坂田昌一について


  1. プロフィール
    1. 氏名

      坂田昌一、さかたしょういち、 SAKATA Shoichi

    2. 生没年

      1911-1970

    3. 顔写真

      省略

    4. 出身地

      東京都麹町区永田町1ー1、総理大臣官邸内の秘書官官舎で生まれる。

    5. 一言紹介

      素粒子理論の発展に大きな足跡を残すとともに独特の坂田哲学を用い、 科学論にも大きな影響を与えた。特に2中間子論やクォークの先駆けと なる素粒子の複合模型の研究で有名。


  2. 経歴と業績

    1933年(22歳)、京都帝国大学理学部物理学科卒業。理化学研研究生を経て 大阪帝国大学の副手、助手(共に1934年)、講師(1938年)を歴任する間、 湯川秀樹の中間子論の第2から第4論文の共著者として 中間子論の発展を助ける。京都帝国大学講師(1939年)を経て、 1942年から没年迄、名古屋(帝国)大学理学部教授。1942年6月に 二中間子論 を谷川安孝らと提唱、現代風に言えば AndersonとNeddermeyerが宇宙線中に発見した 中間子は湯川の予言した強い相互作用をする中間子(π粒子)とは異なり、 弱い相互作用をするμ粒子である可能性を示したことになる。 この業績で日本学士院恩賜賞を受賞(1950年)。

    戦後すぐに量子電磁気学の発散の問題に取り組み、 混合場の理論を提唱する。この研究が朝永振一郎・木庭二郎 らの繰り込み理論の完成に大きな役割を果たした。

    1955年に坂田模型 として知られる素粒子の複合模型を発表。 戦後続々と発見された素粒子を整理するために陽子、中性子とΛ粒子を 基本粒子として、その他の粒子はそれらの複合粒子であるとした。 この模型は一定の成功を収めたが、やがてクォークに基本粒子の立場を譲るように なっていた。1970年多発性骨髄腫で死去。


  3. 主要な業績の説明

    坂田の研究は素粒子論に限定されていたが、唯物史観に裏打ちされた 独特の哲学に基づいて研究を進めていたために、その影響は広く科学界を 越えたものがあった。実際、 彼の文章は高校の現代国語の教科書にも採用されていた。 またラッセル・アインシュタイン声明を受けて、原子力の平和利用の運動についても 指導的な役割を果たした。更に科学界の民主化運動を推進し、 教官の任期性や学生による教官の選定等ユニークな制度を名古屋大学理学部 物理教室に導入し、定着させた。中国との学術交流にも大きな業績を残し ている。

    1. 湯川との協力による中間子論の発展

      坂田は京大の物理3回生になった時に既に湯川の指導を受け、 卒論では当時の原子核理論の総合報告を行なっている。 卒業後、坂田は理研に滞在し、そこで 処女論文を仁科、朝永と共に電子・陽電子の 対生成を論じている。 その後、10本連続して湯川と共著論文を著すなど湯川の最良の協力者として 活躍した。中間子論を除いても、β崩壊に伴うK軌道電子捕獲 等の興味深い論文を著している。 湯川秀樹が中間子を導入し、核力を論じた記念碑的論文 に続いて、 湯川グループの第2から第4論文 までの共著者であり、中間子論の 発展に最も重要な貢献を果たした。なかでも中性中間子の導入とその崩壊 及び中間子の崩壊寿命による研究で坂田の果たした役割は大きい。

      中性中間子について簡単に触れよう。湯川が第1論文 で導入したのは 正または負に帯電したπ粒子であった。坂田は同種の核子間の力が異種の ものとほぼ等しいことを説明するために中性中間子の導入の必要性を示唆した。 しかし、坂田が後年語ったところによれば湯川はそれを第2論文に載せることを 拒否したとのことである。第4論文でようやくこのアイデアは陽の目を見たが、 既に海外でその種の研究が発表されており、遅れを取った。また 宇宙線や原子核構造の実験に対応して谷川との 中性中間子の崩壊の理論等を発表し、 湯川理論の内容を豊富にしていった。

