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雑記
(Memorandom)

抜牙研爪 2022/2/26

ロシア軍によるウクライナ国土への侵攻が始まっている。その実際の映像がインターネットを通じて私の目にも届いている。私はその情報をあたかも自国の領土が蹂躙され同胞が命を落としていると思いながら観測し記憶しよう。「侵攻する側にも理がある」という言葉に惑わされることなく、実際の行動を見て理を判断しなければならない。言葉よりも行動で判断する。圧倒的な軍事力を持つ相手が勝利の確信をもって自国の領土に侵入してきた時にどのようなことが生じてどのようにして抵抗するのかをウクライナは体を張って世界に示している。そこから得られる情報は今後の国際秩序の構築や日本の安全保障に極めて有用であることは間違いない。この情報から日本は多くを学び、一から国家運営(より具体的には予算配分など)を考え直す必要がある。特に、核による脅しに屈しない準備をしなければならない。牙を抜かれても爪は研ぎ澄ます。映像や情報などを通じて学びを得たと思った者は(戦争に関わりたくないという気持ちがあるとしても)授業料として可能な範囲内で相応の額を支払っても悪くはないだろう。(私は自分の月給の3分の1ほどをサポートさせていただいた。)以下に振込先情報を掲載しておく。

【 日本円によるサポート 】

三菱UFJ 銀行 広尾支店 047
普通 口座番号0972597 エンバシーオブウクライナ

What do I mean by 'true laugh' 2022/2/21

Recently I have realized that this site comes upper or top when major search engines such as Gougle and Yahou are used only with my name in Japanses or English as a search word, without any other keyword. This site completely becomes disclosed and international. This means that not only one who can read only Japanese but also one who reads only English reach this site. Undefined terminology in this site will be understandable to those who frequently visit this site, but it may not be to a new comer, so there might come a day when a new visitor gets upset and offensive to this site instead of going far away. It would be better to hedge such a risk. Such a risky word may be contained in what I wrote the other day, 'I am in a situation far away from true laugh.' What does 'true laugh' mean? I should not use any undefined word and should define this word also, shouldn't I? Well, actually, it is very difficult to give a precise definition of 'true laugh'. The difficulty may be the same as that of 'true love' in the sense that they can be known only to whom have known them, and I know neither. This answer may increase the possibility to make visitors more upset, so let me introduce one episode, in which there appears a person who probably reached true laugh, I think. (I heard about this episode from a senior in my dorm when I was undergrad.) It is an episode of a TV program. It features the long life of Japanese people, and at that time, for sure, the average of life-time of Japanese people becomes longest in the world. A female reporter visited a daycare center where the oldest man lives. She interviewed him and asked some questions such as the key for his long life. In the middle of interview, probably from her curiosity, she asked to him 'What types of females do you like?' He answered 'Woman older than I.' It takes time and needs training for me to do such a mastered response, but I have one thing to say about true laugh. That is, true laugh goes away from people in war. Such a great and strong leader to ride on a bear would open a way to avoid a situation in which people cannot laugh. People wish a day to come when they can laugh in their lives. This is what I can be sure of.

I like to dream 2022/1/30

I have a tendency to come up with something funny or humerous to give some color in my monotonous life. But recently news says that war is likely to happen in east Europe. It makes the life darker.

The only thing I could do in such an occasion was praying in the past, but I have a different thing to do at the present: if you start war, I will start study and make notes. When you invade the border of other countries, I will transcend the boundary of academic fields. When you spend infertile time destroying towns and taking lives of people, I will spend fruitful time building frameworks and giving knowledge to people.

Since we are animals caught in one cage of gravity, conflicts may occur in one zoo of earth. We can do conflict as long as the sun blesses us. We can fight, laugh, cry, love until the sun loses bright. It seems a destiny for all the animals to die after the sun.

Physics enables us to estimate the life time of the sun. I study theoretical high energy physics, which is notorious as a difficult and useless subject in real life. For me it is useful, to make me dream. I like to have a dream especially in the night. It is even better if my discovery becomes useful to make plans for the liberty from the cage and overcome the destiny. I am not such a strong animal to ride on a bear, but such a dreamy one to keep thinking for a better solution roaming in the cage just as a tigar.

History: WorldHistory/EastEurope uploaded

新年に向けて 2022/1/7

昨年もまた研究などで忙しく消化しきれないほど有休が残っていたので、それをつかって年末年始は実家に帰省し自由気ままに過ごしていた。元旦には地元の神社にお参りに行き夜はテレビを見て過ごすなど、最近は色々考え事をすることが多かったが、だいぶリラックスできた。父親ともよく討論になるが、どうも自分が短気になってしまったことを自覚せずにはいられない。いや、昔からこんな感じだった気もしてきた。

それで足繫く通う読者の方はまた私が腹の話でもしながら新年の目標でも言って話を締めくくろうとしている、と思うかもしれない。「正月食べ過ぎて腹がまた出っ張ってきてないか心配です。。」と。何たる弱腰であることよ。今年はそんな心配から一転、守勢から攻勢へと転じる。すなわち、今年の目標は腹を割る、いけいけボディーを目指すこととする。京にいる女子から「何ていういけディーボ!こんな締まったお腹の人が大学で教鞭も取っているなんて♡すてき♡♡」と、そういった黄色い歓声を頂戴する日を実現するが如く筋トレや運動に精を出しつつ研究に励んでいきたい。

更新履歴: link/IT,Science,Humanities,ETC uploaded

年末大整理 2021/12/28

日本では年末大掃除をしてお部屋を奇麗にして年始を迎えようという習慣があるが、その影響を受けてなのか自分も先週あたりからこれまで気になって保存してきたブックマークやウェブサイト、画像などの整理を始めだしている。日々気になったものをちょこちょこためていくだけでも結構な量になっており、そのようなものを整理しておけば自分のみならず誰かの役に立つこともあるかもしれない。私の研究は素粒子理論物理であるが(現代における)その研究は「現世利益がない」と言われても仕方のない部分があり、また政界や経済界の方から「大学はレジャーランド、閉鎖的、役に立たない」などの批判を目にすることもあり、大学に勤める一研究者として心苦しいと感じることがしばしばであったから、こういう時間のあるときに多少なりともの現世利益に寄与できるまとめを行っていきたい。

更新履歴 (2021/9/11)

字数カウンタアップロード。

多忙 (2021/8/9)

現在多忙を極め真の笑いからほど遠い状態にある。ネタを求める方はしばし待たれるがよろしかろう。

レポートの丸つけ (2021/7/4)

時間がたつのは早いもので、今年ももう半分が終わって7月に入ってしまった。夜まで夏の暑さが持続し寝苦しい日も増えてきた。今年は前期非常勤を2コマやっているが、そのレポートの丸つけが結構大変である。一人につき3つレポートを出しており、合計140名ほどが提出しているから、合計400枚のレポートを丸つけすることになるのだが、やってもやっても一向に減らない気がしてくる。山にでも登る気分でやっていくのが賢明なのだろう。ところで最近気がかりなこととして、大学等の教員採用情報で「40歳以下」という年齢制限を見かけることが増えてきた。私の研究分野には私のみならず機会に恵まれず40代を迎えてなお任期付きの職に就いている研究者を複数知っているが、公的であるはずの高等教育機関が安定して就労する機会を若い研究者には与えるが中堅研究者には与えない、という一部の世代(より踏み込んで言えば「就職氷河期」の世代)に対する冷淡な対応には疑問が残っている。

超じゅうりょく集中講義終了 (2021/5/23)

先週と先々週に続けて行われた9後さんによる超conformalてんさーcalculusの講義が終了した。「超じゅうりょく」とは少し拗らせている響きがするかもしれないがれっきとした学術用語である。始まりはSさんとの会話で9後さんは数年前超じゅうりょくの集中講義をやったことがあると言われたので、私も聞いてみたいと9後さんに駄々をこねてみたところ快く引き受けてくださったことがきっかけであった。集中講義を快諾し実施してくださった9後さんにこの場を借りて感謝を申し上げたい。今回の集中講義は1コマ1時間半で合計9コマの講義を3日に分けて行われたのだが、1コマ2時間を超える回もあり、ヘビーな計算を要する超じゅうりょく理論を作り上げてきた研究者の力強さを感じるとともに、時間をあまり気にすることなく聴講者が満足するまで質問を行って物理の理解に全力を注ぐという最近では珍しくなった講義スタイルに心地よさを感じさせてもらった。私自身これまで超じゅうりょくの講義は受けたことはなく独学だけであったため大変勉強になった。何かの形で研究に結び付けられればと思う。(先週はM山さんが研究成果の発表をeastasianstringsで行っていたが、どうやら超じゅうりょく理論による定式化が背景にあってうまくいっているようである。また私事ではあるが先週重力理論に関する論文を発表した。昨年から行ってきた一連の重力理論研究の一環で今後曲がった時空上の場の理論の研究において基礎的な役割を果たすものと期待している。)

『「キャプ翼」を目指すべき』とはどういうことか (2021/5/22)

つい先日気づいたことであるが、どうやら本サイトが検索サイト大手ゴーグルとやほーに捕捉されてしまったようである。本サイトのキーワードや私の名前などを打ち込んで検索をかけるとなんと上の方に来てしまうのである。人気のない所で静かに営んでいたというのにいったい誰の仕業ですか。縁の下で生活していたら床を取っ払われて生活がさらけ出されてしまった野良猫の気分である。本サイトが検索サイト大手に捕捉されてしまったということは、とりもなおさず何かに悩んで検索をかけた者が本サイトにたまたまたどり着きこの雑記を読んで不快に思うかもしれないことを意味する。例えば先日の雑記で『「キャプ翼」を目指すべき』と気炎を上げたのだがこれが一体どういうことを意味するのか、本サイトに足繫く通うものであれば(少なくとも何となくは)理解されると思うが、新参者には皆目見当がつかないということもあり得る。しかもその前半は「基本に忠実に」とか「本来の定義」云々などと語の定義について長々と述べた後に「未定義用語」を使って話を締めようとしているのである。こんなことではいつ何時極右や極左、果ては狂人が本サイトに流れ着いて「何たる雑文よ、こんな締まりのない者が大学で教鞭も取っているとは!けしからん!!」と、そういったお叱りを頂戴する日も近いかもしれない。そんな時猫であればにゃーんと鳴くのかもしれないが、私は人間、しかも長男である。いくら猫好きとはいえそんな軟弱な真似は出来ない。そんな向きには二つのアドバイスを進呈する。一つは検索のやり方を見直しては如何かということ、もう一つは足繁く通ってみよということだ。「通」となれば自ずと意が通じるようになるのである。「通」を目指すがよいだろう。(何様?)

