瀬地山澪子さん 武谷三男先生 夫 坂東弘治 久保未沙さん 思い出ねっと トップページ 開設経緯 思い出ねっと みんなの思い 思い出ねっと 掲示板 坂東のページへ戻る mail to Masako Bando




 

   笹本淳子さんは、旧姓堤淳子さんである。物静かでいながら、いざというとき頼りになる存在であった。彼女も法学部、久保さんは 色々な学部の人と仲よしであった。もう何年前になるだろう。久保さんが私を尋ねて名古屋に遊びにこられたことがあった。私が愛知大学に転勤して間もない頃で、当時私は情報処理センターの副所長の仕事をしていたので、色々とIBMの久保さんに教えてもらうことが多かった。そして、愛知大学の情報処理センターでは新しいセンターができて、仲間といっしょに情報処理教育をどう工夫したらいいか、熱気にあふれて議論していた頃であった。情報関係の仕事をしておられた北脇さんもいっしょに、愛知大学のセンターを見学してもらったり、情報教育の議論をしたりした後で笹本さんとおちあって、名古屋コーチン料理を食べに行ったのであった。そのころの写真があるのでそのうちにこの中に載せたいと思っている。 そして笹本さんは名古屋の裁判官として活躍されていることを知った。
 此の間家捜しして、このときの久保さんの写真がでてきたので、これも編集してホームページにのせるつもりである。
 名古屋の近くに住んでいるのだから、いつか笹本さんと又会いたいなと思いながらどちらもバタバタした生活でまだその約束を果たしていない。
 笹本さんから追悼文書がファイルで送られてきたのでここにのせることにする。笹本さん、ありがとうございました。
 
 
 あのいつも落ち着いている脇山さんが京都駅で私の顔をみるなり、「昨日鶴岡から出てくるとき、なんだか気になるので久保さんに電話かけてやったら、電話が局預かりというのよ。なんだと思う?」と言ったのは、今年(2000年)の8月6日でした。2人とも彼女の健康がもう一つ良くないことは知っていましたが、まさか亡くなられたなどとは知りませんでした。結局私が坂東さんから亡くなられたことを聞き、その後脇山さんは彼女の勤務先だった大学がプライバシーのこと心配してか、なかなか久保さんの実家を教えないのを弁護士の肩書きまで使って聞き出してくれたのを知り、胸が熱くなる思いをしました。

 8月6日は瀬地山さんの一周忌でしたが、追い打ちをかけるように久保さんの死を知り、青春の一頁が音をたてて、閉じられて行くような気がします。私は久保さんと学部も違うのですが、脇山さんと久保さんはいつも一緒にいた関係で、久保さんと仲良くしていました。大学を卒業してからも、何度か一 緒に食事したりしました。IBMを退社してから、BMWに乗って山口から坂東さんの所に遊びに来て一緒に食事したのが最後ですが、その時には医療過誤を問題にしなければならない病気になるなどとは夢にも思いませんでした。

 私は昭和39年4月から4年間広島の裁判所に勤務しました。そこで久保さんが高校まで過ごした庄原という町を知りました。比婆郡庄原市といったと思い ますが、今のように中国縦貫道路が近くを走っていたりなどしていませんでした。もう島根県の県境に近く、一度出かけたのは冬の季節で、旅館ではこたつに食事を出された記憶です。近くに江川の分水嶺があると教えられたと思います。そんな庄原の町を知り、彼女がどんなに秀才だったかを思い知らされた感じがしたのを今も忘れられません。彼女は、ちっともそんな田舎の秀才が持っている嫌みも持って居なかったし、そんな田舎っぺ風などどこにもなくて、すらっとしたスタイルで、キョトンとした目をして脇山さんと歩いていたものです。強いて言えば、私たちが「こんなに久保さんに憧れているのに、いい人なのに」と思う人も、彼女の好みに合わなくて、脇山さんの言う「白馬の騎士」を待っていたのは、ひょっとして庄原の町で彼女が抱いた向学心と共存する都会願望の延長線上にあったのかもしれないと、今思います。

 わたしは来年には定年になりますが、一度脇山さん、いや芳賀さんが暇になったら、一緒に彼女のお墓に花を手向けたい気持ちでいっぱいです。

 
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