広島大学理論物理学研究所の歴史
(「広島大学理論物理学研究所史」(平成2年3月31日発行)にもとづく)
(1)
前史 (広島文理科大学附属の時代 昭和19年(1944)- 24年(1949))a) 創設
理論物理学研究所設置の機縁となったのは、広島文理科大学における波動幾何学の研究である。したがって本研究所の歴史をのべるには、まず昭和9年(1934)にはじまる波動幾何学の研究にさかのぼらなければならない。この研究は文理大の理論物理学研究室の
三村剛昂および幾何学研究室の岩付寅之助 を中心とし、主として両研究室所属の10余名の研究者による共同研究として行われた。この理論は、物理学の基礎理論である量子力学と相対性理論を包括し、一つの統一的な原理にもとづく理論体系の建設を目ざしたものである。その内容は、物理現象は曲がった時空において生起し、その時空の一次化された計量と、物理系の状態を記述する波動関数を基本的な物理量と考えて、それらに対する方程式を作ったのである。第一論文が発表されてから、約10年間に出版された論文の数は60余編となり、内外に大きな反響をよびおこした。しかしその間、研究内容の増大し、また理科系学生の定員増にともない研究者の授業負担も多くなり、共同研究の推進に多大の不便が生じた。このようにして研究史設置の必要性が高まってきたので、多年にわたりこのような研究を目的とする研究所の設置を要望してきたのである。その結果として、昭和19年(1944) になってようやく研究所が設置されることになり、これに関する勅令が 8月23日に 公布されたのである。この研究所は広島文理大学に附属させられ、名称は「理論物理学研究所」で、「物理学の基礎理論に関する総合的研究」をつかさどることをその目的とするとされた。専任職員としては、教授 1、助教授 1、助手 3 がおかれ、広島文理大学の教授または助教授をもって所員とすることが決められていた。これがこの理論物理学研究所の発足である。
初代の所長としては 三村剛昂
が、専任所員として、細川藤右衛門および佐久間澄がそれぞれ発令され、また藤原力助手が事務担当として就任した。また兼任所員として、岩付寅之助、森永覚太郎、柴田隆史、竹野兵一郎 および上野義夫が相次いで任命された。庁舎としては、東千田町キャンパスのほぼ旧大学会館の位置に所在していた文理科大学教育博物館(木造2階建)の建物が遊休施設であったので、それが当てられた。
設立時の専任職員定員 教授1名、 助教授1名、 助手3名
初代所長 三村剛昂 教授
設立場所 広島文理科大学旧教育博物館
b)設立後の整備状況
昭和20年(1945)8月6日、広島に投下された原子爆弾により研究所関係の2教授(岩付寅之助、細川藤右衛門)は殉職、三村所長以下所員の大半も負傷し庁舎も崩壊した後、類焼により完全に灰塵に帰した。 やむなく尾道市外 向島にある広島文理科大学付属臨界実験所の一部を借り受け、仮庁舎とした.
昭和22年(1947)に、三村所長の出身地、竹原町(現竹原市)に研究所を誘致する話が持ち上がり、地元有志の熱心な努力により、現在地に面積400平米の木造平屋建新築庁舎と敷地約4000平米を竹原町より寄付を受けた.翌23年(1948)3月 新庁舎で開所式が行われた.
人事に関しては、竹野兵一郎が専任助教授となり、原田雅登、高久(旧姓熊川)浩俊,佐伯敬一の3人が助手として就任していたが、開所式の前後にそれぞる他大学に転出し、代わって、池田峰夫、木村利栄および宮地良彦の3名が前後して着任し、人員の整備も一応、終わった.
翌24年(1949)5月、学制改革により、新制広島大学が設立されると同時に、理論物理学研究所も文理科大学付属からはなれ、広島大学付属となった.
c)研究活動
原爆による所員の被災、文献の焼失等のため、十分な活動はできなかった.昭和23年(1948)末までに専任所員も新しい陣容となり研究活動復活の緒が開けた.
