18-19世紀:微積分法の発展、フランス革命、現代数学の曙

目次

ベルヌイ家ニコラ(1623-1708) 他
1707-1783 レオンハルト・オイラー
1715 イギリス人テイラー
1717-1783 ダランベール
1736-1813 ジョセフ・ルイ・ラグランジュ
1749-27 ピエール・シモン・ラプラス
1752-1833 アドリアン・マリー・ルジャンドル
1744-82 エマヌエル・カント
1769-1821 ナポレオン・ボナパルト
1768-1830 ジャン・バチスト・ジョセフ・フーリエ
1789-1857 オーギュスタン・ルイ・コーシー
1811-1832 エヴァリスト・ガロア
1802-29 ニルス・ヘンリク・アーベル
1804-51 カール・グスタフ・ヤコビ
1777-1855 カール・フリードリヒ・ガウス
ボヤイ父(1775-56)子(1802-60)
1815-97 カール・ワイヤストラス
1850-91 ソーニャ・コワレフスカヤ
1826-1866 ベルンハルト・リーマン
そして 20 世紀、...
参考文献

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ベルヌイ家

政治家ニコラ・ベルヌイ(1623-1708)の子孫に ジャック(1654-1705)、ジャン(1667-1748)、ダニエル(1700-1784)他 多数の数学者が出た。 当時の問題であったニュートン力学の解析、微積分法、確率論、最速降下線の問題 について互いに切磋琢磨した。保険数学のアイデアもあった。 「ロピタルの定理」の貴族ロピタルは、彼らに金を与え代りに彼らの発見を自分の 名で発表する契約をしその名を遺したという。

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1707-1783 レオンハルト・オイラー

18世紀最大の数学者。 父パウルはヤコブ・ベルヌイの講義を聞き、またその子を教えたという。 スイス(バーゼル)に生れ、 1720 バーゼル大学の哲学科に入ったあと1723 数学科に入る。 ジャック・ベルヌイの教えをうける。 1727、女帝エカテリーナ一世の創設したサンクト・ペテルブルクへ: ベルヌイ家の人々の推薦によりアカデミー会員となる。 このことが現在世界をリードしているロシアの数学研究の発祥と 考えられるかもしれない。 1730- ペテルブルク大教授。 1735、右目を失明。 1744 フリードリヒ大王によりベルリン・アカデミーが出来、数学部長として招かれる。 しかし数学を応用して作曲をしてみよなどといった大王の気紛れにつきあわされ、 大変であった。1766 エカテリーナ二世の招きで再度ペテルブルクへ。 このとき彼の荷を載せた船が沈没し、相当の手敲が失われた。 1771 左目に病を得、これを手術するが失敗。 完全に盲目となったが研究は続き、生涯に書いた論文はまだ全て出版されていない。 1783 の死の当日も 研究していたという。

一筆書きの可能性の問題からオイラー数を、 楕円の弧長の研究では弧長の等分の作図を、 数論では平方剰余の相互法則やゼータ函数の函数等式を発見し、 力学でも運動方程式を初めて陽に書いた他最速降下線の問題を解いた。 フェルマの大定理の3次、4次の場合を証明。 口下手だったともいうが、 その著作は思考の道筋を丁寧に述べており教育的暖かみがある。 1748 の「無限小解析学入門」では e = cosθ + i sinθ が述べられた他、無限級数や無限乗積をたくみに使って、 それらの間の様々な恒等式を発見。後世に非常に大きな影響を与え、 それらの真の意味を探る研究が現在も続いている。

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1715 イギリス人テイラー

その著の中でいわゆる「テイラー展開」を述べる。

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1717-1783 ダランベール

放蕩貴族の私生児として捨て子にされ、ガラス職人に育てられる。 中学から貴族としての教育を受けたが、その中学校に 2500冊もの数学書があったことが幸いした。はじめ医学を目指すが 成功せず数学に転向、ほぼ完全に独学であったらしい。 1739 にはじめての論文をアカデミーに提出、認められ24才で アカデミー準会員になる。(ただし無給。) デカルトの丁度一世紀ほどあとに活躍し、この間に発展した科学・技術を 総合する「百科全書」の編集に携わり、力学などの他序文も書き革命思想に 大きな影響。 研究の時間を失わないため、ペテルブルクやベルリンでのアカデミーの 雑用をなるべく避けて暮した。 質点の力学から剛体の力学への橋渡しを研究。「ダランベールの原理」。 また弦の振動や風の研究から偏微分方程式をはじめて考察。 有理関数の不定積分と関係して、 「代数学の基本定理」(多項式が複素数の中では 必ず因数分解できること)を発見したが、証明できなかった。 アイデアマンだったが、難解な幾何的発想に頼り、また競争と多忙のためか 明晰な表現に練りあげなかった。その方法は むしろオイラーやラグランジュによって万人に知られることとなった。

