ハドロン多体系の物理学


国広 悌二

2001年7月18日, 2002年7月13日追加
2002年9月21日改訂(未完成);
2002年学会でのシンポジュウム「高密度QCDの総合的理解にむけて」での 「まとめと展望」に基づく
2003年11月4日追加

  1. はじめに

    原子核は核子が「強い相互作用」の一形態である核力により結合してできている フェルミオンの多体系である。 核子はデルタ粒子など他の重粒子や中間子などと同様「強い相互作用」をする粒子、 ハドロンである。ハドロンのダイナミックス、すなわち、強い相互作用の基礎理論が 量子色力学(QCD)であることが確定した現在、 原子核物理学の自然な発展方向としてハドロン多体系としての 物理学、ひいては、広くQCDに基づくハドロン多体系の物理学が あらたに生まれつつある。 自然の一つの階層であるハドロン多体系あるいはクォーク-グル オン多体系という 新たな物質の存在形態についての基礎的研究のみならず、 その、初期宇宙における役割や中性子星内部など極限状況下での ハドロン物質の存在形態およびその運動法則の探求がこの分野の 目的である。

    そこでの主な課題は、核子-核子間だけではなくハイペロン-核子、 ハイペロン-ハイペロン間の相互作用を含む重粒子間相互作用をQCDの ダイナミックスから理解すること、 ハイペロンを含む重粒子多体系あるいは、凝縮した中間子あるいは熱的に 励起された中間子を含むハドロン物質の特性(ハドロン物質の物性)を 高密度、高温、あるいは外場により特徴づけされる様々の環境で QCDに基づいて明らかにすること、 さらに極限状態としてQCD真空の相転移(閉じ込め-非閉じ込め相転移および カイラル対称性の回復)を実現し、その検証方法を探求すること 等、多岐にわたる。これは、理論的には多体系のダイナミックス、 特に、QCDの非摂動的な効果が本質的な役割を果たす問題群であるので 理論物理学として大きなチャレンジである。 その点、この分野の必須の手段として低エネルギーの有効作用による 解析的な方法とともに格子QCDによる シミュレーションが大きい関心を持たれている。


  2. 格子QCD

    有限温度での格子QCDの計算によると、フレーバーの数を2とした場合、 カイラル極限では臨界温度がTc~175 MeV の1次相転移になる。フレーバーの数が3の場合はTc~ 155 MeVである。現実の実際のクォークのカレントクォーク質量を使った場合は 1次かもしれないし、2次あるいはクロスオーバーかも知れない。

    有限のケミカルポテンシャルの場合、カラーの数が3の場合はクォークの 伝播関数の行列式 det D が複素数になるために、通常のモンテカルロ法を 用いたシミュレーションを行うことができない。アルゴリズムの 何らかの突破口が必要である。 これまでの近似的な試みとしては以下のものがある。

    一方、Nc=2の場合は、SU(2)の擬実性のために、det D が実になり通常 のモンテカルロシミュレーションを行うことができる。このことについては、 中村 純氏(A. Nakamura, '84)の先駆的な仕事がある。最近の成果としては;

    このような、示唆に富む結果が得られているが、これらが現実の世界 (Nc=3)において持つ意味は何なのかは、今のところ不明と言わざるをえない。


  3. 高密度核物質(比較的低温度での)

    安定な原子核は、比較的小さなものを除き、その中心付近の密度はほとんど原子核に よらず同じで、\rho0= .17 fm-3である。 この密度を標準核密度という。

    1. 液-気相転移(Liquid-Gas transition)
      rho0より低い密度では、 臨界温度を約10 MeV程度とする液-気相転移が起こると 考えらている。

    2. 超流動
      また、同じ低密度領域では 臨界温度が1MeV程度の1S0の超流体になる。 ここで、sLJは対場が全スピンs、軌道角運動量L、そして 全角運動量 Jを持つことを意味する。 もう少し密度を上げると、核物質は3P2超流動になる。 ただし、この部分波の核力のエネルギー依存性および核子の有効質量の減少の ために、 3\rho0あたりでこの超流体は消えると考えられている。 臨界温度は 1 MeV程度かそれよりも小さい。 例えば、中性子星の内部では中性子が集団での超流体になっていると理論的 に予想されている。