前史の幕引きに呼応するかのように、終戦前から続いていた文部省学術研究会議がこの年をもって閉じ、最後の研究集会が23年秋に理論物理学研究所で催された.この時代、宿泊施設は乏しく、地元のお世話で民家に分宿をお願いしての開催であったが多数の研究者が集まり盛会であった.
(2)
再建時代 (昭和24年(1949)− 昭和40年(1965)3月まで)a) 整備状況
昭和25年(1950)4月より、学内定員の振替によって教授1、講師1の増員が広島大学評議会で認められ、翌26年(1951)4月には助手1名の定員増が行われた.この結果、竹野兵一郎が教授、上野義夫が助教授、庄野直美が講師、中井浩が助手にそれぞれ就任した.事務系についても事務長が置かれ、職員も増員された.昭和28年(1963)には、庄野および中井が転出し、あらたに脇田仁、成相秀一が助手に就任した.昭和35年(1960)、助手2名を教授、助教授に振り替え、予算定員上で「重力・時間空間理論」「場の理論・時間空間構造」の2部門に編成された.
昭和36年(1961)、初代所長三村が定年退官し、宮地が転出したので、これまで学内定員の振替で2名増員となっていたポストは返却し、教官は予算定員数と同じ6名となった.昭和39年(1964)4月に池田が工学部に配置換えとなり、冨田憲二が助手に就任した.
人事の大きな変動に対応し、専門雑誌および単行本等の研究用文献が外国から輸入できるようになり、また貴重な外国雑誌のバックナンバーの譲渡を受けるなどして図書室も充実し、欠勤コンクリートの書庫も新設されて研究所としての体制も整えられるに至った.一方地元有志者から山林、宅地の寄付があり、公務員宿舎の4棟も新設された.
b)研究活動
理論物理学研究所の研究の主流は、重力や時間・空間の構造を解明する一般相対性理論に関係した課題であった.理論物理学研究所が竹原に移転した昭和23年(1948)前後は、素粒子の振る舞いを記述する場の理論にとって一大変革期であった.すなわち、朝永、Schwinger、Feynman の共変的量子電磁気学にもとづく繰り込み理論が実験(水素原子のエネルギー準位の微細構造)によって実証され、共変的場の量子論は世界的流行となり、中間子論等への応用、繰り込み理論の適用限界の問題等が論じられていた.
理論物理学研究所においても物理系出身の若い研究者によって、この新しい流れに沿って、いくつかの仕事がなされ、優れたものもあったが、理論物理学研究所のユニーク性を表すまでにはいたらなかった。
この時期、素粒子の本質にかかわる重要な実験事実として、新粒子の発見(1949)およびそれに続く共鳴状態の発見があった.また、弱い相互作用における素粒子のパリテイ非保存の提唱(1957)、その実験的検証(1957)も行われた.
多数の新粒子および共鳴状態を整理、分類する目的で、3個の基本粒子の複合体で粒子を表すという坂田模型(1956)が提唱されていた.この3個の基本粒子の間に3次元ユニタリ‐対称性を導入する定式化が理論物理学研究所の池田峰夫、小川修三(広大理学部)、大貫義郎(名大理学部)により、昭和35年(1960)を中心に完成された.これは、その後の素粒子論に対称性を導入する手法の先駆となったもので、素粒子物理学の歴史においても注目すべき仕事であった.
