瀬地山澪子さん 武谷三男先生 夫 坂東弘治 久保未沙さん 思い出ねっと トップページ 開設経緯 思い出ねっと みんなの思い 思い出ねっと 掲示板 坂東のページへ戻る mail to Masako Bando



   武谷先生がなくなられたということは新聞で知った。素粒子論グループの大ボスたち、湯川秀樹先生、朝永振一郎先生、坂田昌一先生、そして武谷三男先生は私が素粒子論を始めたころにいらっしゃったえらい先生であった。湯川先生は、私が湯川研究室にはいったから直接の先生であったし、坂田先生も朝永先生もちょくちょくお目にかかった先生であったが、 武谷先生はあまりお会いしたこともない。だからこのなかでは武谷先生は私には一番遠い先生であった。
 武谷先生はこの2000年4月22日に前立腺ガンでなくなられた。88歳であった。ボスの中では一番長生きされたのである。
 
 ただ、本を通じては大変影響を受けた。名著「弁証論の諸問題」はいうにおよばず、 その技術論や学問論の奥深さと鋭さにはとても感銘をを受けた。また安全性の考え方にも大変鋭く分析され、新しい概念で整理された。「データだけではない。論理がいかに大切かを訴えつづけた。1995年のビキニ水爆実験後、放射能(放射線といってほしいが)の影響が人体許容量の範囲内として膨大な観 測結果を示す米原子力委員会に対し、許容量の概念は加害責任の回避に通じるとして論理的誤りを指摘、後に米学会を動かした。」(朝日新聞 2000年5月30日)という指摘はよくこの先生の業績を言い表している。

  2000年5月30日朝日新聞より 理論物理学者 武谷三男さん

 データだけではない。論理がいかに大切かを訴えつづけた。1995年のビキニ水爆実験後、放射能(放射線といってほしいが)の影響が人体許容量の範囲内として膨大な観測結果を示す米原子力委員会に対し、許容量の概念は加害責任の回避に通じるとして論理的誤りを指摘、後に米学会を動かした。
 それがその後、公害を因果関係ではなく、企業の安全確保義務に基づく過失責任で問う論理としても確立されていく。
 
 「根底には独自の『技術論』がある。安全性の証明がないと技術といえないという自明のことが論理的に明らかにされ、幅広い活動につながった」と量子力学などの共著がある長崎正幸立教大学名誉教授。「ファシズムによる神秘主義が学問にも持ち込まれた時代に、原子の世界の論理構造を分析して批判し一人で戦った人」と評価する。
 
 戦時中、東京の理化学研究所で原爆製造の研究に従事し、米国の原爆開発の可能性を探っていたが、この「技術論」を理由に特高に検挙された。獄中で、日本への投下を十日前予測したことでも知られる。
 
 高校時代を検閲が比較的ゆるやかだった台湾ですごし、ロマン・ロランやエンゲルスなどを読んだ。京大卒業論文で発表した「三段階論」は当時行き詰まっていた素粒子理論が実体論的段階にある点を示唆、後のノーベル賞につながる「実体としての中間子の存在」を湯川秀樹博士に想起させたとされる。
 
 借り物でない深い思考は人文科学や自然科学の境界を越える独自の哲学ともなった。親交のあった哲学者の鶴見俊介さんは、「あくまでも普通人の視点を持ちつづけたからと思う。徹底的な討論で少数意見を尊重した」。  
 武谷さんと親戚だった講談師の神田香織さんは、「自室は裸電球で、雑誌で足をたした机もかえなかったが、現代的な講談のテーマに本質を突いたアドバイスをもらった」とふりかえる。
 
   先生の「語る会」が6月17日に開かれるとある。
 私はそれほど親しかったわけではないので、この案内がきているわけでもない。 しかし、この先生の残されたものはどうしても伝えたいという気がする。
 
 1つだけ個人的な思いでがある。それは私が大学院博士課程3年のころである。私は目前に卒業を控えていた。研究室のその頃の教授であった井上健先生は、「女子大でも行きたいかね?」と私に聞かれた。女の子はその程度という雰囲気が、先生だけでなく一般的であったし、私も長女が産まれて1年目、 時間的にも研究の目標も四苦八苦していた時代であるから、悪気があったわけではなかった。心配してちょっと楽なところにいったら、という気持ちだったのだと思う。私はそれには満足できなかった。そんな時、基礎物理学研究所の助手の公募があったのである。私も目前に卒業を控えて応募した。
 
 もちろん、若造でたいした仕事もまだできていない私である。採用が決まるのはそんなに簡単でないことは知っていた。基礎物理学研究所の人事は共同利用運営委員会できまるのだが、この運営委員は全国から選挙で選ばれる仕組みになっていた。ところが、ずいぶん後になって、この人事の時、武谷先生が私を推して下さったことを知った。「女性で頑張っている人がいるのだから思い切ってとっ たらどうですか」というようなことをいって下さったというのである。まだ、女性なんて問題にもされなかった頃、こういう考え方で私を推して下さった先生がおられたということが私には励みになった。そして、今でもそれにふさわしい業績が足りなかったことをすまなく思っている。
 
 そして私は幸運にも、卒業して京都大学の助手に採用されたのだが、 その陰には武谷先生のように女性も採用しようではないかという世論を作って下さった先生の影響もあるのではないかと、時々思い出すのである。

 
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