いたきこと (2021/4/16)

笑しと思ひたるねたが滑りたる。ましてしたり顔にて放たれたるはいとすさまじ。

宵も深まりしころ、「これは。」とて書きつけたるに、さめてみれば空を切りたる。

古に我が書きつけたと思しき怪文書の掘り起こされたる。何を言っているのか分からず、いといたし。

私は右翼なのか、左翼なのか (2021/4/13)

新年度が始まり早速忙しい日々が続いている。研究プロジェクトも複数かかえ毎日がてんやわんやである。非常勤では主に一回生向けの講義を担当するため、大学における学問の考え方に早く慣れてもらえるよう基本に忠実に講義を行うことを心掛ける。基本に忠実であるとは、今の場合常に定義に立ち返れる状態を保ったまま前進すると言ってもよい。これが案外当たり前に実施できるとは限らない。実際言葉の意味というものはともすると本来の定義から時間とともに変わっていってしまうことがしばしばある。例えば人文系で使われる「右翼」と「左翼」という用語があるが、私の記憶が正しければこの用語はフランスの議会で政治理念が革新か保守かで左右に別れて対峙して議論をしたことに由来していたと思うのだが、インターネットなどで実際に使用される様子を見ていると元の定義を離れ単に「所属陣営」を表現しているに過ぎないような使い方をされているのではないかと思われることがある。このことは何も人文系の用語に限ったことではなくて例えば私の研究分野である「高エネルギー理論物理(High Energy Physics - Theory=hep-th)」という用語も、その内容が原義と考えられる「高エネルギー素粒子物理」とは全く別の研究に対してもその分類で論文が投稿されることも最近はよく見かける。(そもそもどこが「高エネルギー」かはその時代の実験技術に依存する話である。)この場合も実は論文投稿者はその原義に基づいて論文を投稿したというより「高エネルギー物理に分類されていた研究をしていた研究者コミュニティ」に向けて論文を投稿していると言ってよいだろう。私は自分ではhep-thの人間だと思っているし研究者コミュニティでもそう思われていると思うが、それでは私は右翼と左翼のどちらなのだろうか。私の自己評価では私の父親の考え方が(弱者に優しくすべしという意味での)左翼寄りでありその影響を受けて左翼っぽい気質がある気がするし、実際右翼の人たちからは「こんな軟弱な物腰では右翼たりえん。」と言われそうではある。そうすると私は左翼ということになるが、格差や混迷が深まる今日新たに生じる問題に対処するために一致団結した方がきっと良いであろうから、勝手に自分や人々を二分法で分類していくのは筋悪ではないか。意識高い者は「右翼」でも「左翼」でもない「キャプ翼」を目指すべきだ。格差や分断を深めようとする者には怒雷武修斗を決めていく覚悟で臨もう。

科研費による図書購入 (2021/3/18,20)

ついに本日、科研費を使って図書を購入した。内容は量子情報、量子計算、量子コンピュータ、コンピュータアーキテクチャ、機械学習、AI画像認識、セキュリティプログラミングなどどれも最先端の内容ばかりである。というのも最近古本屋に行って本を探しても目新しいものがほとんど無くなってきてしまい、ぼちぼち最先端の内容に進む頃合いであると感じたためである。ついに古本縛りからの封印が解かれたと言ってよいだろう。恐ろしいことになるかもしれない。(何が?)図書購入に有難く科研費を使わせていただいた記念書き込みである。

(20日追記):恐らく今後も最新書を買わせていただくことになるだろうから、これまで私が古本とインターネット、そして図書館の本で勉強してきたノートの一部をアップロードしておこう。一部独自の用語を使って自分なりに理解しようとしている部分があるので、参考にされる方は気を付けられたい。

ノート更新履歴: Notes on Computer(&related files)/Mathematica/Tex uploaded

成人の日 (2021/1/11)

今日はComing of Age Dayということでどうやら20歳になる青年男女が「おとなになったことを自覚する」ための日のようである。確かに年齢が20に到達した者を一律に大人に分類するが、辞書を見てみると成長して一人前の人間として思慮分別をもち成熟している者といった意味合いも大人にはあるようである。その一方、私は今年40、ダブルスコアである。完全に大人になっていることが期待されている年齢である。責任も増えネタを考えている場合ではないのかもしれない、難しい年頃であるが、20歳の大人に負けることなく共に成長していきたい。

意識は高く、腰は低く (2021/1/10)

昨年は仕事で大変忙しい年であった。今年も忙しくなりそうではあるが、時間の合間を見計らって他のこともやりつつ上手いことやっていきたい。それで以前から自分には座右の銘みたいなものがなく、民間企業に就活をしていたわけでもないからそれで困ることはなかったのだが、昨年何かの機会に自分の座右の銘を聞かれ回答に窮した記憶があって、人様の座右の銘を借りずに何かいいものはないかな、と兼ねてから思っていたのだが、昨年末のあるときにふとこの表題のフレーズが頭をよぎったのである。高い意識、高い志をもつというのは年衰えてなおいっそう惰性で易きに流れてしまうところを踏ん張って良い方向に向かって自分や社会を成長させようという気概を現したものなのである。しかし、自分の意識が高いと認識していると如何せん意識や能力の低いと判断した人に対して見下した態度、または見下されていると判断される行動をとってしまうことも十分あり得る。格差や昏迷が深まる今日の世界、新たに生じる問題に対処するために社会が一致団結することを必要とする場合もあるのだから、そういった反発を招く振る舞いは無用の長物ではないか。そこで同時に腰も低く保っておくことも忘れるなというのである。短足であればいいというものではない。重心を低く構えることで大規模な問題や災害が発生した場合でも全体が大損害を被らずにやり過ごすことも可能になるというものだ。しっくりきた感触があったので書き残しておく。

新年あけましておめでとうございます。本年も本サイトをよろしくお願いいたします。

冬が来る (2020/10/31)

時がたつのは早いものでもう10月が終わろうとしている。仕事に集中していると時間が過ぎるのは本当にあっという間という感じがする。京都はまだ日中暖かさが残っているが、夜はだいぶ冷え込むようになった。今週は風邪をひいて体調を崩してしまった。季節の変わり目は風邪をひきやすい。本サイトを覗きに来ている読者も風邪には気を付けられたい。

サイトを更新していない間も仕事の進行状況を見計らって日々いろいろ本を読んだりノートにまとめたりしていた。膨らませれば膨らみそうなネタもないわけでもないが、消費税も上がって間もなくコロナ禍に見舞われた昨今の状況を鑑みもうしばらく自粛しておくことにしよう。

理論あつめ (2020/9/6)

最近隔週くらいの頻度で自分は古本屋に行っているのだが、どうやら古本屋に行くことが気晴らしになっている。(女性がwindow shoppingをする所を自分は古本屋ショッピングするといった感じだろう。)読書放棄された多数の本から良さげな本を探して低価格で購入して悦に入っている(ムフフという感じである)。それでこのような自分の行動が(今でも時々するのだが)学部の頃の図書館の徘徊行動とあまり変わっていないということに気づいた。自分は学部の頃図書館を徘徊してただやみくもに「理論」を探してきてはそれをノートに自分なりにまとめていたことを先日同室の同僚との討論で思い出させてもらった。ここでいう「理論」は「自分が矛盾のないと思った体系」ほどの意味であってその多くが数学だったように思う。それでこのような行動を適切に言い表す言葉は「理論あつめ」であるということに先ほど思い至った。なぜこの言葉が適切であると殊更に言うのかと言えば、何か「理論」を見つけてノートにまとめるという行動はいわゆる「勉強」というものに通常相当するのだと思うが、この行動は自分が高校生の時にやっていた「勉強」とは異なるように感じたからである。強いて言えば、男の子が空き地の原っぱに好みの昆虫を探しに行くという感じであり女の子が自発的に可愛い所作や小物を探して身にまとっていくという感じに近い。そういった子供の強い自発的行動の動機には、好みの昆虫がかっこいいとか自身が可愛くなりたいというようなものがあるのだと思うが、自分の「理論あつめ」行動には、理論(=矛盾のないこと)が重要である、という強い思い入れがあった。(どうしてこういう強い思い入れをもつようになったのかを書くと長くなりそうなのでまたの機会に譲る。)それならば自分のやっていたことはやはり「勉強」ではないかと思われるかもしれないが、「勉強」という行動は(勉強する)対象を何らかの動機や目的の下に学習するのであり、その動機が進学校にいると自身が成長するというよりむしろ「他者より秀でる」ということが第一目的になってしまうのではないかと感じる。このことはもちろん自分が進学校に進んで試験の成績が毎回順位付けされ大学入試でも試験の成績によって選抜されるという経験を積んできたからなのだと思うが、このような動機が内面化されることには弊害を感じる。社会的に言えばその人が他者より(勉強において)秀でているという事実は他者にとって有益であることを意味しないどころか何が何でも競争に勝ち他者を打ち負かそうとする悪しき競争至上主義に囚われかねないし、個人的に言えば勉強に費やした時間を有効に使えていないからだと言える。大学で期待されている役割の一つは選抜後にそのような弊害を取り去ることにあると理解している。(このことによって一部の学生が大学に入った後張り合いをなくして腑抜けてしまうようであるが、これはそういう目的なので仕方がないと言えば仕方がない。)自分の図書館の徘徊行動で理論(主に数学)を見つけてはノートにまとめていたのは、何か頭を良くして他者より秀でようというよりか、矛盾のないことが重要だから自分の理論カゴに入れておこうという側面が強かった。だから何だという分けでもないが、ただ時々人から自分は変わっていると言われて、自分では自分はなるべく集団の雰囲気を壊さないよう意識しながら目立たず行動して人とコミュニケーションを取って社会に馴染もうとしているので普通どころかむしろ「模範的優等生」と評されてもおかしくはないと思っていたのでこのような評価がなぜ下されるのか、自分が変なら他の人も変でないとおかしいじゃないかと思っていたのだが、生物的には自身の優秀性をアピールして異性獲得に躍起になって然るべき時に理論あつめなんかやっていたのは確かに変だなと感じて、他者の人を見る目や雰囲気から感じとる能力には一目置く必要があり、(確か心理学などでも言うところの)自分からは見えない自分の窓が他者には開かれているのだろうと思った次第であった。

春の到来 (2020/4/19)

昨年度京都では雪が降った記憶もなく例年の寒さを感じなかったが、その分4月上旬は気温が上がらず最近まで寒い日が続いていたように思う。今日は春の訪れを感じさせる穏やかな日曜日だった。先日露天で買った新春のたけのこも美味しかった。春の訪れとともに生きのいい元気な新芽の伊吹きも感じる。巡る四季の中に見て取れる小さな変化を楽しみながら本年度も頑張っていこう。

正しい規律とは何か (2020/4/18)

公の機関にとって正しい規律とは何だろうか。人間は多かれ少なかれある一定の規律をもって生活している。実際太古の昔から人間は生活規律を太陽の昇没サイクル(=地球の自転周期運動)から作っていたことは想像に難くないし、大抵の社会人や学生は会社や所属機関の従業規則や校則(もしくは上司や先生の言うこと)に合わせて自分で規律を作り生活を送っていることだろう。個人において規律は意志の産物と言えるし、実際規律の強弱は個人の意志の強弱と関係している。規律が作られる先には常に目的がある。何らかの目的を達成するために人々は規律を作る。この意味において正しい規律とは目的を達成できる規律であり、目的がより効率的に達成できる規律ほどより正しい規律と言える。

この個人の規律を公の機関に当てはめて考えると、公の機関に定められた規律も何かある目的を達成するために定められた、その機関が関与する人々の意志の産物だということになる。それでは一体誰が公の機関の目的や意志を決定するのか。仮にその目的や意志が決定されるプロセスがあったとして、そこから作られた規律が正しいという保証がどこにあるのか、もしくは正しさの保証をどこに求めれば良いのか。正しさなど判断できない、存在しないとするならば公の機関には責任という概念は存在しないことになるがそれで良いのか。私が思うに、目的はどうあれ公の機関が定める規律には前提がある。それは公正さである。公的機関の施策を評価するにはそれが公正に行われているか否かを一つの判断材料とすればよい。公的機関に勤める人々はその施策が公正に行われている、公正に資すると判断できればその施策にある一定の自信をもってよい。その上で一体何を目的として、どういう優先順位をつけて社会を営んでゆくかを見定め実行してゆくことが施策として求められる。その見定めは困難を極めることは確かだが、一つ言えることは規律は社会情勢に応じて常に見直していかなければ徐々に社会の歪は大きくなり最終的に社会は維持できなくなるということだ。社会問題や国家、企業間の力関係は時々刻々変化している。そのことを認めず大局を見誤り昔からある規律を金科玉条として守っていくだけでは、一時の責任は回避できるかもしれないが、公正が達成されないどころか公的機関が社会の人々の間にある不平等の拡大に拍車をかけてしまうことにつながる。公的機関に勤める者はこのことに自覚的であるべきで、必要があれば大きな見地から規律が改められる必要がある。もしその必要性を感じているにも関わらずそれが言い出せない環境に置かれているのであれば、そのような悪しき環境は改善されなければならない。現状を正しく認識し新しい問題に柔軟に対応するための参考意見として書き残しておく。

近況報告 (2020/2/7)

今週は珍しいことに数年会っていないと思しき後輩が二日続けてやってきた。どちらも元気でやっているようで何よりである。私も元気であると伝え先輩風を存分に吹かせておいた。

最近は日夜研究に没頭する日々が続いている。稼働している共同研究プロジェクトは4つ以上あり「後はまあ少しずつやっていけば論文になる」と言える状態にもっていくまで力を入れ続ける必要がある。それに加えて来年度から行う非常勤ではシラバスを事前準備する必要があり結構大変だった。その時期と重なってまた右目の痙攣も再発したため、今年からバスタブに毎日浸かるようにして回復に努めている。早く今の時期を乗り越え多少ゆったり研究や勉強をしたい。

「他者を愛するためにも自分を愛せ」 (2020/2/3)