一般相対論関係の研究は外国においても、量子電磁気学のは華々しい発展に比べられるようなものはなかった。わずかに Einstein (1946) や Schroedinger (1948) の非対称計量重力場理論や Bergman等 (1949) の非線型場の正準形式理論の試みぐらいであった。一方国内でも大阪大学の内山龍雄を除いてほとんどめぼしい活動は見られなかった。この意味で、理論物理学研究所のこの方面での新しい研究陣はほぼ満足すべきものであった。
実際、上述の外国で試みられていた課題に関連した仕事も直ちにはじめられ、いくつかの論文もかかれた。この外、以前から続けられていた、球対称時空の分類、平面重力波等の数学的論文も多数発表された。一般相対論を宇宙論に取り入れ、膨張宇宙における諸問題、銀河形成、星の重力崩壊等の先駆的な業績が挙げられ、日本における相対論研究のセンターとしての役割を果たした。
(3)
発展時代前期 (昭和40年(1965)4月 − 56年(1981)3月)a)整備状況
昭和40年(1965) 4月、「時間空間理論部門」の増設が認められ、教授1名、助教授1名、助手2名が増員された。これに伴って従来の部門名は「重力理論部門」、「場の理論部門」と改称することになり、これら3部門の研究所となった。
昭和41年、脇田の転出もあり、この増設の機会に、田地隆夫、横山寛一、永井秀明、久保禮次郎、寺崎邦彦の5名が着任し、素粒子論関係の研究者の数も増すとともに、その顔ぶれも一新した。
部門増の結果、これまでの木造平屋建ての庁舎も狭く、また損傷もひどかったので、現在の述べ 1121平米 の鉄筋コンクリート3階建てが昭和42に年(1967)3月に完成した.
昭和48年(1973)4月、助手2名の振替で、教授1、助教授1の「宇宙論部門」が「重力理論部門」より独立して新設され、現在の4研究部門となった.同年4月、竹野の停年退官の後、富松彰が着任した.
b)研究活動
昭和40年(1965)前後は天体物理関係の歴史において最も重要な時期で重力理論や宇宙論に大きな影響を与える現象が相次いで発見された.すなわち、準星の発見、3K宇宙黒体放射の検出、中性子星を本体とするパルサー等である。これらの発見を機会に、一般相対論も物理学の表街道に踊り出た.素粒子や場の理論からの関心とも重なって、国際的には{一般相対論と重力}学会が昭和48年(1973)結成され、これと同時に国内でも研究班が組織され活動が開始された.このような状況は理論物理学研究所の果たさねばならぬ役割をいっそう重大なものにした.
これに答えて、相対論、重力関係は以前からの研究をさらに推し進め、業績をあげた.すなわち、公開微分を含む重力場による宇宙初期における特異点の除去、膨張宇宙における粒子生成、球対称・非一様物質分布の場合の重力不安定性の非線型発展、富松・佐藤解の物理的解釈、ポスト・ポスト Newton 近似での多体重力ポテンシャルの確立等があげられる.
一方、素粒子論では、坂田模型が修正され、基本構成粒子として3個の「クオーク」をとる考えが定着した.場の理論に関しては、1950年代終わりから60年代全般にわたって大きな発展はなく、逆にこれに対する不信感さえあった.これらを反映して、Regge ポール理論、S行列における靴ひも理論、流れ代数等次々に流行した.1960年代の終わりに場の理論に対する不信も徐々に取り除かれ、 t'Hoot の非可換ゲージ場のくりこみ可能性の証明(1971)により、Weinberg−Salam の理論も信用を得、実験的検証により、1970年中頃には確立したものになった.同じ時期、強い相互作用も SU(3)ゲージ理論(量子色力学)で記述できるようになり、Weinberg−Salam 理論と量子色力学を一つのゲージ理論で統一する大統一理論(GUT)が提唱され、ゲージ理論の時代になった.Veneziano 模型から弦理論へ、格子ゲージ理論(1974)と色々な試みが現れたり廃ったりと流行を繰り返した.
このような流行の中で理論物理学研究所でもハドロンの励起状態に対する3重3元模型等、実験に対する現象論的理論についていくつかの仕事がなされた.しかしその主流は、流行にとらわれず、理論の奥にある基本的な問題を追及することにおかれた.すなわち、有限自由度の可能性、「ゲージオン」の導入による一般共変ゲージでの電磁場等の量子化、軸性電流に対する重力量子異常項、高次元時空での反対称テンソル場の量子化等が行われた.
この時期から理論物理学研究所所属の大学院生も所員と共に対等に第一線で活躍するようになり論文も多数発表された.