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1736-1813 ジョセフ・ルイ・ラグランジュ

トリノ生。父は裕福な役人だったが相場で破産したという。少年時代に 天文学者ハレーの論文を読み数学に開眼、 ニュートン、ライプニッツ、オイラーなどを学ぶ。 1754 からオイラーと文通、 「変分法」のアイデアを伝えオイラーから対等の扱いを受ける。 1755 王立砲術学校教官。翌年には20才でベルリン・アカデミーの通信会員に。 オイラーが 1766 にベルリン・アカデミーからペテルブルグに移ったあと、 ダランベールの推薦でプロイセン王フリードリヒ大王が招き厚遇、 論文を多数生産し国王の虚栄心を満足させた。 明晰かつ善良誠実だったといい、ゲーテにも尊敬されている。 主著「解析力学」を書いたあと、パトロンである王が亡くなったために、今度は ルイ16世によばれ(推薦は革命史に名を遺す Mirabeau)1787 パリアカデミーへ、 18人しかいない年金会員の一人になったが、学問から一時遠ざかる。 ルーブルに家を与えられ、マリ・アントワネットとも親交。 1788「解析力学」出版、翌年に革命。 王室に代って議会が彼に年金を支給。アカデミーも1795より「フランス学士院」 (L'Institute de France)となる。 革命以後はラヴォアジェ、ラプラス、クーロンらと議会の度量衡委員を勤め、 度々の政変の間も非難をあびることなく生き残る。1794 ラヴォアジェが (管財官の地位を利用した蓄財の故に)処刑されたのにショックを受けて フランスを去ろうとしたが、丁度幾何学者モンジュの発案により議会が エコール・ポリテクニクを設立、ここで教育にあたる(-1799)。 晩年はナポレオンが伯爵位を与え、死後パンテオンに祀られた。

無限次元の微分法というべき変分法によって「最小作用の原理」 を明解に定式化すると共に、 変数変換が代数的演算で自由に行なえる枠組を開発。 月や地球の摂動の問題に応用し、 ここにコペルニクス以後の天文学が 「単一の原理から天象を予言する」までに高められた。 「解析力学」では、剛体および流体の静力学(つりあい)と動力学(運動)が論じられ、 ニュートン以後の研究(特にオイラー、ダランベール)を体系化し、 図による発見法を廃し いわゆる運動方程式を解くことで統一的に物体の運動を論ずることが目標であった。 その為、この本には図が一つもないという。 「解析力学」はポリテクなどの標準的教科書となり、 これ以後近代の大学での物理学教育が制度として定着した。 方程式の可解性や数論の研究も重要。

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1749-27 ピエール・シモン・ラプラス

少年時代のことは語らなかったというが、ノルマンディの貧農に生れたらしい。 力学についてダランベールへ書いた手紙によって20才頃パリへ招かれ、陸軍学校の 教授となった。1773- アカデミー会員、ラヴォアジェと化学研究もした。 革命の後、ナポレオン政権で内務大臣に任ぜられるが 「政治にも無限小を持ち込む(緻密すぎた?)」とナポレオンに評された。 1799 上院議員、1803 副議長、1806 伯爵。 更にナポレオンが支持を失うと退位に賛成、新政府派となり貴族院に入るなど、 世渡りに長けた。 主著「天体力学論(全5巻)」1799-1825 で太陽系の諸惑星の摂動を扱う。 ナポレオンに献呈した際、 「神はどこに出てくるのか」の問いに「私は神を必要としません」と答えた話が有名。 また「確率の解析的理論」1812 において、今でいう「ガウス分布」を論じた。 これらの書は後の時代(ハミルトン、グリーン)に影響が大であった。 79才の時、コーシーが無限級数の収束の定義を発表すると、 「天体力学論」で使った全ての級数の収束を確かめるまで家に籠って「面会謝絶」 したという。

