Volume 31-1レビュー論文
有限密度格子QCDと符号問題研究の現状と課題
永田 桂太郎 (高知大学)
素粒子論研究・電子版 Vol. 31 (2020) No. 1
2020年3月3日受理
古いバージョン
[PDF(本論)] (2020年2月18日受理)
概要
有限密度格子QCD とは有限密度QCD,すなわちクォークの統計的な多体系を強い相互作用の第一原理である量子色力学を用いて解き明かそうという研究分野で,物理系としてはクォークグルーオンプラズマ, 原子核, 中性子星などを対象とする. マクロな系の性質をミクロなレベルから記述することは物理学の発展の自然な流れであり, 強い相互作用の理論的な完成を見るためには有限密度QCD を解く必要がある. また, 上記の物理系のそれぞれに未解明の課題が残されているが, 実験/観測の困難な課題も多く, その解明のためにも有限密度格子QCD の研究が切望されている.
有限密度格子QCD の解析にはある難問が立ちはだかっている. それが本稿の主題である符号問題である. 符号問題はマルコフ鎖モンテカルロ法の破綻として知られるが, 端的に言えば, 性質の悪い被積分関数を持つ多重積分の数値解法に関する問題である. したがって, 統計的自由度を扱う分野であればどの分野においても発生する可能性があるが, 経験的には, 相転移など物理的に重要な応用例において発生することが多い. これは必ずしも偶然ではないようで, 理論的背景の1 つとして相転移と分配関数のゼロ点に関するLee-Yang ゼロ点定理があり, 相転移点の近傍においてボルツマン因子の位相振動が生じやすいことが挙げられる. いずれにせよ, 符号問題の解決を必要とする理論は多く, 符号問題は現代の理論物理学における重要課題の1 つとなっている.
物理学は, 古典力学と微積分学, 一般相対性理論とリーマン幾何学, 量子力学と行列代数, 場の量子論とくりこみ, 素粒子論と群論など, 計算方法の開発と絡み合いながら発展してきた. 解析的アプローチでは困難な問題に対する数値的アプローチの必要性を考えれば, この流れに計算科学的テーマが入ってくるのは自然流れである. QCD という非摂動場の理論の登場は素粒子分野での計算科学の発展を促したし, 最近の例では数値相対論の予言が重力波の検出に役立ったことは記憶に新しい.
有限密度格子QCD の研究は, 2000 年頃までは少数の専門的なグループが行うテーマであったが, 近年, スーパーコンピュータの普及によって広がりを見せている. 80 年代から90 年代にかけて, reweighting 法やカノニカル法などの符号問題回避法が提案された. 2000 年代に入るとこれらの方法が複数のグループによって応用, あるいは拡張され, 2010年頃までにはQCD 相図の高温低密度領域の研究が進展した. 高密度領域のシミュレーションは非常に難しい課題と考えられていたが, 近年, 複素ランジュバン法やLefschetz thimble など複素作用でも利用可能なサンプリング法が考案され,これまで研究不可能であった領域の研究が始まっている.
本稿では, 有限密度格子QCD および符号問題研究が発展期に入りつつある現時点において, この分野におけるこれまでの取り組みと現状をまとめる. 符号問題を持つ理論を研究する際の難しい点は, 原理的に正しい方法であっても, 実際の数値解析結果が正しいとは限らない事, そしてその乖離を検知しづらい事にある. 本稿では様々な方法を紹介するがそのいずれにも落とし穴があり, 注意深く計算しないと落とし穴に落ち, 非物理的な結果を得ることになる.
これまでにどのような研究が行われ, それらはどこまで成功し, どのような困難があったのか, 符号問題研究で提案される方法は原理的には正しいものの, 実際には正しい答えを与えないことがあるがそれは何故かを説明し, 今後この分野の研究に着手する意欲的な研究者に過去の研究から得られる教訓を提供することが本稿の目標である.
コメント
PDF(序論) (2020年2月18日受理) の著者: 青木 慎也 (京都大学 基礎物理学研究所)、PDF(本論) の著者: 永田 桂太郎 (高知大学)
変更点
P.33・・・・文献[8]に出版社等の情報を追記
P.121・・・・式(4.65)の2行下に「(この引用で正しいか確認すること.)」というメモ書きが残っていたのを削除