ブラックホール放射による電弱ドメイン壁とその応用:
宇宙のバリオン数 と ダークマター
概要
標準模型の真空中で小質量のブラックホールを考えると、 ホーキング放射によって周囲が加熱され、 球対称にブラックホールを取り囲む電弱ドメイン壁が出現する事を示す。 このドメイン壁は電弱相転位が2次転位であっても出現する。 また、CP対称性の破れを仮定するとその電弱ドメイン壁はバリオン数を生成し、 生成されるバリオン数の総量はブラックホール質量とCP対称性の破れの大きさに比例 する。 この現象の応用として、 質量数百キログラムの原始ブラックホールによって 宇宙のバリオン数の起源とダークマターを説明する モデルを提唱する。1 はじめに
ホーキングによって示された量子論的効果による ブラックホールからの粒子の放出現象、 いわゆるホーキング放射は ホーキング温度によって特徴づけられる 熱的なエネルギー分布を持ち、 エネルギー的に許されるありとあらゆる粒子をブラックホールから放射する現象 である。 このホーキング温度はブラックホールの質量に反比例し、 その単位時間当りのエネルギー総放射量はその質量の二乗に反比例する。 即ち、質量の小さい(半径の小さい)ブラックホールのホーキング放射 は微小な領域に高いエネルギーの粒子を大量に注ぎ込む事になる。 実際、質量数トンのブラックホールの半径は陽子半径の10-7倍に過ぎない が、そのホーキング温度は106GeVを超え、 単位時間当りのエネルギー総放射量は太陽のそれに匹敵する。 このため、 小質量ブラックホールの周囲は素粒子物理学の格好の実験場を我々に提供する。
2 電弱ドメイン壁の生成
では、標準模型の真空である電弱対称性の破れた相に小質量ブラックホール を置いた場合、如何なる現象が生じるであろうか? ブラックホールはその近傍をホーキング放射により局所的に加熱し、 その近傍の電弱対称性を回復させる事が容易に想像されるだろう。 即ち、電弱対称性の破れた相と対称な相を隔てる電弱ドメイン壁が、 ブラックホールを中心とする球面状に出現するであろう事が予測される。 我々は、この課題をブラックホールから放射された標準模型に含まれる全ての 粒子と相互作用に基づく「熱化」と「輸送」の問題ととらえ、解析した。 その結果、ブラックホール質量が 270キログラム〜230トン の範囲では 準安定で標準模型の相互作用により充分に熱化された 電弱ドメイン壁が形成される事を見い出した。 この上限質量以上では標準模型の相互作用ではドメイン壁が充分に熱化されず、 下限質量以下では安定なドメイン壁の形成前にブラックホールの蒸発が完了して しまう事が分かる。 我々の電弱ドメイン壁の特徴の一つは、 ブラックホールによる局所的な加熱により生じるため、 電弱相転位の相転位次数に関わりなく形成される事にある。 その電弱ドメイン壁の構造を(図1)に示す。 この図では、電弱相転位が2次転位であると仮定した。
3 ブラックホールによるバリオン数の電弱的な生成
コーエン・カプラン・ネルソンによって1次相転位による電弱ドメイン壁 を用いたバリオン数の生成機構(CKN機構)が提唱されているが、 我々の得た電弱ドメイン壁に関しても同様の機構を考える事が出来る。 (表1)にCKN機構と我々のバリオン数の生成機構の共通点/相違点を、 バリオン数生成のための条件であるサハロフの3条件としてまとめた。
サハロフの3条件 | CKN機構 | 我々の機構 |
---|---|---|
1) バリオン数の破れ | スファレロン過程 | |
2) CとCPの破れ | 標準模型のヒッグスセクタを拡張 | |
3) 平衡からのずれ | 1次相転位 | ホーキング放射 |
(表1) サハロフの3条件の比較
基本的な相違点は、如何にして平衡からのずれが生じるかにあり、 CKN機構の場合には宇宙の冷却過程において「静止しているプラズマ中を 1次相転位による電弱ドメイン壁が走り抜ける点」にあるが、 我々の機構の場合には 「静止している球面状の電弱ドメイン壁をホーキング放射によって生成したプラ ズマが内側から外側へと流れ出る点」にある。 我々のドメイン壁は熱化されている事から分かるように、 CKN機構でいうところの「厚い壁」に分類されるため、 ``Spontaneous Baryogenesis''機構の適用により バリオン数の生成量を計算できる。 その結果、 質量$m_\BH$のブラックホールが蒸発するまでに生成するバリオン数の総量は、 ドメイン壁の持つCP対称性の破れの位相を θCPとして、
と得られた。ここで、TW〜100GeVは電弱理論の相転位温度である。
4 宇宙論への応用