自分は酔っぱらうなどして頭がいつもとは違っておかしくなると、徒然草の冒頭にあるように頭に浮かんでくる取り留めもない考えを書きつけることが人生で何回かある。その時の走り書きしたメモはたいてい何処かにいってしまっているのだが、それを計算ノートに走り書きした回があって、そのときの走り書きが後日自分の目に触れることがあった。大方は日頃の思っていることや変なことを書きつけていてまあ取るに足りないのだが、そのような中、(これはいいことを言っているな。)と、自分の文章ながら率直に思ったことがあった。その文が上の文章である。(自分が自分の文章に対して「いいことを言っている」と思うことは記憶にほとんどないが、その一つの理由は酔っぱらって何かを書いている自分が人格は一つであるという認識はあっても日頃の自分とは異なっているという認識があり、その時の文章が後日より客観的対象になりやすかった、ということがある。この文がいいことを言っていると感じた理由は、自分を愛すことができない、愛すことに慣れていない、自分を矮小化してしまう人間に対して、そして自己以上に他者を愛せるのかという(自分のもつ)命題に対して一つの良い回答になっている、という点にある。)医者や公務員など他者へ直接奉仕することを職務とする人々はときに他者を優先し自愛することをないがしろにしてしまうことがある。短期的には体は持ちこたえるかもしれないが、長期にわたると命に関わる。激務をしっかりこなすには相応の体と精神が必要だと考えるべきでそれらが参ってしまったと感じたら、本来速攻で家に帰り風呂へ入ってさっぱりしすぐさま布団にもぐり込むべきだし、そうなっている部下を見つけたら上司は休憩を取らせるなど現状の改善に努める必要がある。短期的な休憩方法としては、甘いものを食べたり、数分目を閉じる、水につけ電子レンジでチンしたホットタオルを顔につけるなどが考えられる。急がば回れとはよく言ったもので、事態がコントロールできていないと感じたとき程思い出したいものである。

こたつとみかん (2019/11/13)

最近寒くなってきてこたつが早速活躍しています。こたつに入りながらみかんを食べると不思議と落ち着きますね。

ベトナム出張終了 (2019/8/11)

今週は人生初のベトナム訪問を行い、研究会を楽しんできた。東南アジアの地域でも徐々に理論物理が研究されるようになってきているようでうれしい限りである。ベトナムは日本の物価の1/3程で美味しい食事が食べられる。ベトナムの食事と言えばフォーが有名であるが、道端で作られていた卵や肉、野菜などをフライパンで火を通してフランスパン(ベトナムは元フランス領!)にはさんだ食べ物は10,000VND(≒50JPY)で美味しかった。

日本へ帰ってきてから特に変わりない生活を送っているが、恐らく刺身を食べたことによる食中毒のせいで時折お腹が痛い。お腹が定期的に痛くなるのは大変であるなあと考えるようにもなる。

催しへの対処 (2019/7/15)

つい最近twitterを見ていたら、齢35にしてトイレの直前で大を漏らしてしまったなどというtweetが流されていた。はっきり言って修行が足りない。齢35にもなればそのような時の対処法については既に体得している必要がある。そうそうあることではないが、このような災難が2度と起きぬよう私の心得をここに書き残しておくので参考にされたい。

状況設定として、外出中に催し家まで踏ん張るのが最も良いと判断したとする。(例えば、飲み会の帰りに外気に当たってお腹を冷やし急に催したがコンビニや駅などのトイレが利用できない場合などが考えられる。)道すがら何度か訪れる催しのピークを乗り越え、家の玄関まで何とか持ちこたえたとしよう。ただし次の峠は乗り越えられない、本当にヤバイ状態とする。戦いは家に入る前から始まっている。意識との戦いである。ここで油断し(ああ、やっと家に着いた。)などと安心してしまうようでは残りタッチの差を伸ばすことはできず突破され破れる。とにかく油断してはいけないのである。このために私が考えた戦略は、(自分の家ではなく)友達の家に来たと思い込む、というものである。(もっとフォーマルな空間に意識を飛ばすことが可能な人はそれでも良い。)ドアを開けながら「お邪魔しまーす(失礼しまーす)」というと良いだろう。「友達の家である」という設定を脳に認識させるために効果的だ。そしてトイレまでの道のりが多少長かろうが友達んちのように決してドタバタ走らずに落ち着きながら、しかしすぐにでもズボンを下ろせるようベルトを外しズボンやチャックを開けながら、トイレまで体を進める。トイレの前まで来ても油断せず落ち着いてドアを開け、トイレに入っても意識は友人宅のまま決して油断せず、便器のふたが開いていなければ開け、向きを変えつつズボンを下ろしながら座る。座って始めて安心して良い。(座っても警戒心が解けていないくらいで丁度よい。)

コメントとして「催しのピークが来た場合その峠を超えられる最大回数は人によってほぼ決まっている」と私は考えている。私の場合2回までは峠を越えられることが経験上分かっており、自分の中でこの最大数がいくつか事前に把握しておくと次回の急激な催しに対してより的確な対処ができるだろう。

ちなみに私はこの話を同室の学生に力説したことがありその際学生からは「そんなことがあるんですか笑」といった感じで全く話が噛み合わなかった記憶がある。若いうちは腹部に筋肉があるからこのような事態に陥らずとも済むかもしれないが、30代ともなればデスクワークばかりが続き腹から筋肉は消えさり出っ張ってくるのである。(そういえば私自身高校か大学の頃父から「腹は出てくるぞ」と言われたときに「大丈夫だ」と高を括っていたことを思い出した。)今日は人の身、明日は我が身。用心するに越したことはあるまい。

スペイン出張終わる (2019/6/30)

先週末スペイン出張から戻る。やることが膨大にあるが、どんな出来事があったか軽くハイライトしておこう。

長時間の移動は体にこたえたが、充実した共同研究、新しい研究者との交わり、新しい研究の開始、現地の人々との交流やイベントなど再び実り多い出張となった。

スペイン出張迫る (2019/6/1)

今週は研究会でのトークも終わり、来週末から始まるスペイン出張へ向けて気持ちを切り替える。旅程はだいたい30時間ほどでチケットのお値段は10万円弱であった。(transit泊は京大では認められなかった。某国立大学所属のO氏は同じ資金の出所である科研費でtransit泊が認められたようだ。公金による出張のルールは大学のみならず全ての使用者で統一されてほしいしそうあるべきだと思う。)今回は研究会でトークのタイムテーブルなどが送られてくるとなぜかやる気が出てきて不思議な気がした。いつもはトークしようがしまいがあまりやる気に変化はないのだが、今回のworkshopでは比較的知り合いが多く実り多い議論が期待できるからなのかもしれない。人生初のスペイン訪問、楽しみにしたい。

ズボンきつい。なぜか? (2019/5/18)

今日は土曜日なのでジーパンではないズボンをはこうという気になって例のデニムパンツをはいてみたのだが、だいぶきつい。最近は昼食でもご飯をSサイズにしているし、フットサルやランニングもそれなりにやっているから(入らないはずがない、何かがおかしい。)と思ったのだが、よく考えたらこのズボン洗濯をしてほぼ日干しで乾燥させたため縮んでしまっていたようであった。小学校の頃きついズボンをはいておなかの調子を乱したことがあったので気を付けていきたい。

令和時代幕開け (2019/5/1)

どうやら平成が終わって令和の時代がやってきたようです。書き溜めていた世界史ノートをアップロードして新時代のささやかなお祝いとすることにしましょう。全くの未完の状態で公開するのは本当は気が引けるのですが、この際良しとしましょう。天才数学者のガウスは、落成した建築に足場が残っているのはみっともないという考えから形式の完備が意に満たないものは決して公開しなかったようで、僕にもこの気持ちはあるのですが、ここはお祝いの気持ちを優先しましょう。足場だらけの未完の建築物も、完成形を想像したりと、意外と見ていて面白いかもしれませんね。

ノート更新履歴: WorldHistory note, religions note uploaded

東日本大震災での教訓 (2019/4/12-14)

先週は私の院生時代の指導教官が基研にセミナーに来られ、セミナー後は行きつけの天ぷら屋で夕食をとった。そのとき話しの流れで東日本大震災が起きた当時の状況の話題になり、自分も当時の状況を思い出し話しをしたのでここでも書き残しておこう。大地震が来る前、自分は東大の理学部一号館9階の一室でインドにいる研究者二人とスカイプで議論を行っていた。そこには助教の人もいたのだがある時から微弱ではあるが体感する揺れが異様に長く続いていることに二人で気づき「これもしかしてちょっとやばいんじゃない」「おれたち死んじゃうんじゃないか」という風に冗談を言っていたのを覚えている。体感的にはだいぶ長い微弱な揺れが続いた後、ある時からその揺れが徐々に大きくなっていってあっという間に部屋がぐらんぐらんと揺れ出し本棚から本は崩れ自分たちは立つ上がることも出来ないほどの揺れになった。助教の人は壁に手をついて何とか体勢を保つのが精一杯という状況だったように思う。その激しい揺れが収まると(館内放送もあったように思うが)自分たちは9階から階段を使って安田講堂の前に避難、徐々に人々が講堂前の芝生に集まりだした。すると再び大きな揺れが到着し安田講堂前で人々はどよめいていたように思う。

自分は以上の経験で、9階にいたときに感じた大きな揺れは所謂Primary wave(P波)であり、安田講堂前に避難した際に感じた大きな揺れはSecondary waveであると判断している。そして自分はP波が来る前の長い微弱な振動は大地震に付随していたと考えている。(この判断の根拠には、実際自分の経験で震度5クラスの地震のP波が来る前には小さな揺れを感じており、実際実家の吊り下げタイプの照明が揺れていた経験とも関係している。より強く、自分はこの微弱な揺れは地震を引き起こす前のプレートの運動が伝わってきているのではないか、と予想している。)いずれにせよ、私が3.11で得た教訓(もしくは予想)は「異様に長い微弱な振動は大地震の前触れである」というものである。(大地震の前には一部の動物たちが異常な行動を起こすことが観測されているが、もしかしたらこの異様に長い微弱振動を感じ取っているからなのかもしれない。)まだこれは自分だけの教訓(予想)でしかないのであまり公言はできないが、このサイトを見て自分の教訓が役に立つ時が来るかもあるしれないし書き残す意義は十分にあるだろう。(そもそもこの予想が外れたところで実生活への悪影響はほぼ皆無だろうし、正しかったとしてもこれによって震災に備えるために得られる時間は非常に短いから、この短い時間で何が出来るかのか事前に考えておかないとこの教訓は生かせないだろう。日本各地のビルの高階に微小振動を計測できる観測装置を用意し、一定程度長く続く微弱振動の後に大地震が来ているかどうかをチェックするなどしてこの予想をテストできれば、備える時間を長くすることは出来るかもしれない。しかし日本は大地震だけでなく今は少子化で滅びることを深刻に考える段階にあるが、これを書き始めるとまた長くなるのでここで止めておく。)

今年度の出張終わる (2019/3/21)

今週中国・九州連続出張から京都に戻り通常の研究生活に戻る。今回の出張も実りが多かった。実際に現地へ行くことによって得られる感触や情報は新聞やニュースでは得られないものがある。

中国は政府のIT関連の技術が大きく成長を遂げており管理社会が一段と進歩している模様。どうやら無料のVPN(Virtual Private Network)や日本の大学のものがもはや通用せずそれなりな値段のするものを使わないと金盾をかいくぐることはできない段階にあるということであった。自分は結局VPNを準備することが出来なかったので中国ではほぼインターネットを使わない生活を満喫していた。また省から省への移動はもはや自由にはできず、観光をするにも何らかの登録が必要になっているらしい。夕食は地下街に行って餃子や拉麺などを食べたが、値段が安い上に美味しいため容易に太ってしまう。地下街を歩いて行き交う人々を見ると、当然のことながら日本よりも多種多様なルーツを持つ人々がいるのだなということを実感した。

九州の学会出張では、Oさんらとともに牡蠣小屋にご一緒させてもらう機会があった。殻付きの牡蠣を炭火で焼いて殻を自分でこじ開けて食べるというお店で、お手頃価格で海の幸が存分に満喫できた。牡蠣を食べている最中話題に上がったこととして、最近「してぃーはんたー」が映画でリメイクされたがこのような漫画は現代ではもはや産まれないのではないか、というものがあった。確かにこの漫画のすごい所は、男性主人公が女性に度重なるチカン行為が女性側からの過剰なお返しによって笑いに昇華するという優れたバランス感覚だろう。もちろん現実で痴漢の被害を受けた女性からすればこういった描写を不快に感じるかもしれないが、そういう人への配慮を要求して表現規制まで行うのは個人的にはどうかと思う。ただでさえ新しいものを創造することは大変な作業なのだから、創作者には些細なことで創作活動を委縮させるべきではない。思う存分自身の満足のいく作品を作り世に問いかけてもらう方がよい。