    3. 中間子凝縮
      また、素粒子の中間子が核子と協力して 密度が層状に変化している状態(中性パイ中間子凝縮状態)が 2\rho0あたりから起こりだすと考えられている。 もちろん、荷電パイ中間子凝縮の可能性も予想されている。 さらに最近では、K中間子凝縮の可能性 も指摘されている。その実現可能性はQCDのカイラル対称性の破れおよび ストレンジネスを持った粒子(中間子、ハイペロン)と核子との ダイナミックスにより決定される。

      中性子星とは、半径が10km程度でありながら、太陽の1.4倍ほどの質量を持つ大変 コンパクトで且つ高密度の星である。その内部には標準核密度($\rho_0$) の数桁低い 密度から10\rho0程度までの密度を含む広範囲の核物質(ハドロン物質) が存在している。 現在では数多くの中性子星が同定され、その半径、質量、表面温度、その冷却の仕 方、自転速度の変化の仕方等、多くの観測データが蓄積されている。 これらのデータから、超高密度の中性子星の内部の様子についてある程度予測するこ とができるようになってきた。

    4. ハイペロン物質
      高密度では(超流動性をもちうる) ハイペロン物質になりる可能性もある。興味深いのは、これらが中性子星内部の 物質の物性をドラスッティックに変え、 たとえば、熱や角運動量輸送に影響し、それらが グリッチや冷却速度など中性子星の観測量に反映するということである。

      ハイペロン物質の物性を調べるにはハイペロン-核子(Y-N)、 ハイペロン-ハイペロン(Y-Y)相互作用の情報が不可欠である。この点、最近の 京都-岐阜グループによるNAGARA eventと呼ばれる2重ハイパー核の発見は、 ラムダ-ラムダ間相互作用がこれまで考えられていたよりもかなり弱い引力 であることを明らかにした点で衝撃的なことであった。

    5. 状態方程式の軟化は何を意味するか?
      これらの、あらたな核(ハドロン)物質の物性はそれ自体興味深く、 今後の研究が期待されるが、その前に解明すべき、共通して提起される 基本的な問題があることを指摘したい。 すなわち、どの新しい相になっても状態方程式はかならず柔かく(soft)なり、 観測から要請される中性子星の質量1.4Moを支えられなくなる ということである。これは、何を意味するのか? もちろん、これを避けるために現象論的に斥力を導入する試みもあるが、あくまで、現象論である。 このソフト化は、ハドロン物質からより下の階層の物質への相転移が必然であること を示唆しているのかも知れない。有限温度での、ハドロンガスでの 神秘的であったHagedornの臨界温度が実はQGPへの相転移を示唆するもので あったように。
    6. クォーク物質;カラー超伝導
      極最近では、より高密度でのカイラル対称性の回復、 クォーク物質への相転移、クォーク物質でのクォーク対の対相関、いわゆる カラー超伝導の可能性も理論的に指摘されホットな話題と なっている。

    日本のJ-PARC(旧名;JHF)およびドイツのGSIでの将来計画として、 阻止能の最も大きいエネルギー(核子あたり 20-30GeV)での重イオン衝突マシーンが検討されている。これが 実現されれば、高密度核物質(ハドロン物質、クォーク物質)の理解が 大いに進むと予想される。それはまた、新たな天体核物理学の 発展をももたらすであろう。JHFでは、大強度のKonビームが作られる。 これにより、まず、strangenessを含むハドロンと核物質の相互作用、 核物質のstrangenessに体する応答が解明されていくことは、将来の 高密度でのQCD物質の物理を進めていくための重要な基礎を与えるであろう。 この計画が重イオン衝突実験の前に実行されることはむしろ 望ましいことである。
    次の文章も参照: 「J-PARCにおけるストレンジネス核物理の展望」2003年7月29日(火)ー31日(木) 報告(ps-file)(dvi-file)