    2. 2中間子論

      冒頭に述べた様に AndersonとNeddermeyer が宇宙線中に中間子を発見するに 及び、湯川の中間子論は俄然注目を浴びる様になってきた。ところが実験の 進展に伴い、発見された中間子の寿命が湯川粒子(π粒子)のそれより2桁も 長い事がわかるなどして湯川理論は大きな矛盾にさらされていた。 1942年の春に谷川の示唆を受け、井上健とともに新たな中間子を導入し、 実験との矛盾の解決を試みた。当初、この理論はパラメータを増やすのみ との批判が強かったが、戦後(1947年)、 Powell等による強い相互作用をする 湯川中間子(π粒子:ハドロンの一種)の発見で、 従来の宇宙線中間子が弱い相互作用をするレプトンに属するμ粒子であることが わかり、その業績は世界的に認知されるようになった。

      しかしながら二中間子論における谷川安孝の役割は忘れてはならない。坂田自身 「私と谷川君が二中間子論を提唱したのは1942年春のことであった。ちょうど理研の 講演会の前で、講演の種を捜すためにふたりで議論しているうち、二種の 湯川場同士の相互作用には非常に特異なもののあることに気付いた。そのとき、 谷川君はこのような相互作用でむすびつく二種の中間子を考えてみてはどうかと いわれた。」と語っている。谷川自身は湯川中間子と同様に整数スピンを持つBose 粒子を考えていたが、坂田は、半整数スピンを持つFermi粒子とした 方がいいと考えた。結局、Bose粒子の可能性は谷川と中村誠太郎が計算し、 坂田は井上健とともにFermi粒子であると仮定して、計算を実行した。結果としては 坂田の直観が正しく、坂田と井上 の連名で論文を投稿したこともあって谷川の 業績は忘れられていった。ちなみに井上夫人は坂田の妹である。

    3. 混合場の理論

      坂田の得意とするところは実験を見て実体論的なモデルを構成し、そのメカニズムを 明らかにすることにあった。しかしながら戦争の激化と共に実験データの入手が 困難になり、戦後すぐには、 よりアカデミミックな量子電磁気学(QED)の発散の 問題に立ち向かった。発散の困難とは電子が光子との電磁相互作用によって 無限大の質量(自己エネルギー) を持ってしまう事であり、 20世紀中期の理論物理の最も大きな問題となっていた。

      坂田は原治、梅沢博臣等と共に Born,Bopp等によって古典電磁気学の理論として提唱されていた 混合場の理論を QEDに適用を試みた。 混合場の理論とは発散の困難を、別の場の効果によって発散を相殺しようとする 理論であり、坂田とほぼ同時にPaisも同様の理論を展開している。 坂田はもう一つの場を仮想的なものとは考えず、実体論的な場として扱い C中間子の場と名付けていた。朝永グループは初め坂田らの計算に懐疑的であり、 Dancoff による計算にC中間子論を組合せて、散乱断面積の計算を行なった。 47年秋に木庭二郎は「C中間子論は失敗であった」と発表したが、 木庭はその後すぐ、Dancoffの計算に誤りを発見し、計算が有限におさまることを 示した。この際、木庭は丸坊主になって朝永に詫びたのは有名なエピソードである。 これを契機に朝永のくりこみ理論は完成に向かい、朝永の 1965年のノーベル賞に繋がった。

      その後、実体論的な 混合場の理論は高次の計算ではうまくいかない ことが明らかになって いっため、坂田の興味は混合場の理論の限界を示すことに移っていった。 そこで得られた坂田・梅沢・亀渕 による相互作用の分類とくりこみ可能性は現在も 有効であり、彼らの言う(くりこみ可能な) 第1種の相互作用のみが現在の物理学でも主要な役割を 果たしている。 また混合場を 実体論として扱わず形式的なカットオフのくりこみの処方として捉える見方は1949年に Pauli-Villarsの正則化法として定式化され、くりこみの一つの標準的手法として 現在も使われる。

    4. 坂田模型

      外遊などで充電した後、再び物理学の最前線で 活躍する様になったのは素粒子の複合模型に関する研究においてであった。 特に1955年に発表された坂田模型 は大きな影響力を持ち、やがて Gell-MannZewig によるクォーク理論へと繋がっていった。