どうやら来年度も少なくとも半年ほどは京都にいそうである。続けられる限り本サイトの更新は続けていこう。

中国初上陸 (2019/3/8)

今週沖縄出張から帰ってきてから来週の中国での研究会の講演の準備と物理学会での講演の準備で忙しい。今回の沖縄出張もいろいろ楽んできた。沖縄には花粉が飛んでいないのが良い。実は沖縄出張前からパソコン作業をしすぎているせいか視力の悪い右目に違和感を覚えていたのだが、幸か不幸かPCのキーボードのBackSpaceキーが破損してしまい夜中作業する気が起きず規則正しい生活をしたらほぼ完治したようだ。お釈迦様は自分の肉体を極限まで苛め抜く苦行を行ったそうだが、年を取った大人が肉体を限界まで酷使すると回復しないこともあるから体を労わりつつやっていく必要がある。中国出張は上海近郊で4日ほどの滞在ではあるが人生初の中国である。楽しみにしよう。

「修行が足りない」 (2019/2/14)

江口先生が先月末に亡くなられたという訃報がありました。昨年基研に来られて自分のやっている研究を説明したときにはそれほど変わりないように思えたのですが、あまりに突然の知らせで正直あまり実感が湧いていません。

江口先生には学部では物理数学の授業を担当していただき、大学院では指導教員ではありませんが度々お世話になった記憶があります。思い出そうと修士時代のブログを見てみたら、E先生には結構かまってもらってますね。もちろんE先生とは江口先生のことです。過去のブログも案外思い出すのに役に立つものです。他にもいろいろ思い出はあり、そのうち思い出したものをいくつか書き残しておきます。一つは、院試の面接である問題が出された際、自分はその問題の解答の導出に手こずり一応最後まで出来たのですが、最後に江口先生から「結論までが遅い」と言われたことです。もう一つは、確かセミナーか何かで自分が発表したときに質問を受けあまりうまく答えることが出来なかった際に「修行が足りない」と言われたことです。この表現は当時の自分にしっくりきたことを覚えています。確かに当時は未熟でした。直接指導された経験はありませんが言われたことは学生は案外覚えているものです。昨年会ったときは学生のときよりか対等な感じで自然に話ができたように思います。江口先生に修行の成果を見せることは叶わなくなりましたが、これからも修行を怠ることなく励んでいこうと思っています。

新年の目標 (2019/1/9)

遅まきながら、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。皆様の一年が充実した良い一年となることをお祈りいたします。

それで私の今年の目標、いや今年こその目標と言うべきでしょうか、それは女性に骨抜きにされることです。それは目標ではなく願望ではないか、という話もありますが、いずれにせよ40を間近に控え完全に惑わされたいと考えております。何かに気骨がありすぎて硬派になると軟派な問題を解決できないようです。一部の骨だけが太くなってもバランスに欠けます。くらげの骨を目指すくらいがちょうどいいのかもしれません。

今年の出張終わる (2018/12/9)

先々週韓国、先週沖縄の出張を終え京都に戻る。ハイライトしたいところだが最近特に時間がないので思い出せる程度にキーワードだけ書いておくことにする。(本当にこれだけで思い出せるかは定かではないが...)

キーワード:入国審査官->小娘、飲み会(日韓中印独)、歌ってもらう(On A Glorious Day In October)、モルゲッスムニダ->あっ(察し)、竹光作戦、ハンセン病患者の扱い、さとうきび畑(->ザーワザーワ)の詩と沖縄戦

Recognizable (2018/11/10)

ブラジルから帰国後また忙しい日々が続く。研究会は今回も有益であった。人に会って直接話やトークを聞いた方が論文を読むより要点が整理しやすい場合が多い。

今回の研究会でプライベートなディナーで同席となった研究者で印象に残ったことがあったので書き残しておこう。氏は自分の研究を行う傍ら壺作りを行い始めたらしく、現在では自分用のstudioを持っており個展を開くと壺が完売するほどになってきたそうだ。そのとき氏が自身の芸術を開拓するする際に述べた"Recognizable"という単語が印象に残った。この単語は"uniqueness"と意味は近いと思われるが、"Recognizable"との違いは聴衆としての視点があるかないかではないだろうか。いずれにせよ、氏はそれを得るために自身の研究で現れた重要な数式を(cuneiform(楔形文字)のように)壺に書き込むことを考え付いたそうだ。

氏との現代芸術についての雑談の中で、自分も昔現代ピアノ音楽を聞いた時に感じた「聴いても何がいいのかさっぱり分からない」という素人感想を思い出したので述べてみた。それは、その音色は何か過去の偉大な作曲家の影響から逃れて"Recognizable"を得るため、音のもつ「自然な」構造を無理やり壊した不協和音に聴こえてしまう、というものだ。(専門家の方でも、音の中にこういうものを感じ取ってしまうと音楽が楽しめない、という心情は理解されるだろう。氏はその例としてスクリャービンを例に挙げてくれたが、スクリャービンは個人的に理解可能である。理解できないものはそれ以降の曲である。)またこのことに関連して、ラフマニノフが古典的ロマン音楽の作曲に従事したことについて、一部の専門家が(恐らく上記の理由に関連して)それを批判しているということを聞いたときに私は強い不満を持ったので、そのことについて文句を言ってすっきりした。結論として、そういう現代音楽もきっと聞いている内に「良さ」が分かってくるのではないか、ということで落ち着いた。

もちろん新しさを求めるという営みは自分の研究活動も同じであり、自分の研究内容が非専門家に分かりやすいかと言われると必ずしもそうとはいえず、自分が現代ピアノ音楽に抱いた感想を自分の研究内容に抱かれる可能性を否定するつもりはない。ただ、音楽と自然科学は社会の中でその役割が違うことであるためか、自然科学に対するその批判は現代音楽程深刻なものであるとは感じていない。このことは、税金によって運営された最先端の研究を非専門家にも一定程度理解可能なものにする努力の必要性とは別の話しであることをコメントしておく。(言いたいことを書いたら文が長くなってしまった、、、)

ブラジル出張楽しむ (2018/10/31)

出張先はNatalというブラジル東海岸。今日は研究会が終わってホテルに戻ると疲れて何もやる気が無くなったので外に出てお土産を買いに行く。ホテルから出て現地の人が集まっている出店のような場所に行きいくつか買い物を済ませると、今度はホテルの方へ戻り近くのモールに入り土産物を探す。食べ物を探しているとお店のおばさんがいろいろ試食させてくれる。お酒もいろいろ飲ませてくれたのでアルコールも買ってしまった。お値段もお手頃価格。

先週末はイタリアで一緒になったOさんとバギー観光をしてきたので内容をメモしておこう。朝9時集合でホテルの前で待つこと10分、それらしき車が到着し運転手がロビーに現れたので予約者名を確認すると"SUSHI OKAYAMA"であってそれらしかったが、部屋番号が私のものと一致していたため予約が確認される。先に車に乗っていたのはリオデジャネイロから来たというブラジル人2人組で今回の同行者。100レアル(≒3000円)を払い、ビーチを右手に見ながらバギーは北へと向かう。ガソリンスタンドへ寄るついでに日焼けどめクリームとサングラスを買いこちらも準備完了。走行開始後バギーはおもむろにコースアウト、砂漠にできたコースを走りだす。どうやら正規ルートらしく、丘にたどり着く。"photo"と言うので降りて歩いていくと素敵な見晴らしが待っていた。言われた通り写真に納め休憩をとり、再び走り出す。走行後間もなくバギー観光による洗礼「誰も頼んでいないのにおもむろに砂漠の急な傾斜に向かっていき車体を傾けながら急降下する"ワイルドラン"」をやってくれる。バギーの後ろにいたOさんは急な傾斜を上っている途中、「なぜ、なぜ」と念仏を唱えていた。(このことを因果応報と言います。)その後第二のビーチに到着し屋台でカシャッサと天然フルーツのカクテルや焼きエビを楽しむと、第三のビーチではパラソルの下でトロピカルジュースを楽しむ。川を越えて第二の砂漠のルートを通り崖の上へ到着する。バギーを降りて向かった先には、崖の急勾配からシートを下に敷いて滑り(あまり奇麗でない)池に突っ込むというたけしシリーズ顔負けのアトラクションが待ち構えていた。ブラジル人二人組もOさんも自分も最初はしり込みしていたが、ここまで来てやらないという選択肢はないだろうということで、いい大人が二人して水着に着替え崖の上から滑って池に突っ込む。「まあこれでいい思い出になりましたねえ」と言いながら走っていると別の崖へ到着、ドライバーが"Kamikaze.Kamikaze."というので言われるがままについていくと、より高くかつ傾斜の急な崖の斜面にブルーシートを敷きその上を水を流しながらビート板で顔を前方にしながら滑って湖に突っ込むというアトラクション上へ連れていかれる。今回もしり込んだが、さっきのは練習でここからが本番だろうということで、やはりいい大人が二人して水着になりビート板にしがみ付きながら崖の上から滑って湖へ突っ込む。その後はビーチ付きレストランへ連れていかれ、60レアルのブッフェスタイルでおいしいお肉やシーフードなど食べ放題、ビーチでは泳がずにただ食べまくる。その後、最後の大型砂漠にて、同行のブラジル人が持ってきていたドローンを使って砂漠の上を走るバギーを数分間空撮、映画の撮影をされているような気分を味わう。午後4時過ぎホテルに到着。大変楽しい一日を過ごした。ブラジルへ来られた方にはお勧めです。

ブラジル出張迫る (2018/10/21)

今日は日曜だが、来週からブラジルで開かれる国際会議の発表用のスライドづくり。(今学期から非常勤を週一でやり始めたせいか、さらに時間がないので休日を潰すしかない。)私はこれまで南アメリカ大陸に行ったことはないので楽しみにしたい。旅程は37時間ほどのフライトで、チケットのお値段は25万円ほど。交通手段は空路しかないように思えるが、過去に日本の総理がマリオに扮することで土管の中を伝わってブラジルに行ったこともあるようなので、マリオに扮し、かつ、よい土管さえ見つけて入ればあのマントルを超えられるのかもしれない(本当か?)。もし見つけた人は早めに私に教えて下さい。

私は若者なのか、おっさんなのか (2018/10/12)

今日科研費の書類を提出した。科研費にはいろいろ種類があるが、今年度から「若手研究」に応募できなくなってしまった(今年度にあった申請基準の変更の結果なのかもしれないが)。 どうやらもう私は若手には該当しないようだ。業界的にも自分はもはや中堅的存在なのだろう。 では私はいわゆる「おっさん」になったのかということだが、実は自分的にはあまりそういう自覚がない。おそらく「おっさん」というと「歳をとって衰え始めた」という印象があるせいなのかもしれない。(「おっさん」の定義に関しては、東京に行った際に電車のつり革広告で見かけたりもしたから、一時期話題になっていたと思う。)自分にとって「自分がおっさんになった」と思うときは、自分がネタの追求を止めた時だろう。需要がないからと言って止めるわけにはいかない。だから本文のタイトルのような質問を受けたら次のように答えよう、「私は私。私以外私じゃない。あなたとは違うんです。」と。私はまだまだネタを追求し続けていく。

吉田寮やばいらしい (2018/9/16)

今日は数カ月ぶりにピアノでも練習しようかと吉田寮へ行くと、なにやら賑やかに飾り付けが行われており、練習の途中では元気よくバンド演奏が始まる。ちょっと覗いてみようかと食堂の方へ行くと、扉の前のイベントテントにいる方から「吉田寮やばいらしい」という旨を伝えられるとともにパンフを渡される。寮のことを現状を知ってもらいたいようで様々な企画があるようである。以下のサイトに詳しい情報がある。

「吉田寮を守りたい。」

外部の人には「吉田寮があろうとなかろうと恩恵なんかない」と思われるかもしれないが、実は外部の人にも吉田寮は安宿として利用することができるのである。私も学部生の頃利用したことがありそのときは一泊300円ほどで、外国人バックパッカーなども利用していたようである。知っておくと困った時便利かもしれない。が「京大当局」が吉田寮を閉寮させてしまうともう利用できなくなるかもしれない。

本が買えないポスドク (2018/9/3)

