物理学の営み


国広 悌二

1999年12月4日改訂


1. はじめに

この論考では、基礎科学としての物理学の考え方と方法および周辺分野との関係 について紹介することを目的としている。 数式を一切用いずに、物理学とは何を 問題にし、どのような方法論的特徴を持っているか、また、技術との関係はと いう問題を歴史の中に題材を求めて解説する。文科系、理科系を問わず出来るだけ 多くの人に読んでいただきたい。

物理学というと、例えば、高校で物理学を習った人は、 摩擦を受けながら斜面をすべる物体の運動を公式をあてはめて解いたことを 思い出し、おもしろくも何とも無いという印象を持っているかもしれない。 また、文科系で物理を学んでいない人は まったく自分とは別世界の事項と思い込んでいるかも知れない。 しかし、物理学の誕生の過程を少し調べてみれば分かるように、物理学は 人間がその中に存在する客観的な存在としての宇宙およびその中の物質の構造や 運動様式を理解することを目指して生れたのである。つまり、物理学は 客観的存在としての自然の認識をその第一義的な目的としている。このような学問は 17世紀のニュートン力学の成立によって開始された。 第二節でニュートン力学の意味と意義を歴史的な文脈の中で腑分けしてみる。

ここで、学問の深まりにより 人間の経済活動や社会活動も自然過程として把握可能になっていくことに 注意しておく。 実際、最近では株や証券の動きをもその対象とする物理学の分野 「経済物理学(Econophysics)」が成立しつつある。このような対象の広がりの背景には 19世紀末に生まれた統計物理学の発展がある。統計物理学は自然現象の中に確率的な 過程を同定し、確立論を用いてその対象の性質を解明する物理学の分野である。

ベーコンのいうように「知は力」であり、客観的自然法則および物質の構造の解明は 画期的な工学的応用を引き起こす。それで、上では「第一義的には」 と断り書きを入れた。 たとえば、ダイナモ発電機は ファラディの電磁誘導の法則の応用であり、マルコーニの無線はマクスウェルに よる電磁波の存在の理論的予言およびそれに続くヘルツによる実験的証明により 確立した電磁波の応用である。 また、工学からの要請から物理学の発展が促されることも多い。その例としては、 熱機関の効率を改善する課題から熱力学が生れたことや鉄鋼業における溶鉱炉の 温度を精確に決定する必要性から量子力学が生れたことなどを挙げることができる。 これらについては第三節で詳しく述べる。

そして、ここ50年ほどの特徴は 工学的応用の発展と基礎科学としての物理学の発展がますます渾然一体と なって行われていることである。 ハーンとシュトラスマンによる原子核分裂の発見(1938年)から原爆の開発 (1945年)までの間はわずか10年足らずである。 半導体の発見および理論的解析と トランジスターの発明は渾然一体となって進んだと言ってよいであろう。 最近の例では、高温超伝導がある。これらは技術の発展の為には基礎的研究が不可欠 となっている最近の技術開発の傾向の現れの一つの例に過ぎない。

第4節では最近の物理学研究の一端を知ってもらうために、私の研究を簡単に 説明した。これは、原子核やクォークを含む素粒子の世界の物理の簡単な紹介 になっている。


2. ニュートン力学の意味 --- 宇宙観の変革と物理学の方法の確立

力学は天体の運動と地上の物体の運動の統一理論として成立した。それは、物体の 運動と力を結び付ける法則体系である。力学の成立過程はアリストテレスの 宇宙観及び運動論から脱却していく過程であった。


2.1運動の三法則の意味

よく知られているように、ニュートンは物体の運動の規則を3つの法則 「運動の三法則」にまとめた。


2.1.1慣性の法則とガリレイ --- 物理学の方法

運動の第一法則は、力が働いていなくても物体は運動を持続し得ることを宣言したも のである。摩擦がない理想的な状況(ドライアイスの運動や、宇宙空間での物体の 運動)では、最初に速度を与えてやれば、物体はずっと運動を続ける。これは、 「慣性の法則」と呼ばれる。「慣性の法則」の発見は 歴史的には運動と力の関係についての考えの画期的な変革であった。

