一方で、非平衡統計物理はまだ枠組が完成されていない。平衡状態近傍の線形非平衡領域を除く非線形領域では一般的枠組そのものが存在しないのではないかという疑問すらある。実際に、非線形領域では境界の影響が強く、一般論が成り立たない可能性があるばかりか、例えば普遍的な流体方程式であるナビエ・ストークス(Navier-Stokes)方程式を含め多くの非平衡現象を扱う問題が線形非平衡の枠内で扱えるからである。
まず、簡単に平衡近傍の線形非平衡領域で成り立つ一般論を簡単に紹介しよう。古くはアインシュタインが議論したゆらぎと散逸の関係を結びつける揺動散逸定理と、久保亮五等により完成されたカレントの時間相関関数と輸送係数の関係を結ぶ線形応答理論が良く知られた強力な定理となっている。勿論、例えば線形応答理論によって熱伝導率、電気伝導率、粘性率等の輸送係数を計算する枠組を与えた事と具体的な輸送係数を計算することは別問題であり、その計算のためには複雑な多体問題を解かなければならない。一般にそういった多体問題は非線形問題であり、完全に解くことが出来ず、様々な近似を駆使する必要がある。例えばコロイド系の粘性率は溶媒のそれよりちょっと大きいことはアインシュタインによって密度の一次補正として計算された。しかしそれを高密度まで拡張するのは難しく、高密度になったときにどのように粘性率が発散するかについては殆ど何も分かっていないと言ってよい。ここでは、そこの詳細には立ち入らないことにしよう。 それとは別に揺動散逸定理や線形応答理論を超えて非平衡現象の一般論を構築しようという流れは近年になってようやく盛んになってきている。例えば1993年に、考えている位相空間での粒子軌道と時間反転した逆軌道の間の実現確率の比とエントロピー生成率を結びつけた「ゆらぎの定理」が提案され、1997年にはジャロチンスキー(Jarzynski)によって非平衡仕事と自由エネルギー差の間に成り立つ等式が発見された。このゆらぎの定理の線形極限では線形応答理論と輸送係数間の対称性を表すオンサーガー(Onsager)の相反定理を回復するものになっている。またジャロチンスキーの等式の線形極限は熱力学第二法則の一表現を回復している。一方で、ランジュバン方程式と呼ばれる揺動力に駆動されるモデルとは言え、応答関数と相関関数の間の揺動散逸定理の破れを一般的に表現した関係式も注目されている。これらの一般論が具体的な問題でどの程度有用なのかは未だ明らかでないが、非平衡相転移であるガラス転移等では従来の線形応答理論だけでは歯が立たないことだけは確かであり、一般論と具体的計算の共同歩調が強く求められている。また実験技術の進展に伴い従来の物性分野の現象だけではなく最近のハドロン・コライダーの実験に伴う急激な熱化や非平衡現象がホットな話題になっている原子核から、惑星形成や重力多体系の統計が問題になる宇宙物理、地震現象や火山現象、地形の数理といった複雑な多体系である地球科学、微小生物や生物機械の運動や熱効率、遺伝情報の発現の統計を扱う生物物理、化学、工学の諸分野から為替変動の予測等の経済学に及ぶ幅広い分野で非平衡統計力学の概念が使われ同時にその基礎分野の発展が強く求められるというフィードバックがかかっている。