日本で研究員になってから、自分は少しずつ図書館で本を借りたり本を買うようになった。海外にいた頃は、ほとんど日本の書籍を読んだ記憶がなく、せいぜい日本から外国に戻るときに機内で小説を読んだくらいである。(インドにいた頃Ramanujanの伝記を買って読んだことを思い出したが、英語だったので理解がおぼついている。)このことは、自分がポスドク研究員であることと無関係ではない。ポスドクは2-3年の短期契約であることが多いため、引っ越しを意識しながらの生活になる。そのため出来るだけ身軽にしていようという意識が働くのである。人によってはこの意識があっても本を買うポスドクはいるとは思うが、自分は買ったものはできるだけ捨てないように生活をしてきたため、捨てることになりそうなものはそもそも買おうとしなくなるのだ。数年前などマスメディアで「最近の若者は本を読まなくなった」と批判する団塊世代の人々をしばしば見かけたが、このような人々は若年世代で起きている雇用の不安定化や時代の変化を理解せず一方的な発言をしているだけのように感じた。(マスメディアというのはそういうもんだと言われればそうなのかもしれないが…)

京大落研スピンオフライブへ行く (2018/8/30)

先週末遅いお昼を食べに行こうと自転車で東大路を南下中、吉田寮前でのぼりが高々と掲げられており(何事か?)と中を伺いながら通り過ぎると、突如「落語やってます、見ていってください!」と(こちらが自転車に乗っていたにも関わらず)熱烈な宣伝をされる。そのまま通過したのだがさらに「2時からです!」と丁寧に時間まで教えてくれたため、急遽行ってみようかという気になり近場でお昼を済ませ落語を拝見に行く。演者は学部一回生も多かったようだが、それぞれはすでに自らの個性に相応しい役割や話し方を見つけているようで、国際性のあるなかなか際どいネタもありなかなか攻めていた。今度は10/6,7にやるらしい。時間があれば行ってみよう。

「よしっ、疲れたっ。」 (2018/8/17)

やっといくつかある今月締めきりの公募のうち二つが終わった。書類を書いていると独り言をつぶやいてしまうことがあるが、先日この文章のタイトルの文言をつぶやいてしまい、同室の学生に、やる気を出すのか休むのかどっちなんですか、という感じに詰め寄られてしまった。確かにこの発言は指摘されるとおかしいことに気付くのだが、疲れているとこういう発言がでてしまうのは面白いですね♡

イタリア出張、終わる (2018/5/11-12)

近年の各方面の研究発展を知ることが出来ただけでなく、自分の研究の宣伝や旧友や新しい同僚との出会い、新しい研究へのアイデアも芽生え、共同研究の開始と、大変実りの多い出張であった。自分はあまり出張は好きではないのだが、財源と良い研究会があれば積極的に行くのがよいかもしれない。

今回の出張旅費は、YITPの各ポスドク研究者に与えられる年度毎の研究経費30万円と「理論物理学センター国際ネットワークと若手研究者育成」というプログラムの財源の組み合わせ。後者は科研費をもっていないポスドクが申請しそれが承認されることで得られる。大変助かるグラントでこれがなければ今回の出張はなかっただろう。関係者の方々にはこの場を借りて感謝いたします。

せっかくの機会なので旅行記を書いてみました。このページの読者は気分転換の際にでも読んでみてください。

小国サンマリノへ (2018/5/12)

先週末はOさんとレンタカーでイタリア内にある小国サンマリノまでドライブしてきたのでメモしておこう。

ルートは南回り。フィレンツェから車で1時間弱、まずはシエナへ到着。駐車場近辺に無料エレベーターがありそれを使って「世界で一番美しい」らしいカンポ広場へ向かう。建物の間を抜けていくとなだらかな丘陵をもつ広場につながる。広場の中央にある塔からの眺めが評判だということで10€払って塔の頂上へ、シエナの街を一望する。

駐車場へ戻り、東へ行くこと4時間、サンマリノへ到着。特に国境での検問などはなかった。駐車場へ車を置いて自然の中の崖にそびえる3つの塔へ向かう。過去には囚人の牢獄として使われていたらしい。一番の塔へ上ると眺めは足がすくむほど素晴らしい。その旨をOさんに伝えると「押しましょうか?」と言って誰も頼んでいないのに僕を後ろからちょこちょこ押してくる。帰り際、大自然の中で「お楽しみ中」のアベックに遭遇。自分は目が悪くてよく見えなかったのだが、Oさんによると男性側は半分何かが出ていた模様。大自然に抱かれて開放的になってしまったのだろう。

その後ボローニャ経由で、フィレンツェへ。車内では物理関係の話(日本の女性の物理学者の際立った少なさなど)、政治や経済まで幅広く討論。議論に熱中しすぎたせいかハイウェイにも関わらず曲がり忘れる。数十分の損失。アクシデントもあったが、午後11時半程にはレンタカーを返し終える。その後、遅い夕食でお肉、ピザ、ビール、デザート。冷えたビールがおいしく感じる。

この日でイタリア観光はおしまい。どの街もそれぞれ特徴を持っていて町中を歩くだけでも楽しかった。ヨーロッパの観光旅行ならイタリアはお勧めできますね。

いざ、ヴェネツィアへ (2018/5/1)

今日は早起きしたのでベネツィアへ行くことにする。ベネツィアを題材にしたピアノ曲もあり一度行ってみたいと思っていた街である。フィレンツェSMN駅で切符を買おうとすると、キャンセルが出たのか本当は4,50EUR位のところを20EUR位で行きのチケットを購入できてしまった。早起きは20EURの得であった。

早起きしたせいか電車内では眠りに落ちてしまっていた。ボローニャで乗り換える必要があったのだが、ボローニャの手前で小さな女の子に足の裏を蹴られて首尾よく起きる。次の電車まで40分ほどあることを確認して、ボローニャ弾丸観光決行。サンピエトロ大聖堂やマッジョーレ広場を眺める。ボローニャは歩道がアーケードのような作りになっている。

その後、電車に乗り電車に揺られること2時間、ベネツィアに到着。駅を出ると素晴らしい水路と街並みの景色がお出迎え。フィレンツェから4時間かけて来た甲斐があった。街は小島にあるので歩いて一周してやろうと計画。ピザとファンタオレンジを片手に建物と建物の間にある水路の傍らを歩き続ける。水路には様々な舟が通っていくのだが、舟には多様なサービスがあるようで、一番目立っていたのは舟上でオペラ歌手がオペラを歌う舟であった。歌い終えると周りもなぜか拍手。私もつられる。

広場で料理の看板が出ていたので試しに見ていたら男性店員から何度か声をかけられたため、2時半程であったにもかかわらずあえなく着席。私の感じだと、普通のイタリア街ではレストランが客引きをすることはあまりなく、特にアジア人にはあまり声はかけられないような気がするが、観光地では声をかけてくることもあるようだ。そろそろスパゲティではなく新しいものに挑戦しようという意気込みが湧いてきてメニューを見ると海鮮タリアテッレ(tagliatelle with seafood)が目に留まる。「タリアテッレとは何か?」と聞くと「スパゲティみたいなもんだ」という答えが来たのでビールとともにそれをオーダー。やっぱり海に来たら海鮮ものですよね。

その後はまた歩き回る。ヴェネツィアの街には細い路地がたくさんあるが、それらは(ドラクエのような)RPGのダンジョンを思わせ、歩いていると見知らぬ街を探検する主人公のような気分になってくる。街全体で鬼ごっことかしたらきっと面白いんだろう。そしてところどころに小さなカフェがあってそこでカプチーノや紅茶をいただきながら足を休ませるのだが、壁には昔懐かしいプロマイド写真が飾られていて何とも趣深い。

今回は美術館や博物館などの施設には入らずただひたすら歩いて景観を眺めるだけだったのだが、それだけで十分満足。フィレンツェの宿に戻り、冒険の書に記録である。

Pisaの斜塔とPisaの海 (2018/4/30)

今日は朝からPisaへ。フィレンツェから列車で片道8.4EUR、1時間弱の旅。もちろん目指すはピサの斜塔である。現地に着くと人がたくさんいて完全な観光地と化していた。(ガリレイには物理学者として個人的な思い入れがあったこともあり斜塔に対してちょっとした神聖な気持ちを抱いていたのだが、あまりに塔が大衆化されているのをみて正直気持ちが冷めてしまったところがあった。)塔に登ってみようかとも思ったが、チケット売り場に長蛇の列が出来ていたためスキップ。その後近くのピザ屋でお昼。

さあどうしようかと思って地図を見ると、海が近いではないか!ということで海に行くことにする。ちょっとだけ海の方へ歩いてみたが、あまりに遠いのでバスを使うことにする。海の方角へ歩きながらバス停を探す。途中アイスクリーム店を見つけ休憩を兼ねて一つ購入。お店のおばさんが気前よく3つ盛ってくれた。暑い日にアイスクリームを食べながら歩くのは一層美味しく感じられる。

今回は首尾よくバスを捕まえることが出来、バスに揺られること15分程、ヨーロッパの内海にたどり着く。率直に言って美しかった。海岸線に露店が並んでおり歩きながら見物。サンダルを24EURで買った。(イタリアでは男用のサンダルは実はなかなか売っていない。)そしてもちろん海に来たら海の幸を食べて帰ろうということでシーフード料理屋を探す。フィレンツェまで帰る必要があるので早めにディナーにしたかったのだが、7pmではなかなかレストランは見つからず、最初のお店では「予約者のみ」と言われて断られ、何とかこの時間帯で開店していたレストラン(Il Giglio Marino)を見つけ入店。ウェイターの方も親切かつ丁寧で、お料理のお値段もリーズナブル。ここはやはりということでシーフードのスパゲッティ+シーフードの焼きものを注文。食事を終えてバスでPisaの駅へ。(えっ、料理の味はどうだったって?野暮なことを聞きますね、ここをど(以下略))この辺りで自分の眼鏡をどこかに置き忘れたことに気づいた。日本に戻ったら新調しないといけない...

帰りの電車では、とても親切なおばさんに出会った。こちらが降りようとすると「ここはどこそこの駅だ(からまだだ)よ」とか「まだフィレンツェSMNじゃないよ」など親切に教えてくれた上に、電車を降りると「私についておいで」と言われついていきそのまま路面電車に乗って途中までご一緒させていただく。路面電車の乗り方の勉強になった。安全に帰られていることを願います。

目の前の人が突然倒れたらどうするか? (2018/4/25) [リンク1:総務省消防庁], [リンク2]

今日はイタリアのNational Festivityという休日だったため、研究はやめにしてフィレンツェの街の探索を行う。今日のメインはバッソ要塞(Fortezza da Basso)という場所で、何か戦乱の後を思わせる物々しい遺物があるのかと思いきや、実際の中身は大きなショッピングセンターという感じであった。ある建物の地下では様々な国の文芸品や衣類などが販売されており非常に活気づいていた。

google mapがうまく機能しなかったため、バスと徒歩を組み合わせながら試行錯誤で帰宅を試みた。(最近はスマホが機能すれば大抵のことは出来てしまうので、事前に乗るべきバスや降りるべきバス停などを調べたり覚えておく習慣を失くしてしまっていた。要反省すべきである。)それで事件は最後のバスに乗った際に起きた。自分がバス前方で進行方向を確認し降りるべきポイントに気を配りながら乗車し、(そろそろ降りる準備をしよう)と思い後ろを振り返ったら、後ろで立っていた(恐らくアジア人の)男性が(倒れるというよりかは)徐々に崩れ落ちていきあっという間に床に倒れこんでしまった。近くにいた他の(恐らくアジア人の)方がいち早く介抱を行っていた。自分は現場に一番近くにいて一部始終を目撃していたにもかかわらず、何の行動も取ることが出来なかった。

このことに関して思い出すことは、近年土俵に上がった女性市長が突然倒れ現場にいち早く女性看護師が駆け付けて救命措置を行い一命をとりとめた、というニュースである。私はこのニュースを知っており、その後ネットで救命措置の方法などの画像や動画は見ていた。今回実際自分はそのような場面に遭遇したわけだが、このニュースのときに調べた経験は全く生かされなかったと言わなければならない。これを機にもう一度学んだ救命措置の結果を自分の言葉でまとめておく。