      素粒子の複合模型の発展の背景には戦後の素粒子の相次ぐ発見がある。 数の増加につれ、素粒子が究極の物質である事の懐疑と坂田の無限階層性の 哲学、即ち、究極の物質はなくサブレベルの物質が必ず存在するとする、 とが合致して坂田は50年代半ばから晩年までを複合模型の研究 に捧げることになった。

      複合模型の先駆けをなすものとしてFermi-Yang (1949年)による研究がある。 彼らはπ粒子が陽子と中性子の複合粒子としも湯川理論の主要部を再現できることを 示した。彼らの理論の限界は、その後の実験でストレンジネスという新しい 量子数を持つ一群の粒子の発見で明らかになった。坂田はこうした実験の 進展や中野・西島・Gell-Mann(NNG)の選択則 を考慮して陽子、中性子の他にΛ粒子を基本粒子として、強い相互作用を するハドロン粒子を構成していこうとした。 こうしたアイデアはGell-Mannが独立に到達していたようである (未発表). このアイデアを坂田は田中正 との議論を通して思いつき、55年秋の物理学会で 飛び入りで発表している。 当初、NNGの言い替えに過ぎないという批判などから坂田自身の論文の刊行も 遅れたが、59年に至ってU(3)対称性を導入した 小川修三、大貫義郎、池田峰夫(IOO)及び 山口嘉夫による 数学的に整備された論文の出版があり、 また、新しく発見された中間子の質量がほぼ 理論通りであったことから急速に注目を集める様になった(1961)。

      しかしながら坂田模型は 核子(バリオン)の質量の説明はうまくいかなかった。それを受けて 1961年にNe'emanとGell-Mannが特殊3次元ユニタリー群(SU(3))に 基づく八道説を提唱した。その後、坂田グループとの論争を経て、 Ω中間子の発見(1964)によって八道説の優位は動かし難い ものになっていった。更にGell-MannとZewig(1964)によるクォーク模型の発表と 八道説の基礎づけに至って 坂田の業績は埋もれていくことなった。しかし坂田が3つの基本要素を導入した 先見性は評価できる。尚、坂田学派はクォークの導入後も、暫くは 陽子、中性子、Λ粒子を 別種の基本粒子(ウル・バリオン) として置き換える事が可能であり、クォークもその一種であるとして 主張していた。

    5. 名古屋模型

      坂田模型の進展の最中である1959年に坂田は中川昌美、牧二郎、大貫義郎と共に 或る意味で弱い相互作用と強い相互作用を統一する名古屋模型を提唱した。 ここで坂田はGammba等の示した レプトンのニュートリノ、電子、μ粒子と坂田模型の中核をなす 陽子、中性子、Λ粒子の3つのハドロンとの間の対称性に 着目し、レプトンの3つの組に B粒子なる未知の物質が結合することでハドロンが生じる 、とした。この模型はその後の別種のニュートリノの 発見で修正を余儀なくされた。しかし問題はB粒子を超量子論的存在としたために いかようにも解釈でき、科学的議論が著しく困難になった点であろう。 しかしながら牧等の論文(1962)ではニュートリノの質量を論じており、その先見性には いつもながら驚かされる。


  4. エピソード

    坂田の父は愛媛、香川の両県知事及び高松市長を勤めた政治家であり、 両祖父も衆議院議員と茨城県知事を勤めた政治家の家系に生まれた。 出生当時、父の幹太が首相秘書官をしていたこともあって名付け親が桂太郎であった。 このような家に生まれたにも拘らず、否、それゆえに彼は唯物史観に強く染まった。 彼は高校時代に加藤正の手ほどきを受けて学んだ 弁証法的手法を物理学にも持ち込んだ。特に理研時代からの友人、 武谷の影響は大きく、 坂田は 三段階論法等の弁証法的手法 に基づけば誰でも物理理論を発展させることができると公言していた。 その点では、 湯川の「天才によって科学は進歩する」という考えとは相容れなかった。 (因みに坂田の追悼記事を哲学者の久野収が書いている)。

