時空を格子で近似する格子ゲージ理論は、強い相互作用をするハドロンを理論的に解析する最も有力な手段である。近年、この分野においてYang-Millsグラディエントフローと呼ばれる手法が注目されている。この方法では、古典作用関数の場の変数によるグラディエントを外力とする拡散型発展方程式によって生成される、フロー時間をパラメータとする場の演算子の族を考える。このようにして生成された演算子の相関関数は、摂動論の全次数において有限になることがM. Luscher と P. Weisz によって証明されている。従って、この手法で生成された演算子は、有限で正則化やくりこみ処方によらない、いわゆる普遍的な物理量になる。この手法を用いることにより、格子ゲージ理論において連続極限のよく定義された物理量の直接的計算が可能になるため、ハドロンの電弱相互作用過程の記述や、有限温度下のクォーク・グルーオン系の静的、動的性質の解析など、複雑な繰り込みを必要とする問題への応用が期待されている。また、Wilson繰り込み群との密接な関係が示されている。
鈴木博氏は、上記のYang-Millsグラディエントフロー法を、エネルギー運動量テンソルを用いて定義される物理量に適用するための理論的定式化を行った。すなわち、くりこまれたエネルギー運動量テンソル演算子とそれに対応する短いフロー時間をもつ演算子族の関係を与える漸近展開係数を、摂動の1次のオーダーで計算し、その結果、くりこまれたエネルギー運動量テンソル演算子の普遍的な表式を導出した(文献1)。また、牧野広樹氏との共同研究においてフェルミオン場に対するグラディエントフロー法の理論的定式化も行っている(文献2)。
エネルギー運動量テンソルは、場の理論における最も基本的な物理量である。時空並進対称性に伴う保存カレントであり、時空の対称性に関わる物理的な情報(エネルギー、運動量、角運動量、圧力、応力、粘性、比熱、繰り込み群関数など)を担っている。しかし、連続な時空を不連続な格子で近似する格子ゲージ理論の手法においては、並進対称性が破れており、エネルギー・運動量テンソルを直接構成することはこれまで非常に困難であった。エネルギー運動量テンソルの普遍的な定義を与える上記の研究結果を用いれば、この困難を克服することができる。実際、この結果は直ちに浅川正之、初田哲男、伊藤悦子、北沢正清、入谷匠諸氏との共同研究によって有限温度格子QCDに応用されており、その有効性が検証されつつある(文献3)。これがうまくいけば、QCD物質の状態方程式や輸送係数の導出など、中性子星の性質や重イオン衝突を理解する上で欠かせない情報が得られると期待されている。また、その応用の可能性は格子ゲージ理論にとどまらず、今後の展開が大いに期待される。この研究業績は、理論的に興味深くかつ応用上も有用であり、まさに木村賞にふさわしい、a fine piece of work と言える。
鈴木博氏は以上の受賞対象研究のみならず、場の理論の幅広いテーマに亘って多くの研究業績を挙げてきた。わが国を代表する場の理論研究者の一人として、この分野の研究においてリーダーシップを発揮してきており、木村賞の受賞者としてふさわしい研究者である。
業績に関連する主要な論文のリスト