よい研究?


2002年5月3日


研究者は基本的にみないい研究をしたいと思っている。 もちろん、しばらく論文が書けていない場合は焦って、意義など どうでもよくて、何でもいいから 速く仕上げて掲載決定に持ち込めるようなテーマを だれか教えてくれないかとまことに哀れな心境に なる場合もあるあるかもしれないが、 そのような心境に至った場合は、もう一度初心にもどって 自分は何のために研究者をめざしたのかを自問すべきである。 すると、通常はやはりいい研究、人からすばらしいと言われる 研究をしたいのだということを思い出すはずである。 さて、それではいい研究とはどういう研究であろうか? また、いい研究をする、あるいは、いい研究テーマを見つけるこつは 何かあるのであろうか? もしあるなら、そういうテーマの研究をして「どうだすごいだろう、 自分はこんなにみなさんとは違うのだよ。」と言いたい人もいるだろう。 このような問題を考えるとき、M. ウエーバーの「職業としての学問」 に書かれている内容は頭を冷やす上で有効であるように思う。 下記の引用は私が以前(1986年8月3日)、 「職業としての学問」(岩波文庫)から 日記に書き抜いたものである。

素人を専門家から区別するものは、ただ素人がこれと決まった作業方法を 欠き、したがって与えられた思いつきについてその効果を判定し、評価し、 かつこれを実現する能力をもたないということだけである。

学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、 自分はここに後のちまで残るような仕事を達成したという、(中略)、 深い喜びを感じることができる。

あまり類のない、第三者にはおよそ馬鹿げて見える三昧境、こうした情熱 --- これのない人は学問には向いていない。

情熱はいわゆる「霊感」を生み出す地盤であり、そして「霊感」は 学者にとって決定的なものである。

一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときに限って あらわれる。

作業と情熱とが --- そしてとくに両者が合体することによって --- 思いつきをさそいだすのである。

こうした「霊感」があたえられるかいなかは、いわば運しだいの事項であ る。

学問の領域で「個性」を持つのは、その個性ではなくて、その仕事に 仕えるひとのみである。

--- 自己を滅して専心すべき仕事を、逆に何か自分の名を売るための手段のように考え、 自分がどんな人間かを「体験」でしめしてやろうと思っているような人、 つまり、

どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、

どうだ俺の言ったようなことはまだ誰も言わないだろうとか、

そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では 間違いなく「個性」のある人ではない。

自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の 増大とともにその名を高める結果となるであろう。

いたずらに待ち焦がれているだけでは何事も成されない ---、 そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」 に --- 人間関係の上でも職業の上でも --- 従おう。

「以上」