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1752-1833 アドリアン・マリー・ルジャンドル

トゥールーズの裕福な家に生れ、パリで良い教育を受ける。 18で数学と物理を終了し、学生時代すでに師匠の著に寄稿。 卒業の翌年ダランベールの推薦で陸軍学校教授となる(1775-80)。 その後アカデミーでラプラスの助手(1783)〜助教授(1785)となり、この間に 弾道学の論文でラグランジュに注目され、数論に入るきっかけとなったという。 1787、パリとグリニッジ両天文台の連絡委員に。 革命派であったが、革命により財産と地位を失なった。革命委員会に ラグランジュと共同で数学の教科書を書くことを命令された他、 人事などでもその方針と対立し、失職したり更には身を隠すなど、 不遇であった。

1798「整数論試論」、1830「整数論」。 オイラーが発見した「平方剰余の相互法則」をガウスとならんで初めて証明。 「素数の多さ」の定量的推測。「フェルマの大定理」の 5 次の場合を証明。 1825「楕円関数論」。 楕円の弧長の積分に由来する不定積分について詳細な研究を行なったが、 次の時代のアーベル、ヤコビ、ガウスなどによる「逆関数を考える」というアイデアに 気がつかなかった。 この逆関数は、円の場合には三角関数を与え、その正しい一般化となるものである。

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1744-82 エマヌエル・カント

「純粋理性批判」はニュートン力学が唯一可能な力学であることを、 人間が直観できる形式の 限界という視点から 「論証」を試みたものという。

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1769-1821 ナポレオン・ボナパルト

革命後期の不安な政情を安定化させるための軍統率者として実権を得る。 自身は数学を陸軍学校で習っただけだったが 数学に非常な価値を認め、数学者を多く登用。 権威づけのためにアカデミーを用い、 またその関係をエジプト遠征にも生かした。

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1768-1830 ジャン・バチスト・ジョセフ・フーリエ

現在の理学・工学いたるところで重要な、 「任意の関数が三角関数の和によって表わされる」 という「フーリエ展開」により有名。

仕立職人の家に生れ、8才で孤児となる。教会オルガン奏者に引きとられ、 同郷の婦人の好意で陸軍学校の為の予備校に入る。夜皆が寝静まったあとも 数学書を読みふけり成績は優秀であったが、 家柄のため陸軍学校には入学が許されなかった。 当時数学を教えたのは陸軍学校だけだったので、仕方なく修道院で独学する。 1789 の革命に大いに共鳴。郷里で民衆をアジって有名となり、 エコール・ノルマル(1895 設立)の教授となる。 1798、ナポレオンのエジプト遠征に随行。 この遠征はアカデミー会員約二百名のほとんどを伴った、 大規模な学術調査でもあった。 1801 までのこの遠征中に行政手腕を発揮、主要な一員として働き、「ロゼッタ石」を 青年シャンポリオンに示したのも彼であったという。 帰国後グルノーブルの知事となり道路の建設などにあたる。 1814、ナポレオンがエルバ島に長されるとラプラスと共に 王ルイ18世に忠誠を誓ったが、1815 ナポレオンはパリに進撃を開始。 フーリエは怯えたが、ナポレオンは彼を許し再び忠誠を誓わせた。 しかしナポレオンは3ヵ月程で失脚したため、今度は王に追放される。 餓死寸前となるが、 セーヌ地方の知事であったかつての教え子に統計の仕事をもらい助かる。 1816、その業績によってアカデミー会員に推薦されると、 翌年まで王は許さなかったが結局任命される。 1822、熱伝導の理論についての懸賞論文を発表。 この論文において「フーリエ展開」の考えを発表したが、 ラグランジュはこれに懐疑的だったという。当時学生としてパリで学んでいた ディリクレ(1805-59)が初めての理解者となり、 後に証明を与えまた数論への応用を発見した。

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1789-1857 オーギュスタン・ルイ・コーシー

中流の弁護士の家に生れ、その才能で少年時代すでにラグランジュに知られていた。 1805 ポリテクに入学、 卒業後ナポレオンの英国侵略計画の一部であったシェルブールの築港に配備される。 その傍ら研究し、3年後辞職してパリに戻る。学士院に提出した定積分と波の論文が 評価され、会員に推薦されると共にポリテクの先生になる。 そして微積分の教科書を著す (1821,1823)。これがその後微積の教科書の原形となった。 1830 の 7 月革命の際、新政府への忠誠を拒み国を追われ、 ドイツ、イタリアなどに暮した後 1838 パリに帰る。10年後公職追放が解かれ、以後ソルボンヌの教授に。 生涯で 789 編の論文を書いたといい、それがあまりに大量であったので 研究発表誌 Comptes Rendu のページ制限(4ページ以内)が設けられた。 論文の内容は玉石混交であったという。