ここまでは、1個の小質量ブラックホールの引き起こす現象を論じたが、 これらの現象を宇宙論へと応用する事ができる。 我々は、以下の2つの条件 (i) 宇宙の年齢が$10^{-10}$秒以前の初期には、 質量が数百キログラムから1トン程度:
の原始ブラックホールが支配的であった事、 (ii) ブラックホール周囲の電弱ドメイン壁に オーダー1のCP対称性を破る位相がある事、 の仮定により、 観測や初期宇宙の原子核合成理論からの要求であるバリオン・エントロピー比 B/S 〜 10^-10 を説明可能なモデルを構成した。 このモデルでは、 インフレーション時にある波長に集中的に生じたゆらぎが後に 原始ブラックホールへと成長し、 宇宙の年齢が10-10秒頃に原始ブラックホールが蒸発し、 それに伴って宇宙にバリオン数が供給されると同時に 宇宙が再加熱される事を想定している(図2参照)。
5 ブラックホール レムナント としての ダークマター
ホーキング放射によるブラックホールの蒸発の完了後に、 何か残されるもの --- レムナント は存在するのか? という問いに対して、 不確定性原理、情報問題、重力の量子補正やBPS状態など様々な観点から 多くの研究者により議論がなされてきたが、 量子重力理論が完成されていない現時点では確定した理解は得られていない。 しかしながら、 多くの議論ではレムナントが存在するならばその質量はプランク質量程度 になるであろうと予測されている。 では、我々のモデルで原始ブラックホールがプランク質量程度の レムナントを残すとすると、 そのエネルギー密度は現在の宇宙でどの程度になるのだろうか。 その値を評価すると、 およそバリオン物質のエネルギー密度のおおよそ10倍程度を与える事が分かる。 典型的には、質量300キログラムのブラックホールは 約3マイクログラムのバリオン物質と 約20マイクログラムのレムナントを残し、 Ωレムナント〜0.3 を与える。 即ち、我々のモデルでのブラックホールのレムナントが 宇宙のダークマターの良い候補となり得るのである。
6 重力波背景輻射の予言
重力子(グラビトン)も他の粒子と同様にブラックホールからホーキング放射される。 このため、 我々のモデルは原始ブラックホールのホーキング放射により生成された重力子が 現在の宇宙に背景重力子となって存在している事を予言する事になる。 その背景重力子のエネルギー密度を求めると その値は光子の背景輻射(CMB)の約82分の1となり 標準宇宙モデルの予言と同じ値となる。 しかしながら、 我々のモデルでの背景重力子のエネルギースペクトルは 120 〜 280 eVにピークを持つ非プランク分布となり、 標準宇宙モデルの予言する 温度 0.91Kのプランク分布(79μeVにピーク) とは大きく異なった分布を予言する。
7 おわりに
我々のモデルは前述した条件(i)(ii)に加えて (iii)レムナント の3点を必要とする。 条件(i)はインフレーション理論への要求を与え、 条件(ii)はブラックホールの背景となる標準模型の拡張(2HSMやMSSM) への制限を与える。 B.J.Carr は初期宇宙における原始ブラックホールへの理論と観測による制限 を与えているが、 条件(i)は唯一の許されるブラックホール支配のパラメータ領域に含まれている。 レムナントの地上でのフラックスを求めると約1個/km2/年となる。 このレムナントの検出可能性はレムナントの電荷等の性質に大きく依存するが、 このレムナントの直接検出が我々の理論やモデルの検証手段となるものと思われる。
参考文献
[2] Y. Nagatani, ``Electroweak baryogenesis by black holes,'' Phys. Rev. D 59, 041301 (1999) [= hep-ph/9811485]. …標準模型を基礎として、 熱化や移送の問題としてブラックホールによる電弱ドメイン壁の出現を議論し、 バリオン数生成を議論した論文。
[3] Y. Nagatani, ``Electroweak Domain Wall by Hawking Radiation: Baryogenesis and Dark Matter from Several Hundred kg Black Holes'', [= hep-ph/0104160]. …この分野の総合報告的な論文。 まず、初めにこの論文を読まれる事を推奨する。 本稿は、この論文を下敷きとしている。
追記
永谷 幸則 @ 京都大学 基礎物理学研究所
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