(4)
発展時期後期(昭和56年(1981)4月 − 平成元年(1989)12月)a)整備状況
前期16年間における人事異動は竹野の停年により、富松が入って以外には研究者の顔ぶれに変化がなかった.これを反映して、一部ではあるが研究にも沈滞があるかのように感じられるようになった.研究の活性化を図るため、田地、上野の停年退職を機に外部から新しい血を流入することになり、昭和57年(1982)3月、佐々木隆が、翌58年(1983)4月、藤川和男が着任した.永井が昭和59年(1984)退職し、代わりに上原正三が入り、富松の転出で佐々木節が昭和61年(1986)3月に就任した.更に成相の停年退職により、昭和63年(1988)1月に細谷暁夫が着任した.この時期、所員の半数が入れ替わった訳で、研究陣容が一新され、活気に満ちたものとなった.
b)研究活動
前期終わり頃から進展した超対称理論、これに関連した超重力理論が世界的な流れとして暫く続いた.量子重力異常項の分析を経て、弦理論、超弦理論のブームの時代となった.一方重力、宇宙論でも素粒子論との境界がなくなり、Kaluza−Klein の多次元理論、インフレーション論、GUT と相転移、量子宇宙と多岐に亘り研究分野が拓けた.
これらの分野は理論物理学研究所の多数のものが関与していた部門であり、世界の流行の先端を切って多くの研究が発表された.また、多数が国際研究集会や国際会議に出席して講演や討論により貢献した.以下にその研究の一端のみ記しておく.
素粒子論に重点をおいた研究では、経路積分を用いた量子化法による異常項の分類と弦理論への応用、Veneziano 代数をリーマン面上に拡張した Krichever−Novikov 代数の性質の解明、ノン・ポリノミアルなラグラジアンの立場からの質量を持った非可換ゲージ群の構造の研究、共形場と可解模型との関係を古典・量子論の両面から解明し保存量を導出.超弦理論の場の理論としての定式化や2次元リーマン面の研究。現象論では、破れた対称性の研究とハドロン物理学におけるパズルの解明等である.
宇宙論・重力理論分野では、宇宙の虫食い穴解と宇宙項。位相幾何学的に非自明な空間での場の理論.重力不安定性の研究と物質の非一様運動の非線型過程の研究.重力の非摂動的量子効果の宇宙の時空構造、進化に対する影響の研究.捩率が存在する重力場の中での量子異常項等である.
理論物理学研究所の最後を飾る行事として平成元年(1989)12月14日から3日間、理論物理学研究所45周年シンポジウム「素粒子・重力・宇宙」が行われ約100名が集まり盛会であった.
以上、各時代の研究活動については、ほんの一端のみ触れただけであり、重要なものが多数洩れていると思われるが、それらは欧文原著論文を参照されたい.
(5)
京都大学基礎物理学研究所との合併についてa)戦後、
文部省は、はじめは3部門、後には5部門以下の研究所は大学付置の研究所として認めない方針をとってきた.このため、理論物理学研究所でも昭和26年度(1951)から5部門に拡張する概算要求を行うよう準備を進めていたが、昭和24年(1949)秋、京都大学の湯川秀樹教授がノーベル賞を受賞し状況は変わった.すなわち、理論物理学研究所を拡張するよりは、ノーベル賞受賞を記念して、京都大学に全国共同利用の研究所を設置した方が良いと言うことになり、昭和28年(1953)京都大学に基礎物理学研究所が創設された.理論物理学研究所と京都大学基礎物理学研究所との合併問題の萌芽は既にこの時に発生していたといえる.
最初に正式な話があったのは三村所長が昭和32年(1957)5月、研究所長会議で文部省学術課長と会った時である.理論物理学研究所を京都大学基礎物理学研究所に合併させることを条件に、広島大学に研究施設を作る概算要求が広島大学から提出されている旨、学術課長から伝えられた.理論物理学研究所側では初めて聞くことであり、このような要求が行われていたことに驚いた.理論物理学研究所所員会や広島大学評議会で種種議論があったが、大学の責任者が文部省と申し合わせを行っていた以上、京都大学との合併の話を進めざるを得ないという結論になった.同年10月29日の広島大学評議会においてこの点が承認された.これを受けて、同年11月15日の京都大学基礎物理学研究所研究部員会、運営委員会で三村所長から非公式でこの件について報告され、議論の後、素粒子論グループの意見を聞くことになった.翌33年(1958)1月の関西素粒子論のグループ懇談会では「合併は好ましくない」という結論が出た.このような国内の意見を参照し、同年5月上旬、三村所長は文部省学術課長および局長と会い、「性格の異なる両研究所の合併は理論物理学の進歩のためにならない.両研究所はこのまま存置して、共に発展させるべき」というのが素粒子論グループの意向であるから現状では合併は不可能であると伝えて了承を得た.この際、文部省側は「将来に亘って合併を断念したわけではない.」旨のことを三村所長に伝えた.このことについて三村所長は昭和33年(1958)7月8日の評議会で合併は不可能である旨の報告をした.これにより事実上今回の合併話は取りやめとなった.