級数の収束をはじめて明確に定義(いわゆるイプシロン・デルタ論法)。 また複素関数論を開発し、定積分の計算に応用。また微分方程式の解の 一意性や存在条件を研究。

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1811-1832 エヴァリスト・ガロア

「神々の愛でし人」。別紙参照。

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1802-29 ニルス・ヘンリク・アーベル

ノルウエーにて、 牧師の家系でかつ一時は代議士となるなど野心的人物でもあった父と、 裕福な商家の娘であった母の間に生まれる。 当時ナポレオンの影響でノルウエーは国家存亡の危機にあったという。 父は再選されてすぐに問題発言がもとで失脚し、アルコール漬けの日々の中 1820 に死ぬ。母も兄も心を病み、また貧乏も加わって悲惨であったという。 当時教会の学校にホルンボーという数学に明るい、若い先生が着任し、 友人となって以来数学の本を借りては読むようになった。 1821、ノルウエーでただ一つのクリスチャニア(現オスロ)大学に入学。 当時まだ人口1万人だった町に、10年前できたばかりであった。 数学の講義はなかったというが天文学教授ハンステンに親切にされ、また 弟と寄宿舎で同宿して生活。 この弟は酒で荒れた時期もあったが、アーベルの死後牧師になった。 そして1823 には 5次方程式の解の公式を 得たと信じたが、発表ののち誤りに気付く。 同年コペンハーゲンに旅行、当時北欧最大の数学者とされていたデーゲン教授を尋ね、 楕円関数論の研究を勧められる。また、2才下の恋人クリスティーネと知りあう。 1824、5 次以上の代数方程式のベキ根による解の公式が不可能であることを発見し、 簡単な印刷物を発表。 1825〜1827 にかけて、同士2人と科学修行のヨーロッパ旅行に出かけ、 ベルリン〜ウィーン〜イタリア〜パリ〜ベルリンを巡る。 ベルリンで土木技官クレレ(1780-55)と知りあう。 ちょうど彼は数学の研究を発表する場としての雑誌を創刊するところで(1826)、 これを手伝うことになり寄稿論文を書く。 ここで解の公式が不可能であることの詳細が述べられた。 ガウスに会う予定も立てたが、 紹介してくれるはずだったクレレが来られず、やめてしまう。 当時ガウスは数学界の王者であったから、その威光に怖れを感じ神経衰弱を 起したのではないかともいわれ、その後友人と南欧旅行へ。半年後にはパリに。 ここでは長く滞在し、 食費を削りつつラプラス、ルジャンドル、コーシー、フーリエ などの数学書を買いこみ、 また芝居見物をしつつ、楕円関数論を研究しアカデミーに投稿。 ガロアとは会っていない。 1826年12月再びベルリンに行き、そこで楕円関数論を完成させる。しかし 彼の論文がコーシーの引き出しに忘れられている間にヤコビによる同じ題材の 論文が発表される。かくして両者は「戦闘状態」に入り 研究の競争になるが、ヤコビは後年アーベルの才能をたたえていたという。 1827 帰国するも職なく、 貧困の中ヤコビとの競争で体力を消耗し、結核を悪化させる。 本人はまだ死ぬとは思っていなかったようだが、 クリスティーネとのデートのためにコペンハーゲンに滞在中彼女の家で死亡。 その数日後にベルリン大学に招聘するという手紙が届いたといい、 ガウスもその死を悼んだ。 コーシーが忘れていた論文に対し、その後アカデミーがヤコビと共に賞を与え た。

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1804-51 カール・グスタフ・ヤコビ

ポツダムの裕福な銀行家に生れ、ベルリン大に入りオイラーを独学。 1826- ケーニヒスベルグ大講師、のちに教授。 楕円関数論においてアーベルと成果を競う。 1829 「新函数の基礎」(Fundamenta Nova)で楕円関数論を詳述。 力学に現われる微分方程式を解くことにも力を注ぎ、 種々の「可積分」な場合を深く研究。 自分の発見を広め、学派を形成するために「セミナー」とよばれる 討論の形式をはじめた。 晩年は健康、財産、地位の全てを失い、不幸であったが、 ディリクレと終生交流した。