そのころまで支配的であったアリストテレスの考えによれば、地球の中心に向かう 落下運動以外は自然な運動ではなく、従って、強制された(forced)運動ででなければ ならない。すなわち、(強制)力を受けているはずなのである。

この考えを否定する「慣性の法則」が成立することを最初に述べたのはガリレイ (1564ー1642)であった。 ガリレイはこれを示す為に巧妙な器械を作って実際の物体の運動を 観察し、記録した。すなわち、「実験」を行った。また、そこから一般的な結論を 導くために数学を活用した。そして、摩擦など偶然的な条件 で変化し得るものを捨象した極限的な状況、すなわち、「理想的な状況」 で成り立つ事実を法則として定立した。 この実験の行使、数学の使用そして理想化という物理学の方法の本質的 な要素はガリレイによって創められたのである。物理学の方法はガリレオの方法であ ると言える。

実験と数学の使用の重要性は誰にも納得しやすいであろう。 「理想化」は物理学の方法の特徴として一般にあまり認識されていないかも しれない。しかし、非常に重大な内容を持っている。この理想化を含む 物理学の方法で得られる世界像は、形式としてはプラトンのイデア論の 具体化とみなすことができる。また、この理想化が自然認識の方法としてなぜ 有効かということはそうあたりまえではない。 例えば、最近はやりの「複雑性の科学」 の対象は単純な理想化がうまくいかない例であると考えることもできよう。 「理想化」がうまく行く場合は、その現象に関与しうる自由度の持つエネルギー のスケールが十分分離されているという幸運な場合であるとも言える。


2.1.2 力と運動 --- ガリレイのまちがい

しかし、ガリレイにも限界がある。彼は力が働いていなくても運動があることを 明らかにした。それでは、物体に力が働くと物体の運動はどうなるであろうか? この問題に対してはガリレイオは正しい答えを与えることができなっかた。 正しい答えを与え、力と運動についての法則を体系化したのがニュートンなのである。 答えはニュートンの運動の第二法則である。 その内容は簡単に言うと「力は速度を変化させる」というものである。 物体の運動は速さとその運動の方向で特徴付けることができる。同じ速さでも方向が 異なれば別の運動である。 物理学では速さと方向をいっしょにした概念を「速度」と呼んで速さとは区別する: 速さ$+$方向$=$ 速度。 各時刻での速度の変化の度合いを「加速度」という。力は加速度の起源である。


[宇宙観と力学の法則]


実は、厳密に言うと「慣性の法則」の定式化においてもガリレオは誤っていた。 実際、彼は力が働いていないとき物体が続ける運動は「等速円運動」であるとした。 すなわち、同じ速さで同一円周上を動く運動である。これは間違いである。 正しくはニュートンの言うように、力を受けていないとき物体が続ける運動は 「等速直線運動」である。 力を受けないとき速度が一定になるというのが正しい。等速円運動では速さは一定だ が、方向が刻々と変わっている。 方向が変われば速度も変わるので力が働いている はずである。確かに、ハンマー投げの選手は強い力でおもりを引っぱるので 筋肉隆々である。

ガリレイとニュートンの差は何から生れたのであろうか? もちろん、世代の差が ある。ガリレイオが亡くなって1年ほどしてからニュートンが生れている。 この間にデカルト(1596ー1650)やホイヘンス(1629ー1695) がいる。しかし、より重要なのはジョルダノ-ブルーノかも知れない。 彼はローマ教会の公式的宇宙観である有限宇宙論をまさに神の全能性を根拠に否定し、 無限宇宙論を擁護しヨーロッパ中に広めた。最後には異端を理由に火あぶりの刑で 処刑された。

等速直線運動は無限宇宙では続けさせることができるが、有限宇宙ではいつか「端」 に当たるので難しい。等速円運動ならば、有限の宇宙内でもいつまでも続けさせる ことができる。