    坂田はその哲学的手法に関連して反西欧的であり、ソ連、中国に関心を 持ち続けた。例えば、1953年に京都で開かれた理論物理国際会議では (英語で喋ることが可能であるにもかかわらず)日本語で発表したり、 ある年の名古屋大学物理教室における教室講演会後のパーティーで 「スターリンのために乾杯」と音頭を取った逸話が残っている。 晩年に中国で起こった文化大革命に対する関心の寄せ方も子供の 様に無邪気なものであったと伝え聞く。

    坂田のように科学の場に独然的な哲学的手法を持ち込むのは普通ではないので、 一部で信奉者を生む一方で、反対の立場を取る人も多かった。 例えば、1969年にGell-Mannがノーベル賞を受けた事に対して ノーベル賞選考委員会に「坂田こそノーベル賞にふさわしい」という手紙 が送られた事もあった。また1961年に坂田模型を支持する中間子の発表があった 際にも「坂田モデル実証」という大きな新聞報道に対して福田信之氏が 1週間後の新聞で2回に渡って、反論記事を書いている。 Ne'emanの書いた「自然」の記事や、「セカンドクリエイション」での 坂田に対する記述は辛辣な批判を含んでいる。 日本国内の素粒子理論のコミュニティーに対しても好影響ばかりを残したとは 言えないであろう。

    一方で坂田自身の生き方は自己の哲学にそれほど縛られていたとも 思えない。研究上でも、独特の嗅覚を持って発展の方向を 見定めていたように感じる。彼自身は計算が得意ではないので 逆に優秀な協力者を必要とした。そのためか坂田門下からは 反坂田に転じた人も含めて、様々な分野で重要な貢献をした人を輩出した。 特にクォークには3世代以上あるという(平たく言ってbottom,top のクォークを 予言した)理論を提出した小林・益川は坂田学派のなし得たことの集大成とも言える。