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1777-1855 カール・フリードリヒ・ガウス

「数学の王者」。 ブラウンシュヴァイクの煉瓦職人の子に生まれ、終生この地方の訛りがぬけな かったという。 3 才で父の計算間違いを指摘、 本人によれば「言葉より先に計算を覚えた」。 小学校のころ、9才にしてすでに等差数列の和の公式を見つけた話が有名。 先生がもてあまし、 同郷で小学校の助手となったばかりのバーチェルス(1769-36)が友達となり 一緒に数学を勉強、11才で二項定理(一般羃の場合)を発見。 先生が父を説得しギムナジウムへ進学、更にゲッチンゲン大学へ。 厳格だった父は「職人に学問は要らない」という意見だったが、 子が大学進学にあたりブラウンシュヴァイク公フェルディナンドに謁見を 許され、宮廷から奨学金を受けるに至ってやっとあきらめがついたという。 17才でニュートン、オイラー、ラグランジュを読み、 大学生となった18才に、統計的データからより正しい実験式を得る方法の 一つ「最小二乗法」を発見。言語学にも魅かれていたが、 19 才のとき正17角形の作図可能性を発見したことで数学に進むことを決意し、 この日から数学上の発見を綴った「日記」をはじめる。 父ボヤイともこのころ知りあった。 大学卒業後の 1798 再び故郷に帰り、公の庇護の下で 大著「数論研究」をまとめつつ小惑星の観測などもした。 1805 ヨハンナ・オストホフと恋愛結婚。 すでに天才大学者の誉れの高かったガウスの求婚に彼女は躊躇したという。 愛妻は 3 年後急逝、寂しさからすぐに再婚するも不幸な結婚となり、 1831 この妻も結核で亡くして以後は独身であった。

ブラウンシュヴァイク公はプロシアの対ナポレオン戦における 指揮官であったが、1806 この時の傷がもとで死亡。 ガウスは翌年ゲッチンゲン大からの招聘を受ける。 ペテルブルグからも招きを受けており、 そちらに行っていたら純粋に数学のみをやったかもしれないと、 後年語っている。 1810、彗星の軌道の決定などの天文学の業績に対し フランス学士院が賞を与えるが、フランスから賞金を受けとることを 潔しとせず、かわりとして時計が送られた。 このころ色消しにすぐれた「ガウス式レンズ」を設計。 また同年フランスのエコール・ポリテクやエコール・ノルマルを模した 大学をベルリンに作る案があり、アーベルと共に招聘されるが辞退。 1816から 新設のゲッチンゲン天文台長を併任。 講義の他に 1851 まで天体観測を続け、また 1818-22 には ハノーヴァ領の測量も任され多忙をきわめた。 政情の不安定から、大学の給料だけでは生活できなかったためともいわれる。 1812-22 の10年間が彼の創造の絶頂であり、 算術幾何平均や楕円積分の研究を通じて学生時代に発見した 楕円函数の理論の、惑星の摂動問題への応用なども発見。 また測量に際しては器具の改良から始まって、後には(1826)曲面論も創始。 このころの睡眠時間はわずか 2 時間ほどであったともいう。 一方、1820 年代には電磁気についてビオ、サバール、オームらの研究が 世に出ていた。これについても 1831 ウェーバーを物理学教授に招き、翌年より電磁気を共同研究、 その翌年には電信を実験。彼らの電信機はその後 1873 にヴィーン 万国博に展示された。 アレキサンダー・フォン・フンボルトとも交友、 科学政策について意見をかわした。 物理学、天文学の理論家としての存在も大きいが、生涯を通じて 数論を「数学の女王」と呼んで愛し、 「平方剰余の相互法則」について少くとも 7 種の別証明を 与え、また「代数学の基本定理」にも 3 種以上の証明を与えている。 1840 前後からは創造的活動は少なくなったが、ロシア語やサンスクリット語 を学ぶなど好奇心は衰えなかった。 またリーマン(1846)、デデキント(1850)らが学んでいる。 晩年は聖書に親しみ、その精神的孤独を自ら慰めた。