2.1.3 作用-反作用の法則と運動量保存則

ニュートンの運動の第三法則は「作用-反作用の法則」と呼ばれ、 複数の物体が互いに力を及ぼしあっているときに 必要になる法則である。ここでは詳しくは述べない。一つだけ興味深い事実を 述べると、この法則から運動量保存則という法則が導かれる。もう少し高い立場 に立つと、この保存則の 存在は空間の並進対称性の反映であることがわかる。(ここで、「少し高い立場」 というのは、19世紀にフランスのラグランジュの創始した「解析力学」の ことである。) 原子や分子の世界の基本法則である 量子力学では力の概念が妥当性を持たず、したがって、「作用-反作用の法則」は無 いが、運動量保存則は存在する。ついでに付け加えると、角運動量保存則 は空間に特別な方向が無い(空間の等方性)の反映であり、エネルギー保存則は 時間の原点の取り方に物理法則よらない(時間の一様性)の反映である。


2.2 万有引力の法則のもたらした宇宙観の変革

ニュートン力学のもう一つの柱は重力についての法則である。これは、万有引力の 法則と呼ばれる。この法則の内容は以下のようである。すなわち、 質量を持つすべての物体の間には互いの方向に引き合う力が働いている。 その力の大きさは物体間の距離が大きいほど小さく、二つの物体の質量の積が 大きいほど大きくなる。この力が地球上での重力(重さ)の起源であり、また、 惑星が太陽のまわりを回り続ける駆動力になっている。

この法則の特徴は二つある。一つは、この万有引力は地上の物体と地球の間にも、 月と地球の間にも、そして、天の世界の太陽と地球を含む惑星の間にも働く普遍的な (universal)な力であるということである。 このような、月より下の地球近傍の法則と太陽など天体の法則が同じでありうるという 観念はアリストテレスの宇宙観からは絶対に出ないはずのものである。 アリストテレスの宇宙観では、地球が宇宙の中心でそのすぐ上に月があり、それより 上は天(heaven)であり、月下の世界(われわれ人間の世界) と天の世界は峻別され両世界に共通の普遍的な法則など有り得ない。 この万有引力の法則の成立はそれまでの宇宙観の 根本的変革をもたらしたのであった。


[万有引力の法則はオカルト?]

万有引力の法則の二番目の注目すべき点は、物体間の力を「遠隔作用」として 表現している点である。 すなわち、この法則によれば隔たった位置にある二つの物体 は何にも媒介されることなく瞬時に互いに力を作用し合うことになっている。 これはまるで魔法の作用のようで非常に不思議なことである。 だから、後に科学と呼ばれる新しい学問の理念を定式化したデカルトやその流れを 汲む大陸の学者がニュートンのこの重力理論を「オカルト」だと非難し反対したのは 根拠のあることである。力が常に近接したもののみに作用しそれが徐々に伝わって 遠方に達するとする「近接作用」の形式で重力を説明する理論が生れたのは 20世紀になってからである。それがアインシュタインの「一般相対性理論」である。 納得のいかないことは納得いかないとすることが大切ということである。 現在の理解では、重力自身がそれほど強くない 領域においてはニュートンの重力理論は十分精度のよい近似になっていることが 分かっている。


[補]

アリストテレス(B.C. 384 --- 322)はプラトンの弟子で様々の学問分野を創始し、 また、体系化したので「万学の祖」と言われている。その業績は哲学、政治学など 人文、社会科学から生物分類学、宇宙体系論までに及ぶ。ただし、彼は 自然学の道具として数学を用いることを嫌った。

彼の自然学は生物分類学において成功した。鯨が哺乳類であるとしたのは彼 によるとされている。彼の自然学は宇宙と物質についての壮大な大統一理論である。 すなわち、物質の理論が宇宙の構造論と不可分に結びついている。これは、最近の 素粒子論的宇宙論と論理構造は同じである。極微の素粒子の性質が大宇宙の構造、進化 に結びついている。ただし、アリストテレスの大統一理論には実験的あるいは観測的 基礎がはなはだ乏しかった。


3. 物理学と工業技術


3.1 第一次産業革命と熱力学

第一次産業革命はJ.ワット(1736--1819)の蒸気機関で象徴されるように 「熱の動力への変換」が技術的 に可能になった事がその物質的基盤になっている。 そこで問題になったのは「エネルギー効率」の問題である。 用意した熱からできるだけ多くの動力を取りだすにはどうすれば よいかという問題である。 また、そもそも与えられた熱から取り出せる動力には人間 の技術では及ばない自然の法則としての限界があるのかどうかという問題もある。 このような問題提起をしたのは、フランス人のS.カルノー(1796--1832)である。 こうして、熱力学と いう物理学の分野が生れていった。