b)研究所の形態としての最低部門である3部門が、昭和40(1965)に認められた後にも、文部省から合併について、当時の竹野署長に、間接的に働きがあった.
昭和57年(1982)4月、文部省審議官より、またその翌日には京都大学基礎物理学研究所長より、それぞれ理論物理学研究所長に電話があり、合併についての再考を促されたが、広島大学当局と話し合った結果、当時は広島大学が東広島へ向けて統合移転を実施をはじめたばかりであり、この話を学内に持ち出すのは好ましくないということになり、この度の話は見送ることになった.
これ以前にも昭和53年(1978)ころから、国政問題として行政改革が取り上げられてきた.この点とも関連して、昭和59年(1984)5月、翌60年5月、文部省で理論物理学研究所長と文部省関係者の間で広島大学存続案と京都大学基礎物理学研究所との合併案の2つ案の可能性について話し合った.
翌昭和61年(1986)3月末、文部省側は学術審議会の研究所評価に関する答申内容を示して、態度決定を迫った.
理論物理学研究所では直ちに広島大学核融合理論研究センターと合併して広島大学内で大きな研究所を作り存続する案について検討してみたが成功しなかった.その後、広島大学事務局長より理論物理学研究所長に京都大学基礎物理学研究所との合併問題を進めるよう示唆があった.
これをうけて、理論物理学研究所側では広島大学理学部及び京都大学基礎物理学研究所と合併について非公式折衝に入るかどうかについて話し合いを行った.
昭和63年(1988)1月、理論物理学研究所長は京都大学基礎物理学研究所長との非公式な合併交渉に入ることについて、広島大学理学部長、事務局長、学長の了解を得、京都大学基礎物理学研究所長にこのことを伝えた.
今回は昭和32年(1957)の時とは学問的背景が異なっていた.すなわち、理論物理学では4つの力の統一が叫ばれており、両研究所の研究対象も重複する部分が多くなった.また、理論物理学研究所の研究活動も活発であった.更に、統一理論の完成という共通目的のため、両研究所の欠落部門を補充し、理論物理学分野のより一層の進展をするための合併に関する調査・検討を前向きに進めることになった.このため両研究所長の諮問機関として、両研究所代表者で構成する合併問題連絡会議を昭和63年(1988)7月8日設置し、その後、たびたび議論が交わされた.
翌64年(1989)初め、京都大学宇治キャンパスにある工学部オートメーション研究施設の建物が空くという理由で、両研究所間の交渉が急速に進められた.
平成元年(1989)2月17日、合併問題連絡会議において、合併に関する基本的統一見解の合意に達した.この見解について理論物理学研究所では、同年2月22日、臨時所員会議を開催し、これを承認した.
同年4月28日、京都大学基礎物理学研究所より研究所合併に伴う新研究所設立計画に関する文書を受領、同日、この設立計画について臨時所員会議を開き、審議の上、これの受け入れを承認し、具体的な取り扱いについては事務当局に一任することにした.
同5月29日、文部省、両研究所長及び両大学事務局の打ち合わせ会で、両研究所の合併問題について事務的な合意を得た。
同じ平成岩塩(1989)6月27日、広島大学部局長連絡会議、評議会において理論物理学研究所の京都大学基礎物理学研究所への合併が承認され、平成2年度概算要求事項(追加)として取り扱うことが決定した.
以上が今回成立した合併問題の概略である.
(文責 木村利栄)
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