座右銘「数少なけれど熟したり」を印章に用いたといい、実際 発表論文の数はその発見に比して多くない。静かに研究のできる 時間とそのための社会の安定を何より欲し、自身の発見でも それを完全なかたちにできるまで寝かせておくのが常であった。 このため楕円函数論や非ユークリッド幾何についても、アーベル、ヤコビ、あ るいはボヤイ、ロバチェフスキーなどの発表によって「書く必要が無くなった」 と発表せずじまいであった。 この姿勢が逆に他者には必要以上の尊大と受けとられ、 孤高の(更には、意地悪な)人というイメージが当時から定着していた。 しかし例えばはじめの妻へのラブレター、そして彼女を亡くした際の嘆き、 ボヤイへの手紙、等等を読むと、 誰しも深い人間性を感じることであろう。

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ボヤイ父子

ハンガリーの人。 父ボヤイ(1775-56)は大学でガウスと知りあい、 ユークリッドの平行線公理の証明可能性について 共に語りあい、終生友人であった。 その後軍隊に入りしばらくは研究を続けるが、研究に見透しを持てず 中断。しかし子ボヤイ(1802-60)が、 父の知らぬ間に同じ問題を考えはじめ、父はこれを 「人生の浪費だ」として止めさせようとする。 しかし 1823、ついに非ユークリッド幾何を発見、 これを父がガウスに伝えると、ガウスもすでにそれは知っており、 「この発見については 私自身を誉めることになるので、息子さんを誉めることはできない」 という返事がくる。 ガウスの凄さを知っている父にはこれは十分な誉め言葉であったが、 息子にはそうでなく、自分の発見を横取りされたと思い自暴自棄になり、 死を早めた。ガウスは 15才から非ユークリッド幾何の可能性を考えて おり、1816 までにはまとまった結果を得ていたが、 ユークリッドの否定はカントなど哲学者などに真意を理解され難いと考え 発表を控えたのだった。

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1815-97 カール・ワイヤストラス

ドイツの貧しい官吏の子として生まれる。 親は政治家にするつもりでボン大学に入れたというが、 本人は好きな数学の勉強をし、幾何学者プリュッカーの講義ばかり聞いていた。 そのため卒業できず、(大検のような)資格試験を受けて教員免許を取る ことを目指す。免許はとったものの数学教師の空きがなく、ギムナジウムの 体育の先生になる。40才の時、教員相互の研究発表の順番が回ってきて、 周囲は鉄棒や平行棒の効能が述べられるのだろうと思っていたら 数学の論文であった。これはアーベルの研究の延長線上のもので、 これが認められクンマーによって 1956 にベルリン大学助教授に招かれた。 このクンマーもはじめはギムナジウム教師であったが、ヤコビなどの知り会いで 研究の価値を十二分に理解した。 ワイヤストラスは独学だったので、大学に招かれてしばらくは 周囲の才能の刺激に神経衰弱になったと語っているが、講義は 次第に人気を得て最高200人の聴講者が各国から集まったという。

微積分を基礎から厳密に構成し、いたるところ微分可能でない関数の例を示したことは 有名。こうした批判精神のみならず、楕円関数論や今でいうリーマン面の理論の整備に 貢献。

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1850-91 ソーニャ・コワレフスカヤ

ロシアの貴族クルコフスキ家の長女として生まれる。 子供のころ、父が壁の穴をいらない数学の本を破いて目貼りしていたところ、 そこに見たと同じ微積分の記号をやがて学校で学び、 「知ってる!」と感激し数学が好きになったという。 妹と共に過した子供時代を自伝に遺している。やがて自由に憧れ、 しかし女性の独立が認められない時代にあって当時流行の偽装結婚による方法 でロシアを離れる。 相手はウラデイミル・コワレフスカヤといい地質学を専攻していた。 ワイヤストラスに弟子入りを申しこむと断わる口実に問題を渡されたが、 これを解き彼を驚かせる。 女性の聴講は認められなかったので、 4年間ワイヤストラス宅に通って学んだ。 1874、現在「コーシー・コワレフスカヤの定理」 として知られる、多変数の微分方程式(「偏微分方程式」)の 初期値問題の解が一つであることを示して学位を得る。 研究による過労の為一時ロシアに戻り、普通の生活に戻ることを考え コワレフスカヤ夫人として社交界にデビュー、 容姿にも恵まれており有名となるが、娘を産んで再び数学に。 同じころ(1878)夫が事業に失敗し、救おうと努力するが意見が合わず別居。 ベルリンで再度研究生活に入るが、夫が自殺しショックを受ける。 なんとか立ち直って、「解ける」コマの方程式の分類の研究をはじめ、 新たに径が 2:2:1 の密度一様な楕円体の回転の方程式が「解ける」ことを発見。 やはりワイヤストラスの弟子で関数論が専門であったミッタク・レフラーが 学長をしていたストックホルム大の講師に招かれ、更に教授になった。 当時のことで物議をかもすが、研究のレベルは高くパリ学士院が賞を授与、 しかし授賞式の帰りに風邪をこじらせて死んだ。