そこではまず、「熱はエネルギーの一形態であ り、動力(力学的エネルギー)と換算可能である。」という「熱力学第一法則」の発見 という成果を生んだ。これが熱の学問の基礎である。 その成立過程では、メイヤー、ジュール、 ヘルムホルツが重要な役割を果たした。 そして、「人知では如何ともし 難い」効率の上限の存在は「熱力学の第二法則」として洗練された。これから更に 「エントロピー増大則」が導き出された。ここでは、クラウジウス、トムソンが 本質的な役割を果たした。「第二法則」は「冷たいものから熱いものに 「「自然」」に熱が移動することはない。」いう大変常識てきなものである。この ような誰でもが知っている自然の示す傾向が「エネルギー効率」の上限の存在の背景 にあるということはおもしろい。

この熱現象をニュートンの力学から導くにはどうすればよいのか、あるいは、 どのような条件のもとに熱現象と力学は共存しうるのかを考えるなかで生れたのが 「統計力学」である。その創始者はイギリス人のマクスウェルとオーストリア人の ボルツマンである。彼らによって「確率」の概念が物理学に導入された。ニュートン 力学と確率を合体したものが統計力学である。

実は、この学問成立の背景には実は物質の 構造についての「新しい」考えである「原子論(atomism)」があった。 (原子論の系譜については後に少し詳述している。) それは、自然を領域ごとに成り立つ局所的な理論のつぎはぎとしてではなく、 できるだけ統一的に理解しようという志向でもあった。統計力学が無ければ、熱の 物理学と力学は無媒介的に存在するのみである。 原子および分子の存在を仮定し、それらの運動 が力学により支配されるとして初めて熱現象と力学が結びつく。そしてそのためには 確率の導入が不可避であることをボルツマンは見抜いたのである。彼はエントロピー を分子に関わる確率で表す式を導いた。

ボルツマン以後、つまり、物理学の前線が広がって行く中で、この自然の統一的な 描像の追求は物理学の一つの大きなスローガンとなった。このことを、桑原武夫は 「物理学帝国主義」と呼んだ。


3. 2 量子力学はドイツ鉄工業の産物

工学からの要請により生れた物理学の理論に量子力学がある。量子力学は 19世紀と20世紀の変わり目にドイツで 生れた。当時ドイツは日本やイタリアと同様19世紀半ば過ぎに統一を果たし、 遅れてきた資本主義国として急速に工業が発展していた。特に、ルール地方で 産出される鉄鋼と良質の石炭をもとに大いに鉄鋼業が盛んになっていた。 よりよい鉄鋼を作るには鉄鋼の温度を精確に知ることが重要である。しかし、 溶けている鉄は何千度もの温度である。このような高温を計る温度計はなかった。 ガラスは溶けてしまう。石油やアルコールは燃えてしまう。当時は職人の感に頼る しかなかった。それは鉄鋼の色を見るのである。赤いときはまだ温度が低い。 だいだい色、黄色、緑...白となるに従って温度が高くなる。その微妙な色の変化を 見るのである。

そこで問題になるのが色と温度の定量的な関係である。物理学的には、 鉄鋼の「色」は鉄鋼から出る 光の波長毎の強度分布である。光の色は波長に対応する。長い波長の単色の光は赤く、 短い波長の単色の光は紫である。 物理学としては与えられた温度の空洞に分布する光の波長毎の強度分布関数を求める ことが課題となる。 これは、丁度うまれたばかりの熱力学や統計力学で解けるはずの 問題であった。しかし、当時の一流の学者が計算してみるととんでもない結果が得 られてしまった。分布関数が発散してしまうのである。無限大の強度の光が出てく る!? どこか間違っている、それは誰にも明らかであった。 しかし、当時の物理学を 正しく適用すれば必ず上記のとんでもない結果が得られてしまうのである。