  5. 交友、師弟
  6. 著作、資料
  7. 註釈
    1. H. Yukawa and S.Sakata, Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 19 (1937) 1084-1093: H.Yukawa, S.Sakata and M. Taketani, ibid 20 (1938) 319-340: H.Yukawa, S. Sakata, M. Kobayashi, and M. Taketani, ibid 20 (1938) 720-745.
    2. S.H.Neddermeyer and C.D.Anderson, Phys. Rev. 54 (1938) 88. C.D. Anderson (1905-1991)は陽電子の発見で1936年にノーベル物理学賞を受賞。 宇宙線中間子(μ粒子)の発見の他に1949年にμ粒子が自然崩壊によって電子と 2個のニュートリノになることを明らかにした。
    3. S. Sakata and M. Inoue, Prog. Theor. Phys. 1 (1946) 143-150. 第1ページの脚注としてこの論文は1943年9月の中間子論のシンポジウム 前に発表されたが、戦争下で出版が遅れた旨が書いてある。また彼らの 推定した寿命10^{-21}秒は実際より13桁も短い。
    4. S. Sakata, Prog. Theor. Phys. 16 (1956) 686-688. 飛び入りでの学会の発表から1年を要して投稿(9月3日)したのがこの短い 論文である。その間に坂田模型に基づき各粒子の質量を推定する質量公式を論じた K. Matsumoto, Prog. Theor. Phys. 16 (1956) 583が先に 印刷されている。この論文はIOO同様に坂田模型の正否を論じる際に重要な 役割を果たした。また早川幸男も坂田模型の発表を受けて、 素粒子論研究に「遠隔作用に基づく素粒子論」という論文を書いている。 素粒子論研究11 (1956) pp.113-120.
    5. 三省堂の教科書。多分、私は1978に坂田の文章を授業で読んでいる。 文章も定かではない。誰か情報を下さい。
    6. Y. Nishina, S. Tomonaga and S. Sakata, Suppl. Sci. Pap. of I.P.C.R. 17 (1934) 1-5.
    7. H. Yukawa and S. Sakata, Proc. Phys.-Math. Soc. Japan, 17 (1935) 467-479: ibid 18 (1936) 128-130.
    8. H. Yukawa, Proc.Phys.-Math. Soc. Japan, 17 (1935) 48-57.
    9. S. Sakata and Y.Tanikawa, Phys. Rev. 57 (1940) 548.
    10. C.M.G. Lattes, H.Murihead, G.P.S. Occhialini and C.F. Powell, Nature 160 (1947) 694-7: C.M.G. Lattes, G.P.S. Occhialini and C.F. Powell, Nature 159 (1947) 453-6, 486-92. C. F. Powell (1903-1969)はBristol大学のグループを率いて、 πとμの同定など各種の 新粒子(中間子)の発見で1950年に ノーベル物理学賞を受賞。
    11. 実は受容過程はそれほど単純ではない。戦後の混乱もあって 坂田・井上の論文が知られる前に"On the Two-Meson Hypothesis" R.E. Marshak and H.A. Bethe, Phys. Rev. 72 (1947) 506-9が出版され欧米ではそちらがまず知られる様になった。彼らはイタリア グループの実験をの宇宙線の崩壊から10^{-8}秒という寿命を推定し、これはほぼ 実験値と一致している。一方で彼らは谷川と同様にスピン1/2のFermionと仮定しており それは間違っている。Marshakは坂田学派の先取権における強い主張 とドグマ的主張にへき易と していたが、1968年に坂田と会って、その素晴らしい人間性と柔軟な物理に対する 態度に強い印象を受けたとの報がある。(S. Hayakawa, Prog. Theor. Phys. Suppl. 105 (1991)120-2のp.122の脚注).
    12. 坂田昌一、中間子研究の回顧、論集1 特に p.147-148の記述。初出は湯川・武谷との共著の「真理の場に立ちて」(毎日新聞社 1951)。また谷川が激怒して中村との計算を破り捨てた様は中村誠太郎 「湯川秀樹と朝永振一郎」に書かれている。戦後、湯川らの助言で谷川は Bosonの場合の 論文を単名で出版している。
    13. M. Born and L. Infeld, Proc. Roy. Soc. Lond (A) 144 (1934) pp. 425-451: F. Bopp, Ann. der Phys. 38 (1940) 345-384. ここでも悲劇の 人-湯川と独立に核力に中間子を持ち込もうとしてPauliに批判を受けて投稿できず、 またくりこみ群を C. G. Stuckelberg and A. Petermann, Helv. Phys. Acta, 26 (1953) 499でいち早く導入しながらGell-Mann and Low, Phys. Rev. 95 (1954) 1300が有名になってしまったーが先駆的な論文を残している様だが、 余りその影響は語られていない。 E. C. G. Stuckelberg, Comptes Redus 207 (1938) 387-390.
    14. S. Sakata and O. Hara, Prog. Theor. Phys. 2 (1947) 30-31: S.Sakata, Prog. Theor. Phys. 2 (1947) 145-150 : S. Sakata and H. Umezawa, Prog. Theor. Phys. 5 (1950) 682-691. 梅沢は坂田との共同研究の 仕事を朝永セミナーで話したと記憶するが定かではない。いずれにしても梅沢らは 光と荷電粒子の適当な組合せと質量の関係を与えると自己エネルギーは消去 できることを示した(H. Umezawa, J. Yukawa and E. Yamada, Prog. Theor. Phys. 4 (1949) 25-33, ibid 113-120。
    15. S.M. Dancoff, Phys. Rev. 55 (1939) 959-963. 海外でDancoffの計算の誤りを 指摘したのは H.W. Lewis, Phys. Rev. 73 (1948) 173-176が最初らしい。
    16. A. Pais, Veh.Kon.Ned. Akad. Nat. 19 (1946) 1-91.
