leibnitz と文通 があった。
1603 家康、将軍となりキリシタン禁止令一時緩める。
1552-1610 マテオ・リッチ 1582、明末期の広東に入り布教。ユークリッド他 を徐光啓と共訳=「幾何原本」:「幾何学」の名のおこり。またクラウディ ウスの Epitome Arithmeticae Practicae (原著1585) を訳す=「同文算指」: 東洋への分数記号(「零約」)の伝来。
1613 慶長の使節団(伊達藩、支倉常長ら)出発、メキシコ経由でローマへ。翌 11月パウロ5世と謁見。
講義の内容は、キリシタン禁止令後に書が焼かれたため必ずしも明かでないが、 自らが学んだ数学書・天文書の内容を復元するものであったろうといわれる。 最近の研究によれば、ここで学んだ者が次代に急激な発展をみせる和算の祖と なった。聴講者には「算用記」の著者(氏名不詳)、毛利重能(日本ではじめて 球の体積を論じた「割算書」の著者)、吉田素庵(「塵劫記」)、田原嘉明(「新 刊算法起」)、百川忠兵衛(「新編諸算記」)などがいたという。
以下平山説に依れば、共に駿河大納言に仕えた縁により祖父と関係の深い駿河 の豪商松木家で育てられ、そこで内外(=中国)多くの算書に接した。松木家は 戦国時代から記録にあり、紀伊国屋と上野寛永寺中堂建立で儲けた他、渡来物 も商った。15才ころに出た「九数算法」(暦学)「新編諸算記」(平方根および 立方根)、23 才ころに出た「算爼」(村松茂清著)に大きく影響されたであろう という。20 才ころから「天文大成」を学び、25才ころ上州に移り塾を開くか たわら数学を研究、30才ころ甲府藩に抜擢される。1674「発微算法」出版、以 後30冊あまりの著書。暦の作成という動機から、現代の線形代数学および微積 分法にあたる演算を独自に開発。年代としてもライプニッツやニュートンより 早かった。円周率を 17 桁計算。尽不尽(アルゴリズムが有限でおわるか無限 に続くか)を認識。後の和算にとって決定的。1680「授時発明」。
当時、800 年の間に天象からのずれが大きくなった宣明暦からの改暦が検討さ れていた。会津藩、紀伊藩、甲府藩および京都土御門家などが改暦に関心。
「授時暦」(地球の公転周期を365.2422日と見積り、それは100年で 1/10000日短くなるとした)を渋川は 理解できず、ただ盲従したのみであった。これに対し関は 「天文大成」を完全に理解していたが、観測によって定めるべき 数表を持たなかった。徳川家はあるいは渋川と関とに暦作成を競争 させたともいわれ、この改暦は関の負けを意味したという 。この後関には 数学における創造的な仕事がない。甲府藩の勘定吟味役として検地などに あたった後、幕府の直臣に。晩年三方ヶ原(現在の静岡県磐田市)の開発を 計画したともいう。
幕府天文方・西川正休に作案を命ずるが西川の学力不足のため準備が遅れ、案 ができたのは吉宗引退後の1750であった。関流三代目の山路主住(建部家から 「天文暦算書」を受けた)がこれを補佐。しかし案ができたところで京都土御 門家が文句をつけ、西川が質問に答えることができなかった為に改暦の実権は 土御門泰邦に移る。土御門家は関流に全ての暦算書提出を命じ、仙台に居た弟 子の戸板保佑に写させ、「関算四伝書」500冊、「天文四伝書」400冊となった。 このうち前者は伊達藩預かりとなり公開され、のち宮城県立図書館所蔵となり 現在に至る。後者は戦後にいたるまで土御門家の秘蔵となり、暦法の探究とい う和算初期の重要な動機が長く失われた。関の直筆原稿は多く伝わっていない ので、関流に痛打を与えたこの事件が皮肉にも彼らの完全な仕事を現在に伝え る結果となった。
1757 家重、吉宗の天文台を廃す。1765 に家治が復活。
1798 「寛政暦」Kepler の理論に基づく中国の「時憲暦」によった。
1811 家斉、蕃書和解御用掛を設置、大槻玄沢ら。1856 蕃書取調所、1863 開 成所、1877より東京大学に。
%1811 家斉「蕃書和解御用掛」設置、大槻玄沢ら。後 1856 蕃書取調所、1863 %開成所、1877 東京大学に。 % %1843 Lalande の天文書 ``L'Astronomie'' のオランダ語訳などを渋川景佑、 %足立信頭が独学、「新法暦書」を著し、これに基き実質的に日本で作成した最 %初にして最後の暦「天保暦」に改暦された。 1843 「天保暦」。高橋至時の弟子渋川景佑、足立信頭が Lalande の天文書 ``L'Astronomie'' のオランダ語訳などを独学、「新法暦書」を著し、 これによって実質的に日本で作成した最初にして最後の暦。シーボルト事件 の高橋景保は景佑の実兄。伊能の日本地図を外国人に与えたとして処罰された。
1873 (明治6)新政府、うるう月に際する月給支給を回避する為、太陰暦から太 陽暦へ改暦。
1888、1900 の「うるう年をなしにする」を前にグレゴリオ暦に改暦して現在にいたる。