武谷先生がなくなられたということは新聞で知った。素粒子論グループの大ボスたち、湯川秀樹先生、朝永振一郎先生、坂田昌一先生、そして武谷三男先生は私が素粒子論を始めたころにいらっしゃったえらい先生であった。湯川先生は、私が湯川研究室にはいったから直接の先生であったし、坂田先生も朝永先生もちょくちょくお目にかかった先生であったが、
武谷先生はあまりお会いしたこともない。だからこのなかでは武谷先生は私には一番遠い先生であった。 武谷先生はこの2000年4月22日に前立腺ガンでなくなられた。88歳であった。ボスの中では一番長生きされたのである。 ただ、本を通じては大変影響を受けた。名著「弁証論の諸問題」はいうにおよばず、 その技術論や学問論の奥深さと鋭さにはとても感銘をを受けた。また安全性の考え方にも大変鋭く分析され、新しい概念で整理された。「データだけではない。論理がいかに大切かを訴えつづけた。1995年のビキニ水爆実験後、放射能(放射線といってほしいが)の影響が人体許容量の範囲内として膨大な観 測結果を示す米原子力委員会に対し、許容量の概念は加害責任の回避に通じるとして論理的誤りを指摘、後に米学会を動かした。」(朝日新聞 2000年5月30日)という指摘はよくこの先生の業績を言い表している。
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先生の「語る会」が6月17日に開かれるとある。 私はそれほど親しかったわけではないので、この案内がきているわけでもない。 しかし、この先生の残されたものはどうしても伝えたいという気がする。 1つだけ個人的な思いでがある。それは私が大学院博士課程3年のころである。私は目前に卒業を控えていた。研究室のその頃の教授であった井上健先生は、「女子大でも行きたいかね?」と私に聞かれた。女の子はその程度という雰囲気が、先生だけでなく一般的であったし、私も長女が産まれて1年目、 時間的にも研究の目標も四苦八苦していた時代であるから、悪気があったわけではなかった。心配してちょっと楽なところにいったら、という気持ちだったのだと思う。私はそれには満足できなかった。そんな時、基礎物理学研究所の助手の公募があったのである。私も目前に卒業を控えて応募した。 もちろん、若造でたいした仕事もまだできていない私である。採用が決まるのはそんなに簡単でないことは知っていた。基礎物理学研究所の人事は共同利用運営委員会できまるのだが、この運営委員は全国から選挙で選ばれる仕組みになっていた。ところが、ずいぶん後になって、この人事の時、武谷先生が私を推して下さったことを知った。「女性で頑張っている人がいるのだから思い切ってとっ たらどうですか」というようなことをいって下さったというのである。まだ、女性なんて問題にもされなかった頃、こういう考え方で私を推して下さった先生がおられたということが私には励みになった。そして、今でもそれにふさわしい業績が足りなかったことをすまなく思っている。 そして私は幸運にも、卒業して京都大学の助手に採用されたのだが、 その陰には武谷先生のように女性も採用しようではないかという世論を作って下さった先生の影響もあるのではないかと、時々思い出すのである。 |
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