彼女は文学にも意欲があり、自伝の他にも劇作など色々な試みをしているが、 最後の望みとして自伝を書いてもらう約束をミッタク・レフラーの妹で 友人の文学者アン・シャロット・レフラーと交し、 叶えられて日本語にも訳されている。

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1826-1866 ベルンハルト・リーマン

ハノーヴァーの貧しい牧師の家に生れ、跡を継ぐつもりで 1846 からゲッチンゲン大学ではじめ神学と言語学を学ぶが、 数学に強く引かれ転向。 1851 複素関数論で学位をとる。 指導教官ディリクレは、パリで学びフーリエとガウスの影響を受けていた。 1854、教授資格を得るための課題論文で積分論、 課題講演で「幾何学の基礎をなす仮説について」を発表。 後者は、3次元以上の曲った空間(「多様体」という)の研究を 初めて提唱したものであり、 この課題を与えた老ガウスを興奮させた。 これは後に相対性理論に用いられることとなる理論のはじまりであった。 1859、ディリクレの死をうけて教授となる。 結核を病みイタリアへ療養に出かけ、そこでベッチやベルトラミなどと交流。 1866、最後の体力を研究に捧げるため3度目のイタリア旅行。 しかし丁度プロイセン×オーストリアの戦争の勃発と重なり遠回りを強いられ、 体力を消耗。ミラノ北西のマジョレ湖畔で亡くなる。

多様体論を創始し、いわゆる「リーマン面」の研究を行ったほか、 素数分布論に複素関数論的方法を導入し、オイラーの計算 1 + 2 + 3 + 4 + ... = - 1/12 の一つの解釈を与えた。 その延長上にある「リーマン予想」は今も解けておらず、 現代数学における最大かつ重要な問題のひとつである。 物理学も深く理解し、電磁気の研究をウェーバーと行った ことがリーマン面の研究にも活きている。

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そして 20 世紀、...

この後、以下のような数学者が重要である。

ミンコフスキー
クライン
リー
ゲオルグ・カントル
ダーフィット・ヒルベルト
アンリ・ポアンカレ
アインシュタイン
エミー・ネーター
ヘルマン・ワイル
クルト・ゲーデル
アンドレ・ヴェイユ
グロタンディーク
ラマヌジャン

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参考文献

  1. 高木貞治「近世数学史談」岩波文庫
  2. 山本義隆 「古典力学の形成 ニュートンからラグランジュへ」日本評論社
  3. 山下純一 「ガロアへのレクイエム」 現代数学社、 「アーベルとガロアの森」 日本評論社
  4. アンドレ・ヴェイユ 「数論-歴史からのアプローチ」日本評論社
  5. シャーラウ、オポルカ「フェルマーの系譜-数論における着想の歴史」日本評論社
  6. van der Wearden 「代数学の歴史」現代数学社
  7. インフェルト 「ガロアの生涯 - 神々の愛でし人」(市井三郎訳)日本評論社
  8. 小堀憲 「数学史」 朝倉書店、「大数学者」新潮選書
  9. クライン「19 世紀の数学」(上野健爾他共訳) 共立出版
  10. S.G.ギンディキン 「ガウスが切り開いた道」シュプリンガー東京
  11. ダニングトン「ガウスの生涯」東京図書
  12. 河田敬義「ガウスの楕円函数論」上智大学数学講究録
  13. 寺阪英孝 「非ユークリッド幾何の世界」 講談社ブルーバックス
  14. 小野理子「女帝のロシア」岩波新書
  15. 野上彌生子訳「コワレフスカヤの生涯」岩波文庫
  16. 河野健二「フランス革命小史」岩波新書
  17. 「数学辞典」(第3版)岩波書店
  18. ラウグヴィッツ著(山本敦之訳)「リーマン・人と業績」シュプリンガー東京

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