★ 人が倒れる
① 意識があるかどうか確認
あり⇓ なし⇘
安全な場所へ移動
必要があれば救急車を呼ぶ。
② 呼吸を見る
あり⇓ なし⇘
気道確保
応援・救急隊を呼ぶ。
胸骨圧迫開始
100-120回/1分間。
+人工呼吸(できれば)
30回後の胸骨圧迫後
1秒間の吹込みを2回。
③ AED装着+解析
  電気ショックが必要?
必要なし⇓ 必要あり⇘
胸骨圧迫+人工呼吸に戻る 1回だけ電気ショック
胸骨圧迫+人工呼吸に戻る

ローマと私の喜怒哀楽 (2018/4/22)

現在フィレンツェにworkshop参加のために滞在しているが、昨日土曜日ローマに観光に行ってきた。これはLondon滞在で知り合ったイタリア出身のポスドク仲間Aが勧めてくれたから、と言うべきで(勧められなければ案外遠いし、行かなかったように思う)、総じて行って良かった。記憶が鮮やかなうちに文字に起こしてハイライトしておこう。

私は個人wi-fiを持っていないので、前日にローマ近辺のgoogle mapアプリが提供するoff-line mapをdownloadしておく。これによりインターネットがなくても自分の選んだ地域のgoogle mapがダウンロードされた状態で使える。このことを教えてくれたインド人ポスドク仲間Sに感謝。

朝、普段通り起きバス停に向かう。bus ticketはいつも乗車しながら€2払って買えるが、実は町にあるtabacchiなどの小さな商店で買えることが後から人に聞いて判明。こちらの方が€1.2とお買い得。(以上の値段はいずれもフィレンツェ内での話。地域が変わるとバスの値段も変わる。)

フィレンツェ駅につきローマ駅までの切符を買う。一駅だけの直通切符が€48。(追記:日帰りの場合は往復で買うと10数EUR安くなるようである。)乗り心地は良い。ローマ駅に着くと早速歩いて中心街へ向かう。自分の観光の基本方針は、現地に着いたらひたすら歩くこと。知らない街並みを見ることそれ自体もすでに観光であるし、日ごろの運動不足解消も兼ね、かつお金もかからないと一石三鳥である。

まず向かったのは、コロッセオ。コロッセオ周辺に関する歴史や感想は他サイトに譲るとして、特筆したいことと言えば流石コロッセオだけあって観光客から金をむしり取ろうとする奴らがたむろしていることだ。一人目のやつはいきなり左腕を力づくで掴んで何か言ってきたが振り切って難を逃れたものの、二人目に関しては日本語で話しかけてきたので(歩き疲れていたせいか)うっかり挨拶し返してしまった。その後付きまとわれながら片言の日本語で話続けてきて最後はまた力づくで腕を掴んできて何か紐のようなものを無理やりつけようとしてきた。こんなものを付けさせられたら金をせびってくるのは目に見えていたので、こちらも力で振りほどいて難を逃れた。明らかに自分をターゲットにしようという気配が分かったので、やはり日本人は鴨だと思われているのだろう。内側に入ることなくコロッセオを脱出し、隣のパラティーノの丘に行く。こちらに行く方が断然良いと思う。

その後、真実の口へ向かうも行列が出来ていたため引き返しパンテオン(Pantheon)へ向かう。途中にあった亀の噴水(Fontana delle tartarughe)に着いたら、弦楽器(ヴァイオリン、ビオラ(?)、チェロ)を持った若者3人がゲリラ的に演奏を開始する。曲名は出てこないが聞き覚えのある有名な曲で、音色から察するに恐らく音楽学校に所縁のある者たちと思われる。いつの間にか人が集まりだして一つの曲が終わるといつの間にか拍手喝采が送られていた。私はその前にあるオサレなカフェでカプチーノ(€1.2)を飲みながら演奏を聴く。優雅なひと時を味合わせてもらったのでチップを置いてその場を後にした。

パンテオンを覗いた後はボルゲーゼ公園(Villa Borghese)へ向かう。途中スペイン広場(Piazza di Spagna)に17時ころ到着すると丁度制服を着た演奏楽団が演奏を開始したので、これも聴いていく。ここから公園へ行く途中メディチ邸(Villa Medici)があるが、絶景の見晴らしをもつカフェが中にあり写真に収める。隅々まで散策していたら、くつろいでいるイタリア人女性からイタリア語で何か声をかけられる。何を言っているのか分からなかったが、後ろにいた衛兵さんに「君は何を探しているんだい?」と聞かれたので「Just walking.」と答える。その後もイタリア語で何か聞かれたがやはり分からないので"Ciao!"と言ってその場を後にする。公園へ着くと、様々な人々がそれぞれの土曜日を堪能する様が見て取れ、思わず私の歩みも遅くなる。

公園の池の前で地図を見たら、日本庭園(Giardino Giapponese)なる場所をたまたま見つけ、(イタリアにある日本庭園とはさてどんなもんか)と思って興味深々で行ってみたら閉まっていた。すぐ側に大きな鯉のぼりが上げられているのが見え「日本らしさを演出するならとりあえず鯉のぼりでもあげとけ」という雑な感じに親近感を覚える。

その後、ヴァチカン市国に向けて歩みを進め19時前にたどり着くも、足の疲労回復のため広場で休憩を取る。19時を回りだしたので、ヴァチカン市内部へ行ってみようと歩を進めたが、私が入場口にたどり着いたのは最後の列がちょうど入場を終えた後であった。タッチの差であり無念ではあったが、次のチャンスに期待しよう。

良さげなレストラン(Goose)を見つけたので入ってみたら、非常に美味しかった上にウェイターさんも親切で大変満足した。シャンパン500mlを空け、ほろ酔い気分で地下鉄へ向かう途中、人気のない薄暗い道(Via Innocenzo XIII)を通る必要があったのだが、ここでやられた。最初は車に乗っている男から"Chinese?"と話しかけられ、最初は無視して歩けたのだが、2回目に声をかけてきたときは"Police. Show your passport."と言ってきた。酔っぱらっていたせいもあり、疑う心を完全に失ってしまっていた。財布を出させるためにまずは"Drag? (薬をもっていないか?)"と聞いてから、財布を出させて「検査」を始めるのだ。「フィレンツェに帰らなければならない(からもう行きたい)」と言うと、助手席の奴が「駅まではどうやって行くんだ?」と尋ねてくるなど連係プレーもお手の物だ。ここらあたりで紙幣を抜き取ったのだろう、財布を返すと質問もあからさまになって「他に金を持っていないか?」と聞いてきた。「ない」と答えると握手しながら車を発進させたのだが、それと同時に自分が財布からお金を抜き取られたのだということを瞬時に察した。(この現象自体は、自分の無意識とも関連しており大変興味深いが、この現象のさらなる考察は長くなるのでまた別の機会に譲る。)「ナンバープレートを覚えなきゃ」なんてことすらも思いつかないほどの早業だった。被害額は定かではないが、€100+\50,000±\10000という感じ。当日ATMでお金を降ろしたことも仇となった。当然ではあるが、海外では使わない日本円は財布ではなく別な場所に入れた方がよい。

旅行気分など完全に吹っ飛んだ挙句、終電もタッチの差で逃した。致し方ないので自由に弾けるピアノがあることに気づき小一時間ほど弾いていた。弾き終えるとカフェにいる2,3人の方から拍手をしてもらったことはうれしかった。

その後は寝る場所を探しに駅から外に出て歩くと、Blogna駅近辺で大勢の若者がたむろしながらお酒を飲んでざわざわしていた。バーの店員さんに聞くとどうやら彼らは大学生で毎週土曜日に集まって真夜中までお酒を飲んで騒ぐ週間があるらしい。(これは非常に良い「出会いの場」にもなっているのだろうと思う。)その場を後にして寝る場所を探し、(他の人も寝ている)公園のベンチを見つけそこで仮眠をとる。もちろん盗難の件もありなかなか寝付けなかったが、3時間ほど眠った後は起きて駅へ向かう。

フィレンツェへ戻ってもまだ災難は続いたが(google mapの指示が正しくない、ホテルへ戻ってシャワーを浴びようとしたらお湯が出ないなど)、ベースに戻ってしまえば何とでもなる。今日は部屋でゆったり過ごしながら雑記更新。気持ちを整理し明日からの研究生活に備える。

ノート更新履歴: Italian note uploaded, minor corrections

ロンドン滞在記 (2018/4/6)

今日は疲れたので早めに切り上げて帰ってしまったところ、帰宅後間もなく同僚からバーに飲みに行くというお誘いメールが届いていたことを知り無念を感じる。特にやることもないので雑記でも更新しておこう。

今回の旅ではいわゆる民泊を利用して滞在している。ロンドン中心部近郊のフラットで日光もよくさすなかなか良いお部屋。朝食付きにも関わらずお家賃はお手頃で一日7千円に満たない。この低価格が実現できる理由は、恐らく人件費、維持費があまりかからないからと思われる。今回の滞在で別の民泊も利用したのだが、そこでも私を迎えたのはhostではない「外国人」(「移民」と呼ぶべきなのかは定かではない)であった。地主であるhostが(中間業者に委託するのではなく)「外国人」を雇い自身の所有しているフラットの管理・維持を行わせる経営スタイルと言える。hostは民泊業者に登録し旅行者とのメールのやり取りさえすればよく、自分の時間を自由に使いながら不動産を利用するという、地主生活の醍醐味ともいうべき左団扇な暮らし方が実現されている模様。

中国人、アメリカ人、東欧人など人が良く入れ替わるが、ハイライトと言えば、キッチンで出会ったUSから来たというマダムとちょっと雑談した際に「あなた面白いわね(You are funny.)」と言われたことだろう。その時自分は会話にネタを仕込んだわけでもなく初対面の外国人にネタを仕込む度胸もあるわけではないが、どうやらUSマダムは私の笑いに対する内に秘めた底知れぬポテンシャルを(以下略。

週末はWestminster周辺を歩き回りいわゆる観光名所を見て回った。立ち寄った教会では、早朝にもかかわらず教会に1人来て座り聖書であろう書物を読みふけっている(恐らく一般の)方を数人ほど見かけ印象に残った。その後、V&A博物館、自然史博物館に立ち寄ったが、これらは入場無料なので気軽に入場出来てよい。その後、大きな公園に向かいDiana妃の記念公園にも立ち寄り休息後、バッキンガム宮殿、トラファルガー広場、国立美術館(←こちらも無料)を制覇。足がだいぶ疲れた。

来週から研究会が始まる。海外の研究会に参加すること自体久しぶりだ。生粋のイギリス人の話す英語は自分には正直聞き取りづらく、会議での英語がうまく聞き取れるかどうかは定かではないが、必要があればスピーカーに果敢に質問に行こう。

長期出張 (2018/3/17)

いろいろ忙しく更新が滞っていたが、今週あった研究会の終わりで一段落。次の長期出張の前の束の間の休息。昨日は学生やポスドクと研究会打ち上げ。皆さん元気で大変良かった。 (最近いろいろ残念なニュースが流れてくるが、元気が無くなってきたと思ったら無理をしないで早めに仕事を切り上げたり、よく寝てリフレッシュするのがよいように思う。無理をして体や精神を壊す方が良くない。) 今回の出張先はイギリスとイタリア。イタリアは初めてで、前評判から一度行ってみたいと思っていた国だ。楽しみにしよう。

ノート更新履歴: Python note uploaded, minor change of style file, typos fixed

【悲報】 腹、出っ張る (2018/1/6)

年末年始実家に帰省したのだが、焼き肉、牛タン、お寿司、お酒など思うがままに食べてしまった。さらに昨日京都に戻ったら学生の博士論文の提出締め切りでその打ち上げにも参加、日をまたいでお酒を飲んでしまった。デニムパンツが入るか心配だ。...とこんなことを書いていたら、昨年研究室で「ラボ川柳」の話題がでて学生から一句促された際に私が詠んだ川柳を思い出したので書き残しておこう。

「我の腹 宇宙とともに 膨張し」

みなさま、新年明けましておめでとうございます。

物理学史ノート (2018/1/4)

大枠が完成。2016年4月に京大に赴任してから始め、平日研究が終わり自宅に戻った後や土日祝日の私的な時間を使って少しずつ書き足しながら今日の形になった。雑な部分も多いが、物理学の歴史を大雑把に知りたい人にとって役に立つのではないかと思いとりあえず自由公開にしておこう。折角の機会だからこんなことを始めた動機を書いておくと、、、と思ったが書き始めるとまた時間がかかるので止めておこう。時間を気にせず自由にものを書けるようになる日は来るのだろうか。

「お金持ちの養子になれー」 (2017/12/16)