  4. 環境の変化に伴うQCD真空の相転移

    後に議論する 原子核を舞台にした現象にクォークの自由度の直接的な証拠を見出すこと とは相対的に独立な問題として、 QCDの反映を原子核現象に見る問題がある。 このとき、QCDを基礎理論とする ハドロンの世界における原子核という物質の存在形態の ユニークさを確認しておくことは有意義である。 パイ中間子の質量が他のハドロンに比較して 格段に小さいことを反映して原子核物質が飽和する密度は$\rho_0$と 低くなる。パイ中間子が軽い擬スカラー粒子であるのは QCDの持つカイラル対称性の 自発的破れに伴う南部-ゴールドストーンボソンだからである。

    このことは原子核の 存在(すなわち、われわれの存在)およびその性質が QCDの基本的性質の一つであるカイラル対称性の反映であることを示唆 している。カイラル対称性の反映している他の核現象はないか? その他のQCDの基本的性質はどのように原子核レベルの物質の階層の 性質や現象に結びついているだろうか? 自由空間で検証されるハドロンの特性は原子核のようなハドロン多体系の 中でいくらかは変更されないであろうか? さらに敷衍して、密度(バリオン密度、ストレンジネス密度)、温度そして 磁場のような外場等で特徴づけられる様々な環境下で、ハドロンの性質は 変化しないであろうか? 現代の場の理論によれば、粒子描像は真空と相互規定的に定まり、 環境の変化により真空の性質が変化し得る。 そのことはQCDも例外ではない。 環境の変化に伴うQCD真空の変化およびそれに伴うその変更された真空上での 素励起としてのハドロンの性質の変化を探る問題は現在多くの研究者の 興味の的になっている。

    高温、高密度で、カイラル対称性 の部分的回復が起こると予想されるが、 その効果が核媒質中の 素励起としての中間子の性質の変化に現れうる。 具体的には、ベクター中間子やシグマ中間子のチャンネルでのスペクトル関数の 軟化(ソフト化)や、核子のカイラルパートナー(負のパリティの核子) の核媒質中での性質の変化等が盛んに議論されている。 ベクター中間子についてはCERNのSPSの実験で重イオン衝突により生成された 軽粒子対にそのソフト化が見られその解釈がホットな話題となっている。 また、極最近のKEKのロー中間子を原子核中に作る実験で同様なスペクトル関 数の軟化が見られ大いに注目をされている。 また、シグマチャンネルについてもTRIUMFの実験でやはり核中でのスペクトル 関数の特異な軟化が観測され核媒質中でのカイラル対称性の部分的回復と 関連され議論されている。
    次の文章も参照: 「J-PARCにおけるストレンジネス核物理の展望」2003年7月29日(火)ー31日(木) 報告(ps-file)(dvi-file)


  5. フレイバーの自由度

    原子核を結合させている核力の起源を解明する問題は、 湯川の中間子理論以来の長い歴史を持ち、 原子核物理学と素粒子物理学の結節点となってきた。 この分野では戦後わが国の「核力グループ」 が湯川の中間子理論に基づき、また、 武谷の「三段階論」を指導原理として 世界をリードする研究を行ったことはよく知られている。 1970年代に量子色力学(QCD)が「強い相互作用」の基本理論として 確立して以来、核子を含むハドロンの下部構造であるクォークとグルーオンの レベルの力学の反映として核力を理解し構成する問題は 原子核理論の基本的課題の一つとなっている。 このような観点に基づく核力の理論は自ずと核子間だけではなく、 ストレンジネスを含む重粒子、ハイペロン間(YY)あるいは核子(N)-ハイペロン(Y) 間の相互作用をも統一的に記述するはずのもである。 80年代以降、わが国の高エネルギー研究所等で行われて来たハイパー核 の実験に支えられて、ハイパー核物理学は新しい展開を見た。 それにより、ハイパー核物理学の 基本となるY-N相互作用の情報が蓄積されるにつれ、 核力と整合的なY-N、あるいは、Y-Y相互作用の構成は現実的課題となると ともに、ハイパー核物理学は構成された重粒子間相互作用の試金石となって いる。