1900年、M.プランクは熱力学の公式を少し変えてみた。 すると、強度分布に発散はなくなり実験データを 再現することができた。しかし、その変更はそれまでの物理学からは 出てこないものだった。背景に何があるのか? すなわち、その実験的には正しい式を どのように統計力学から出すか? 「絶望的な」アイデアが彼の頭に浮かんだ。それは、光は与えられた波長 に対し持ちうるエネルギーは連続的な値をとることはできず、 ある最小値の整数倍のみを取りうるというものである。 この仮定に基づいて統計力学を用いて計算すると、これが、 正しく実験を再現する式を与えた。 エネルギー量子発見の瞬間である。 これは、物質だけでなくエネルギーにも「原子論」が成立することを意味する。 しかし、エネルギーは必ず物質が荷うことを考えれば極自然なことである。 ただし、光も粒子と考えれば。実際、 その後、このプランクの量子論は光はエネルギーだけではなく 運動量もとびとびの値をとる粒子(光量子、光子)であるとする アインシュタインの光量子理論がうまれた。1905年のことである。 そして、1925、6年に量子力学が生まれた。


[補: 原子論の系譜]

原子論的な考えは古代ギリシャ時代の自然哲学の中にも見られる。紀元前6ー7世紀 に、世界(宇宙)の起源やそのなかの変化を擬人的な神がみの活動および 意志の現れとして記述する神話から脱却して、自然現象の原因を自然そのものの中に 求め自然に対する統一的且つ体系的な理解を目指す「自然哲学」が成立した。 その創始者は小アジアで活躍したターレス(B.C. 625-546)である。 彼は次のような考えを述べたと言われている。 (1)すべての物は神神の力ではなく、 自然自らの過程によって生じた。 (2) 万物には素(もと;アルケー)があり、 それは水である。

ここには自然の客観性および自然の統一性の根拠としての万物の素(もと)の 存在が宣言されている。 現代の科学と比べると、しかし、自然哲学には (1) 客観的検証可能性、 (2)実験の行使、 (3)数学の使用、 とう面が欠けている。一言で言えば、思弁的である。

思弁的でありながらも現代的観点から見て 最も刺激的な考えがレウキッポス、デモクリトス(B.C.460 --- 370)の創始した 「原子論」である。これは、19世紀イギリスの人ドルトンの原子論(1808)の 思想的背景に なったし、現代の素粒子物理学に典型な「要素還元的」考えの嚆矢と言える。 彼らは物質は不可分で不変である微粒子から構成されているとし、その微粒子をアトム と名づけた。 そもそも、「アトム」とはatom= a-tomと書かれ、「tom」とは「切断」の意、 最初の[a」は否定の接頭語である。彼らは、事物の発生、消滅はアトム同士の衝突に よる結合、分離の過程であるとした。 このようなイメージは現代の化学反応論や 原子核や素粒子の反応のそれと酷似している。


4. 原子核や素粒子の世界

物理学は自然科学であり、地上の現象だけでなく宇宙の現象(天体現象) をもその対象とするのは勿論である。 そのような現象の紹介として中性子星を取り上げよう。それは同時に原子核や 素粒子の世界の一つの紹介にもなるであろう。

中性子星とは、半径が10km程度でありながら、太陽の1.5倍ほどの質量を持つ大変 コンパクトで且つ高密度の星である。その密度は1${\rm cm}^3$で10億トン程という とてつもないものである。 これほどの高密度のために、物質を作って いる原子がすべてつぶれてしまい、星全体が一つの大きな原子核になってしまって いると考えられている。 しかし、原子核としてはあまりに大きいので正の電荷を持った陽子は互いに 電気的に反発しエネルギー的に不安定のため、ごく表面を除いてほとんど中性子のみ からできている。中性子は陽子よりほんの少し質量が大きく、電気的に中性の 粒子である。

中性子星は太陽の何倍もの質量を持った恒星が燃え尽きた後に起こす大爆発 (「超新星爆発」という)の残骸として生まれる。たとえば、 かに星雲はおよそ千年前に 起こった超新星爆発の跡で、その中心には「クラブパルサー」と呼ばれる中性子星 が存在している事が分かっている。「パルサー」と呼ばれているのは、高速で 自転して強度の電磁波を間欠的に(パルス的に)放出しているからである。 中性子星の存在は1930年台に理論的に予言されていたが、1960年台後半に パルサーとしてイギリスの天文学者によって発見された。