最近休日に行きだした小さな食堂に行ってお昼を食べているとご主人から「もう冬休みなんでしょ」と言われたため、いやそんなことはありませんよ、といっているうちに自分が研究者であることを明かしてしまう。すると奥さんが「理系の研究者は研究室に張り付いてばかりで大変なんでしょ。」と一部の研究室の現状をご存知のようであった。どうやらそういった研究室の学生もしくは雇われ研究員がこの食堂にも来ているらしい。思わぬところで研究者に理解がある方に出会えて嬉しかったこともありいろいろと長話をしてしまった。帰り際に湯川秀樹の話しがご主人から出され、奥さんから「やっぱりノーベル賞をとるにはいいサポートがないとねえ。お金持ちの養子になれー。」と言われた。(最近湯川博士の終戦期の日記が公開されたそうだ。リンクを貼っておこう。)

「産まぬ子供の名前付け」 (2017/12/12)

同志との宴 (2017/12/10)

昨日は同期で同じ物理のポスドクである友人と酒を飲んだ。彼にはごく最近民間就職をするということを告げられた。 彼も私同様半生を物理に費やし自らの手で懸命に新しい結果を出しながらポスドクを生きてきて、分野は違えどその業績がこちらの耳に届いてくることもあった。 彼の力が今後未知の物理の開拓に発揮されないことを考えるのは残念というより他はない。別の業界に行っても彼の力を存分に発揮してほしいと思う。 彼と京都駅で分かれる直前、久しぶりに彼から軽口を聞いた。年内に東京に行くそうだが、旅立つ前に会えて良かった。

男子のニャーンは自由にする (2017/12/6)

最近twitterを見ていたら、「男子が辛くて困った時などにニャーンと呟くことに対し、ある女から"イケメンでもかわいくもないのにそんなことをいう男には膝蹴りをしてやりたい"と言われた。」的なtweetを見かけた。はっきり言ってけしからん話だ。猫好きにとってのニャーンとは、キリスト教におけるアーメンのようなものだ。そんなことすらも分からない女の気持ちに忖度する必要はない。そんなことを女に言われたらこう言い返してやろう、「ニャンだとこの野郎!」と。男子にもニャーンと呟く自由がある!ニャーン!

とちょっと息巻いて書いてしまったが、もしかするとその女性はツンデレ気質をもっているかもしれない、と感じてきた。もし仮に膝蹴りしたい部位が背中であった場合にはその可能性が若干残っているように思われる。がしかしそんなツンデレ女が今時いるとは考え過ぎかな。

NF開催中 (2017/11/24)

京大で文化祭が行われているようです。基研のあるキャンパスでは静かなもので全く気づいておりませんでした。学生が「NF、NF」言っていたらそれは京大の文化祭の略称のようです。私も京大所属研究者の端くれとして本ホームページで宣伝をして微々たる貢献をいたしましょう。もう少ししたらお酒でも飲みに行きましょうかね。今日は接待でも一杯やりましたがプレミアムフライデーらしいですしね。

冬は鍋 (2017/11/19)

今日はひさしぶりに近所のスーパーで買い物。泥付きネギが目に留まり「あまり安くないな」と思いながら触って調べていたら、私の後ろをスーパーの店主が通り過ぎ、その際「今日は大きい白菜が入っとるから、よく選びーや」なる旨を伝えてきたため、思わず白菜を何年かぶりに手にとってしまった。(声をかけてきた店員が店主だと判断している理由は、店主の風格もさることながら、以前レジを打ってもらった際のレジ打ちも速かった上、そのとき偶然にも会計の合計金額が777円だったことを指摘され、「10年位やっとるけど、こんなこと初めてやないか。レシート大切にとっときーや。」的なことを言われたからである。)白菜を買ってしまってはもうやることは鍋しか思いつかず、そのまま豚肉などを買い、鍋決行。味付けはポン酢。いとおいし。

[悲願] ズボン、入る (2017/11/5)

昔はけたズボン(デニムパンツ)が若干きついが入った。昨日は22km程走ったしランニングの成果が出てきたようだ。これで新しいパンツを買わなくて済みますね。

学生時代の(未熟な)著作物をなぜリンクするのか (2017/10/8)

本ホームページには私の学部時代のホームページや修士時代のブログのリンクが貼られている。某お店(Gorilla)でこのことについて話題になった時Hくんは「昔のブログを載せるのは自分だったら恥ずかしい」なる旨の発言をしていた。このことについて私はむしろ同感であり、一部の文章を今読むと「こいつ何言ってんだ?」という感じで顔から火が出た瞬間に消火活動を行う(ブラウザを閉じる)のであるが、自分がそのような過去の遺物を載せるている理由はいくつかある。一つは、自分の恥ずかしい、未熟だった過去をとりあえず残してみようという試みである。東大にいた際に何回か言及があったこととして、一部の優秀な人は過去に間違いを冒していたり未熟だったりした自己を忘れ去り、最初から自分は分かっていた/優れていたという風に振る舞う傾向がある。私からすればそのような態度は自己の歴史の改ざんであり誠実ではないと思う。第二に、自分の成熟した度合いを測るための優れた物差しになる。第三に、自分の精神やものの考え方はほとんど不変でありそれらは自身の技術的な成熟の度合いとは無関係であることが確認できる。第四に、恥ずかしい部分も多いが自分が過去に考えていたことは存外面白いものも多い。先ほどちょこちょこ読み直してみたが次のような感想をもった。 「このボーズ、なかなかおもしろいこと書くな」 (お前は誰だ?)

信念を試す方法 (2017/10/7)

ある行動が一定の信念に基づくものであるかどうかを判定するには、その行動が(外部の状況によらず)一貫して続けられているかどうかを見れば良い。その行動が、外部から注目されなくなったり他者から評価されなくなったりした途端中断されてしまったとすれば、それは信念に基づいていない行動であったと言える。(ここでは信念の浅薄という概念は論外である。ころころ変わる行動には信念がないものとする。)特に一貫された、信念に基づいた行動に変化が見られた場合、それは信念に変化があったことを示唆する。

特急券は一度で買うと安くなる (2017/10/6)

信州大学でセミナーをするため京都から名古屋経由で松本まで行った際、京都-名古屋間は新幹線、名古屋-松本間はしなの特急券を使ったのだが、どうやらこれらの特急は一度で買うと安くなるようだ。行きはこのことを知らなかったので販売機で新幹線の切符を買い、名古屋でしなの特急券を買ってしまった。今後気をつけよう。

全米デビュー6秒間 (2017/10/1)

京大近辺の沖縄料理を出すお店でディナーを済ませお会計の際に発生するちょっとした時間を使って壁に貼ってある写真を見ていたら、ご主人にその写真はテレビ(「xxxの女」)でお店が使われた際の一場面であり、ご主人もその番組に6秒間程映ったという説明を受けた。さらにその番組は全米でも放映されたそうで、全米デビューしたとおっしゃっていた。「すごいじゃないっすか。」と素朴な感想を言うと満足そうにされていた。

関連して思ったことがあったが書きつけるのは時間がかかるのでやめておこう。時間ができたら書くかもしれない。(この文章のタイトルが「マジで恋する5秒前」に似ているとかそういうのではなく真面目なこと。真面目なことを書くと疲れますからね。)

ショパンの曲が弾きやすい理由 (2017/7/29)

昔弾けたショパンのピアノ曲(Barcarole)の練習を今日から始めたのだけど、学生の頃誰かに「ショパンの曲は弾きやすい(と言われている)」と言われたことを思い出して、自分はあまり多くの曲を弾いたことがないので当時はそんなもんなのかと思うだけでそう言われる理由が具体的にはよく分からなかったのだが、その理由が今日何となく明確になった。たぶん左手が右手の運指を教えてくれるからなのだと思う。(もちろん他にも、手が小さい人でも弾けるような無理のない指使いになっている、なども理由としてあるとは思うが今日はっきりした理由は見落とされがちであるが重要な気がする。ちなみに東大の本郷図書館にはショパンの(確か左)手の実物大の模造があるが、自分の小さな手と同じくらい小さかった。)よくよく考えたら自分が練習曲10-4を暗譜するときも自分はこのことを念頭に置いて練習していた。理由が明確になったので書き残しておく。このことがショパンの曲に限るのかどうかは素人にはよく分からない。

パソコンの分解掃除 (2017/7/9)

最近パソコン(Dynabook)を充電するとすぐに熱くなって困ったのでパソコンの裏蓋を開けて分解掃除を実施してみた。埃は思ったより無かったが、ファンの内側に小さな粒子状の埃がたくさんついていたので、精密ドライバーを使って布を押し込みながら掃除した。結果は、劇的な改善というほどではないが、前より明らかに状態は良くなった。なんでファンの掃除が改善につながるのか不思議ですね。

PCが熱くなって困ったら皆さんもお試しあれ。

創立記念行事音楽会 (2017/6/25)

行ってきた。人生初のピアノリサイタル。行って良かった。せっかく行ってきたので感想を書き残しておこう。(何様感があるかもしれないが、本音を書くとそうなってしまうのならそれは避けられないと思うより他はない。)

ピアニストの年齢は書かれていなかったしあまり興味もないが、衣装から察するにそれなりにお年を召していらっしゃる方だとは思う。しかし、その声や話し方には若々しさを感じ、年を取ると失ってしまいがちな「乙女心」を大事に残している印象を受けた。

前半は、ショパンやリストなどのロマン派音楽で後半はスペイン音楽や日本人作曲家のピアノ曲の演奏。個人的にはリストの曲はあまり好きではなく、その理由はきざな音色を感じるからなのであるが、この度聴いた演奏(たぶん「愛の夢」のとき)ではあまりに規則正しく弾いていたので少々驚いた。「仕事で演奏を繰り返すようになると感情が擦り減って感情なんか一切入れてられない単調な演奏になってしまうのか?」と思わせられるほどであった。 しかしこの予想は必ずしも正しいとは限らず、実は別に大きな理由があるのかもしれないと感じた。その理由は前述した「乙女心」とも関連するのだが、そう感じた理由は、後半のピアニストのアンニュイなスペイン音楽の演奏では明らかに曲の表情が出ていたからであった。これは演奏者の「第二の故郷」がスペインであることから自然なことなのかもしれないが、その大きな演奏の相違が自分に予想を修正させた。その後日本の作曲家による演奏も聴いたが、正直スペイン音楽の時の演奏が最もしっくりくる演奏であった。

ピアニスト様の今後のご活躍をお祈りいたします。

声が大きい理由 (2017/6/4)

しばしば自分は声が大きいと言われる。このことに関してはいろいろなエピソードがあるがそれは今は置いておくとして、自分の声が大きくなる理由を今日思い出した。 理由は単純である。自分は恐らく耳が悪いのである。相手の声が聞こえづらいので自然に声が大きくなるである。(実際、自分の声がどういうふうに他者に聞こえているかは、録音して自分で聴くより他に方法があるまい。)しばしば高齢の方で声の大きい方がいるが、想像するにそういった方は耳が悪い/悪くなったのである。 端的に言えば、私の声が大きい理由はおじいちゃんのそれといっしょ、ということだ。(このことで思い出したエピソードとして、私は大学入試の英語のhearingテストで聞き取りに苦労し、友人にそのことについて愚痴をこぼした際、自分は耳が悪い、と言ったことがあった。友人は、それはいい訳だよ、という感じに返答をし、自分も当時は言い訳かもしれないと思ったが、やはり自分は耳が悪い方だと思う。) 思い出すまでは、自分は声変わりの時期に声が変わることに失敗したという理由を言い続けていた。これは、自分の声が高くよく通ることに対する理由にはなるが、声が大きい理由にはならない。

一度理由を忘れてしまうと似たような状況に遭遇するまで理由を思い出せないことが多い。理由を思い出させてくれた出来事は有り難いと思う。

体型を気にする理由 (2017/6)

日本に戻ってきて京大に赴任してから自分は体型を気にしだした。そのせいもあり、自分は昨年末あたりからランニングを始め現在はフルマラソンを完走することを目標に週に一度程度走っている。自分が体型を気にしだした理由を思い出したので書いておくと、健康診断で自分が肥満の兆候があるという診断結果が出たことである。