    QCDに基づく核力、あるいは、バリオン間相互作用の理論は近年、カイラル 対称性の自発的破れを考慮にいれた、いわゆる カイラル勘定則にもとづく系統的な展開方法がワインバーグによって創始され、 大いに発展させられつつある。これは、パイ中間子交換力のレインジを最大スケール とし、それ以下のレインジの力を短距離としデルタ関数で近似する方法である。 「二段階論」である。ただし、デルタ関数の導入は近似であり、得られる核力 が、必然的に導入されるカットオフに依存しないという要請を課すことにより、 短距離力の総和(resummation)を行うことが重要である。この総和法はくりこみ群 方程式による総和法である。 この理論に基づくバリオン間相互作用の理論は近年爆発的に発展しつつあり、 ごく最近では、その核物質への応用も試みられ、核物質エネルギーと密度の飽和性 を導出することに成功したと主張する仕事も生まれている。 (この項、2002年7月13日追加。)

    現在、理論的にはこれを量子色力学に基づき理論的に導く 研究が盛んに行われ、核子ー核子相互作用とハイペロンー核子相互作用を 一つの枠組みで扱い 重粒子相互作用に関する現存するデータを ある程度統一的に説明するところまで来ている。

    ハイパー核物理学においては、ストレンジネスが-2のHダイバリオンが存在す るのかという問題、また、ストレンジネス$=-2$の状態がどのように 核内で存在するのかという問題等が興味持たれている。 これは、中性子星内部で実現されると予想されているハイペロン物質の物性、 特に、超流動になるかどうかの問題とも関係していて重要である。

  6. クォーク-グルオンプラズマ

    高温且つ高密度の状態は高エネルギー重イオン衝突の 中間状態として実現されると期待されている。 また、 より高エネルギー(超相対論的な)重イオン衝突では 原子核を構成している核子あるいはハドロン自体が「溶けて」、 クォークやグルオンのスープ、いわゆるクォーク-グルオンプラズマ (QGP)が生成されると期待されている。 高温、高密度になると核子や中間子の中に閉じ込められて いるよりも、解放されて他の核子や中間子の中にいたクォークやグルオンと行き来する ほうがエネルギー的に有利になると考えられる。 これは一種のパーコレーションの極端な場合と理解することもできる。 このような状態を創るため ヨーロッパのCERNのSPSや アメリカのブルックヘブン国立研究所のRHICで実験がされている。 またCERNではより高エネルギーの重イオン衝突の実験装置(LHC)が計画 されている。 QGP相の実現あるいはカイラル対称性の回復の証拠となる観測量としては、 様々のものが提案されている。 最近のRHICのデータはその点で間接的証拠となりうるものを含んでおり、 非常に興味深い。この分野の特徴は高温、高密度でのハドロンあるいは クォークの振る舞いをQCD真空の可能な変化とからめて研究しなければ ならないということである。これは ハドロンあるいはクォーク-グル-オン多体系を非摂動的に研究するという 大変チャレンジングな課題である。

    また、宇宙初期にはQGPは当然実現していたので、QGPの研究は宇宙初期の 状態を明らかにする研究でもある。


  7. 原子核中での核子構造関数の変化

    原子核の典型的なエネルギーとしてそのフェルミエネルギーを取ると $\epsilon _{_F}\sim 40$ MeV, そしてQCDのエネルギースケールは$\Lambda_{QCD}\sim 200$ MeVである。 これはパイ中間子の質量$m_{\pi}=140$ MeV$/c^2$と同程度である。 これらのエネルギーはほぼ同じオーダーであり、 原子核では、核子、中間子とともにクォークが 生きた自由度として見えてもよいはずである。 実際、 軽粒子による深非弾性散乱で見出されている原子核中での核子の構造関数の 変化、いわゆるEMC効果や 高エネルギー衝突反応での「color transparency」と呼ばれる現象は有望な 候補である。この問題の解明のためには QCDの「閉じ込め問題」の本質的理解が不可欠である。