    17. 木庭二郎(1915-1973)は東大を1945年に卒業、阪大助教授(1949) 等を経て京大基研の初代教授(1953)。1959年からポーランド科学アカデミー客員を 経て、1966年にNiels Bohr研究所所員になる。1973年にコレラで死去。くりこみ 理論への寄与の他、ハドロンのn体散乱振幅の双対性を示した木庭ーNielsenの公式 などで知られる。問題のくりこみの論文はまず坂田らの主張するC-mesonのカップリング fと電気素量eの間にf~2= 2e^2では散乱断面積が有限にならずf=(7/9) 2e^2が 必要であるとした論文が出版され(D.Ito, Z.Koba and S. Tomonaga, Prog. Theor. Phys. 2 (1947) 216), 訂正の論文をProgressに送っている。Z. Koba and T. Tomonaga, Prog. Theor. Phys. 2 (1947) 218: ibid 3 (1948) 290-303.
    18. T. Kinoshita, Prog. Theor. Phys. 5 (1950) 335-336.
    19. S. Sakata, H. Umezawa, and S. Kamefuchi, Phys. Rev. 84 (1951) 154: Prog. Theor. Phys. 7 (1952) 377-390.
    20. W. Pauli and F. Villars, Rev. Mod. Phys. 21 (1949) 434-444. 最近の教科書は大抵dimensional regularization を用いて解説しているが、C. Itzykson and J-B. Zuber, Quantum Field Theory, (McGraw-Hill, 1980)のChapter 7,8にこの方法に基づく詳しいくりこみの手法が 解説してある。尚、このregulator型のくりこみがうまくいって、実体論としての 混合場の理論がうまくいかないのには次の様な原因が考えられる。この方法を 一般化すると光の場と同種の場を考えるべきであるが、通常の手続きに基づくと 光と異符合になる。それを除くには疑似Hilbert空間に不定計量を持つ場にしないと いけない。等、複雑な機構を必要とする。電荷の発散を取り除くために Guptaはスピン1/2を持つがBose統計に従う(何のこっちゃ)という異常な場を 考えることで荷電の補正を有限に抑えた。しかしS行列のユニタリー性を 破るなど、無理があるので現在ではほぼ顧みられない。
    21. M. Gell-Mann, Phys. Lett. 8 (1964) 214.
    22. G. Zeweig, CERN preprint (1964).
    23. E. Fermi and C. N. Yang, Phys. Rev. 76 (1949) 1739-1743.
    24. T. Nakano and K. Nishijima, Prog. Thoer. Phys. 10 (1953) 581: M. Gell-Mann, Phys. Rev. 92 (1953) 833.
    25. Gell-Mannはセカンドクリエイションの中でもそう 語っているが、S. Hayakawa, Prog. Theor. Phys. Suppl. 105 (1991) 214-5にも そういう記述が見られる。またその論文では 当時、DullaparteがPisaの学会(1955)で同様のモデルに 基づき講演したとも書いてある。また S. Hayakawa, Prog. Theor.Phys. Suppl. 105 (1991) 120-122の講演後の質疑応答で S.Oneda(大根田定雄)が「同様のことを私も考えていたので、1955年の9月に 坂田と会って、その話を聞いたときに驚かなかった。」と語っている。おそらく NNGの言い替えに過ぎないとは誰もが感じていたのであろう。坂田模型は松本の 質量公式を伴って初めて予言能力を持った。
    26. S. Ogawa, Prog. Theor. Phys. Suppl. 105 (1991) 181-192 ではS.Tanakaの次の様な回想を載せている。It was planned to have a large scale study meeting running from November to December 1955 at Research Institute for Fundamental Physics.(一文略)Tanaka reported on his attempts, especially, the difficulty of the understanding the strange particle as an excited state within the framework of F-Y's model. The heated discussions upon Tanaka7s report lasted until late at night and concluded that a certain element carrying strangeness must be introduced to maintain the Nakano-Nishijima-Gell-Mann rule. The next morning Sakata brought up his idea of the composite model taking Λ as a consituent as well as the proton and the neutron, and wrote down the compositions of a new particles on the black-board.
    27. S. Ogawa, Prog. Theor. Phys. 21 (1959) 209. M. Ikeda, S. Ogawa, and Y. Ohnuki, Prog. Theor. Phys. 22 (1959) 715. IOO対称性についての裏話(科学史的記述)については 大貫義郎、「対称性事始」 素粒子論研究 82 (1991) 503-547 が詳しい。
    28. Y. Yamaguchi, Prog. Theor. Phys. Suppl. 11 (1959) 1, 37.
    29. \eta 中間子の発見はA. Pevsner et al. Phys. Rev. Lett. 7 (1961) 421. この中間子の質量は約549MeVであり、松本の質量公式からは 約600 MeV, また8重項の中間子間の質量の関係式 (S. Okubo, Prog. Theor. Phys. 27, 949 (1962))を用いると566 MeVになり、 理論の正当性を主張するのに充分な発見であった。

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