その後、週に一度のサッカーやランニングを行うことでまあまあ体は絞れてきたが、自分はまだまだだと感じている。お昼の時間にそのことを話したら、Sさんになぜ体を絞ろうとするのかと質問され、そのときは「たるんでいるように感じるから(I feel spoiled (loose).)」と答えた。この答えは用意していたものではないのだが、自分の性格が的確に表されていると思う。体型がダボついていると自分がぬるま湯につかったような生活を送っているようで許せないのである。 (だからといって他人に対して同じように思うということはない。(このことにも相応の理由がある。)) さらにその他の理由を思い出したので書いておくと、過去に自分が履いていたズボンが入らなくなったから。この理由は結構大きい。おそらく昔のズボンが履けるようになったら体を絞ろうとすることをやめるだろう。 外見的に美しい体型が欲しいという願望もないことはなく、なれるものならそうなりたいが、それには食事制限なども必要になってくるだろうし、そうまでしてやる気を感じない。

迷惑者対応マニュアル (2017/4/13)

作ったので公開しておく。([pdf])

数学にはない理論物理の強みII (2017/4/13)

またしても数学と理論物理学に関する私見。

数学書や物理学書を見ても分かるように、数学者と理論物理者とで結果に対する説明の方法はしばしば大きく異なる。その違いは、数学界隈ではとにかく定義が完全に与えられながら議論が進行することを重要視するのに対し、物理では定義が完全かよりも動機(ex.どうしてそういう定義をするのか?)や結果をわかりやすく説明することが重要視される。(この違いは、過去に自分が数学と物理どちらを学ぶかを決める際の、小さくはあるが、一つの理由になったと思う。) 私は理論物理流のプレゼンの方が、聴衆がトークの結果や技術をより学びやすいという点で優れていると思っている。 実際、動機や使い方の分からない定義を聞かされても、覚えていることは困難だし、それを知らない者にご利益がすぐに分かることは稀で、しかも最後まで聴いてもそのご利益が分かる保証はないから、プレゼンで意味の不明な定義を聞かされると聞いている方には大きな負担となるのである。そういうことをやるくらいなら、そういう定義およびその定義が含まれる計算をスライドから省くことを考えた方が良い。理論物理界隈において「手品をしているかのようなセミナー」(「この定義をとりあえず認めてみましょう。そうすると、面白い結果が導けますよ[あら不思議、こんな結果が導けました]。」)は好まれない。とはいうものの、物理学者でもこのようなプレゼンをする者はいて、インドにいた時そのようなプレゼンをする物理学者がいた。動機を説明しない定義を羅列して聴衆から質問を受けたとき、まさに彼は上のような返答をしていたが。。。もちろん、常に定義を明快に導入できるとは限らないし、分野を知らない聴衆は一定の忍耐力をもってプレゼンを聴くべきであることは言うまでもない。

数学書でもこのような傾向があり、前半は動機がわからない定義を様々導入して種々の定理を導くが

  1. 定義は実は実際の計算では全く有用ではない、
  2. どの定理が有用であるのか一目ではわからない、
  3. 最も有用な結果が一番最後まで読まないと出てこない、
といったこともしばしばある。(このことに関する印象的なエピソードを書き残しておくと、ある物理学者の同僚Sさんが、ある数学書を読破しようとしたが読みあぐね、著名な数学者(K氏)にどのように数学書を読んだらよいか尋ねた際、氏は「(数学書は)一番後ろから読んでいく」という旨の返答をした、と聞いて「ちょっとそんな風にして読まなきゃいけない本の書き方は初学者には不誠実なんじゃないか」と思ったことがある。)専門分野は専門家さえ分かればよい(分かるものさえ分かれば良い)という傾向が強くより淘汰が進みやすいと言える。

以上のことは、数学界隈はそういう文化をもつのだろうという自分の漠然とした考えであり、態度を改めるべきなどと批判しているわけではないことを強調しておく。

つけられた (2017/4/8)

京大近辺の(E先生お好みの)某中華屋にてランチを済ませ、お会計の際細かいのがなかったので一万円札で払おうとしたところ、「細かいのない?」と聞かれ、ない旨を伝えると「じゃあまた今度でいいよ、あなたの顔は覚えているから。また来てね。」と言われ、お代を済ませずに出てしまった。忘れないためにもメモっておこう。しかし、店員さんが僕の顔を覚えているとは、僕の顔はよほど中国人に似ているのかな。今度坊主にしていってみようかしら。(追記:今日返済し終えた。4/15)

ホームページ公開 (2017/4/1)

暫定的にアップロード。

外国人も日本に住むと日本人化する (2017/3)

日本人と外国人との違いの一つに廊下での知人とのすれ違い方がある。海外にいた時は、外国人は廊下ですれ違うときはたいてい"Hi"などと言いながらスマイルをするのが通例のような気がするが、日本では廊下ですれ違うときはたいてい軽い会釈だけのときが多い気がする。(「どうも」などとも言うかな?)先日、よく会うわけではない微妙な距離感の外国人と廊下で出会った時(正確には相手は部屋を出てくるときに鉢会うような状況だったのだが)、私は"Hi"と言おうとしたのだが相手は私に気づいていないようであった。もちろん相手が実際に気づいていなかったのかもしれないが、そのときの彼のすれ違い方が日本人ぽくて印象に残った。

精神的多忙 (2017/1)

年末年始は読書や雑記を書いている余裕ができる。というか、余裕をもとうとしている、という方が正しい表現かもしれない。精神的多忙な生活は一定の成果を出し続けるのには向くかもしれないが、創造的な仕事には向かない気がする。(Princetonでのポスドク生活に対する南部さんのコメントを思い出す。)ゆとりのある生活がしたい。

分類と虚無 (2017/1)

未知のものに出会った時、「恐れ」を抱く人と「期待(わくわく)」を抱く人に分かれる。同様に、ある物事の分類が完成されてしまうと、「美」や「達成」を感じる人と「虚無」や「退屈」を感じる人に分かれる。負の感情を抱く対象は正の感情の源泉ともなるし逆もまた然り。全ての事柄が分類されてしまった時人は何を思うかな。

法律 ≒ 例外処理 (2017/1)

図書館でふと憲法に関する入門書を呼んだので、法律に関する自分の素朴な考え方をまとめておく。自分の憲法や法律に対する考え方は法学者による厳かな導入とは全く異なるが、自分は厳かさを否定するつもりはなく、厳かさにはそれ自体の有用性がある。具体的には、実定法や裁判所が出す判決の主文に「厳かな」文体が用いられることで、その中に法体系の中で独自に構成された概念と、それから紡ぎだされた判例の歴史や蓄積による重みを反映させることができる。

これはあくまでも自分の素朴な考え方であることを強調しておく。

「各要素が2つの属性のうちの片方をもつ母集団のうち、一方の属性をもつ要素数を調べるには標本としてどれくらい調べればよいか。」 (2016/11)

研究室の学生がTAをやっていた際の問題として質問を受けたものを考えた時のメモ。以下母集団の数を$M$、その属性をもつ要素数を$D$、標本の数を$n$、標本のうちその属性をもつ要素数を$d$とし、$p_{true}:=D/M$、 $p_{try}:=d/n$とすると、この標本から予想される数は$D\overset{?}=M\times p_{try}$であるが、標本数をできるだけ小さくして右辺の値が真の値に近いことが期待できるようにする問題である。

  1. (分布の近似) 各要素が2つの属性の一方をもつ場合の分布は二項分布でよく近似できる。
    「(二項分布)=(全体$N$のうち、各単体が確率$p$である属性をもつ場合にその属性をもつ単体の数$X$で表される離散確率分布):$~P_N(X)={}_N C_X p^X(1-p)^{N-X}$.
    期待値は$E[X]=Np$,標準偏差(=分散の平方根)は$\sigma[X]=\sqrt{Np(1-p)}$である。」
    二項分布の適用には、$N\to M, p\to p_{try}=d/n$とする。すなわち、真の確率はわからないので、標本で推定した確率を用いて期待値を計算する。
  2. この二項分布の近似で得られた期待値の精度を調べるために、中心極限定理を使う。このため、標本の数$n$を十分大きく取る。この近似による分布の各点における誤差はせいぜい$1/n$程度と思われる。
    (中心極限定理) 「平均$\mu$、標準偏差$\sigma$の任意のある分布に従う母集団に対し、$|X|$個の無作為標本に基づく標本平均$\bar X$は、$|X|\gg1$のとき、平均$\mu$、標準偏差$\sigma\over \sqrt{|X|}$の正規分布に近づく。」
    $~P(a\leq {\bar X - \mu \over \frac{\sigma}{\sqrt {|X|}} } \leq b) \overset{|X|\to\infty}\to {1\over\sqrt{2\pi}}\int_a^b dx e^{-x^2 \over 2}.$ 特に、$a=-b=-k \; (k=1,2,3)$に対し、$~P(\frac{-k\sigma}{\sqrt {|X|}} \leq {\bar X - \mu } \leq \frac{k\sigma}{\sqrt {|X|}} ) \overset{|X|\to\infty}\to (0.683, 0.954, 0.997)_{k=1,2,3}.$
    今、母集団が二項分布に従うと仮定しており、$\mu \to D=M \times p_{true}, \sigma\to \sqrt{Mp_{true}(1-p_{true})}$であるが、本当の分散はわからないので、$\sigma \to \sigma_{try}=\sqrt{Mp_{try}(1-p_{try})}$で近似して信頼区間を計算する。
  3. この近似のオーダーは、$\frac{\sigma}{\bar X\sqrt {|X|}} \sim \sqrt{1-p_{try} \over nMp_{try} }$である。

メモ (2016/11/11,2017/05)

船頭をイメージし音の流れを作る。背後にある音の流れを感じ取りながら、音に身をゆだねる。 気持ち遅く感じるぐらいで調度よい。悠久の時間を経て音の波がやってきているかのように。

数学にはない理論物理学にある強み(2016/09)

理論を解析する際に現れる理論の持つ「形而上学的性質」をうまく取り込んでいるところがある。例えば、数学者はしばしば経路積分を受け入れないが、これは数学がその伝統として理論の定義において発散を許さないことによる。しかし、物理では発散を許す定義を採用し、現れる発散への対応は後から説明する場合が多い。一部の数学者などからすればこのような説明はad hocで不適切に思われるかもしれないが、このようなことは研究の最前線ではよく起こることで自然なのでむしろ誠実で実用的な説明といえる。(Fourier変換する際、その関数がFourier変換可能かどうかは考えず、とりあえずFourier変換をしてみて変な結果が出たらそのときには何か考える、という態度である。)このad hocな操作を最初に書いておけば(発散を許さない)数学的な定義になるが、そのデメリットとして最初にそれを書いてしまうとなぜそういうものが出てくるのかが不明瞭であることが挙げられる。理論を展開している際に発散の処理の説明をする方がその動機が明瞭であるし、説明の手間が省ける。また、現れる発散とそれへの対処法が重要な物理的意味をしばしばもつため、定義の中に発散を許容しておくほうが都合がよいことによる。

神について (On God) (2016/07,08)

神についての私見。

べジェ曲線について (On Bejier curve)

べジェ曲線における素曲線は、始点と終点の2点と、それらの点における曲線の接線と曲率の組を与えると定まる。 したがって、ある曲線Cをべジェ曲線近似して描画する場合(C=ΣiCi)その描画は次の素過程からなる。

  1. 曲線Ciの起点となる場所でクリックする。このときクリックポタンを離さない。
  2. ドラッグして(進むべき)曲線Ciの接線方向を定める。ドラッグしたボタンを適当な場所で離し、曲線の曲がり具合を定める。
  3. 曲線Ciの終点となる場所でクリックする。このときクリックボタンを離さない。
  4. ドラッグして到達する曲線Ciの接線方向を定める。希望した曲線になるよう接線方向へドラッグする。クリックしたボタンはまだ離さない。
  5. Altボタンを押しながらドラッグし、次の曲線Ci+1に対して2を行う。 →  [Link: The Bejier Game]

運転免許ノート

博士過程時代に夏の免許合宿にて作成した。作成動機は、マニュアルチェンジにおける半クラッチ操作がどうしても理解できず実技試験が近づき追い込まれたから。もし試験に合格しなければ20数万円と累計時間の損失となる状況であった。ノート([pdf1])を作ったおかげで半クラッチの定義が自分の中で確立した。また、数回ある筆記試験のために、授業中に講師から試験に出ると言われたところを中心にまとめたノート([pdf2])も作った。真面目に勉強したのは、試験に何回か落ちるとお金を払わないと受験できないシステムであったから。ノートを作ったおかげで、過去問が載っているとされた数千円の「虎の巻」を買わずに全て一回で合格した。