現在では数多くの中性子星が同定され、その半径、質量、表面温度、その冷却の仕 方、自転速度の変化の仕方等、多くの観測データが蓄積されている。 これらのデータから、超高密度の中性子星の内部の様子についてある程度予測するこ とができるようになってきた。 例えば、中性子星の内部では中性子が集団での超流体になっていると理論的 に予想されている。 また、素粒子の中間子が中性子と協力して 密度が層状に変化している状態(パイ中間子凝縮状態)がより内部で実現されて いるという予想もある。これらは超高密度の物質が 示し得る興味深い現象の例である。

ここで問題となっているような高密度の状態は高エネルギー重イオン衝突の 中間状態としても実現されると期待されている。 また、 より高エネルギー(超相対論的な)重イオン衝突では 原子核を構成している核子(陽子と中性子の総称)自体が「溶けて」、 クォークやグルオンのスープ、いわゆるクォーク-グルオンプラズマ (QGP)が生成されると期待されている。クォークは核子や中間子を構成する 粒子である。核子は3個のクォークで出来ている。中間子は1個のクォークと 反クォークからできている。グールオンはそれらを結び付けている粒子である。 高温、高密度になると核子や中間子の中に閉じ込められて いるよりも、解放されて他の核子や中間子の中にいたクォークやグルオンと行き来する ほうがエネルギー的に有利になると考えられる。 このような状態を創るため アメリカのブルックヘブン国立研究所のRHICや ヨーロッパのCERN(ヨーロッパ原子核研究センター)のLHCという巨大な 加速器の建設が計画され、しばらくするとその実験結果が出てくる段階である。

また、宇宙初期にはQGPは当然実現していたので、QGPの研究は宇宙初期の 状態を明らかにする研究でもある。 クォーク-やグルオンの力学はQCD(Quantum Chromo Dynamics,量子色力学) で記述される。

QCDではクォークはほとんど質量を持たない粒子として記述されるが、 実際に核子の中に存在するクォークは何十倍もの質量を持っているかのように 振る舞う。また、湯川博士がその存在を予言したパイ中間子の性質を 説明するためにも、クォークが大きな質量を獲得していると要請する必要が ある。この矛盾はQCDの持つカイラル対称性の自発的破れという概念に より自然に説明することができる。カイラル対称性は難しい概念なので ここでは説明しない。 カイラル対称性の自発的破れとは真空の相転移の 一種である。

ごく最近では、カイラル対称性が回復している ことを実験的に検証するための理論的および実験的研究が非常に 興味を持ってなされつつある。 それは、たとえばシグマ中間子を原子核中に創り、媒質中 でのシグマ中間子の性質の変化を探ることにより調べることができる。 ここでシグマ中間子というの は今問題になっている相転移の秩序変数の量子論的な揺らぎ に対応する素粒子である。 この素粒子は現在のところその存在が確定していないが、 その存在の確定は素粒子の世界の真空を理解する上で決定的に重要であると 考えられる。

5. おわりに

ここまで、基礎科学としての物理学の考え方と方法および周辺分野との関係 について紹介してきた。 しかし、紙面の都合で割愛した論点も多い。たとえば、物理学研究における数学、 コンピュータの役割である。 また、最近はやりの「複雑系の科学」についてもその意義だけでなくその落とし穴に ついても述べるべきことがある。これらは、認識するとは何か(分かるとはどうい う事か)という問題や数学的現象論の意義と限界という問題に関わっている。 しかし、ここでは上に言った理由で、これらが大変重要な問題であることを 指摘しておくだけに留めておく。


参考文献

広重 徹著 「物理学史 I, II」 (新物理学シリーズ 5, 6 培風館)

朝永 振一朗 著「物理学とは何だろうか 上、下」 岩波新書 黄判 86 (岩波書店)

湯川 秀樹 、井上 健 責任編集 「現代の科学 I」 (世界の名著 79、中央公論社)