私が院生のとき、教室運営、学会運営、素粒子論グループ、核理懇の問題、
学術会議、そのなかの原子核研究連絡会議(核研連)、物研連等について
研究室での議論に院生、ポスドクも参加していた。
また、夏の学校を含む若手活動(若手だけの研究会の組織、
若手をめぐる問題についての議論の準備その組織、段取り)への積極的な参加
を強く促された。
それまで、学生であり、スタッフに対しては「先生」
という意識しかなかったし、生来modestな私はこのような扱いのされ方に、
最初は居心地の悪さを感じた。
しかし、そこで強調されたのは、「よい研究」をしていくには、
研究をすることと同様に、上記のような研究をめぐる諸条件に係わる
「社会的」諸問題、その解決のために依拠すべき諸組織についてもちゃんとした見識を
持ち、発言、行動していくことが「研究者のプロ」として成長するためには不可欠であるということであった。これは、その後ふりかえると、たいへんよい教育であったと
思う。この強烈な「エリート教育」が「物理の京大」を支えてきた秘密かも
しれない。
しかし、最近の院生や若い研究者を見ているとこのような教育が以前ほど徹底して
いないようなので気になる。
政府やマスコミの流す通俗的な意見を研究者が無批判に受け入れていないだろうか?
声が大きかったり、権力者が発言するとそれが正しいことであると
思い込みがちになるのは弱い人間、誰しも仕方のないことかも
しれない。しかし、
大学の研究者の使命は、まず、すべてにわたって批判的であれということであると
思うのだが。因に、カントの哲学三部作はすべて「批判」である。
そして、我々はもっと大学人として我々が依拠してきた文化、価値観
に自信をもたなければならないと思う。「大学改革」を議論するにしても
それが前提である。
たぶん、上記の「社会的な問題」について議論をするような機会がさいきん希薄に
なって、このような問題について「鍛えられ」ていないため、マスコミの流す、
無責任な当事者意識のない通俗的な意見に振り回されることにお互い
なってしまっているのではないか?(私は院生時代に、
このマスコミの無責任さのため
ひどい「やけど」をした経験がある。)
(教科書には書かれていないが貴重な)私の院生時代に受けたもう一つの
教えは、研究は、「わいわいがやがやしながらやるものだ。」ということで
ある。そして、この「わいわいがやがや」は研究だけでなく、それを取り巻く環境
についてもあてはまっていたのである。お互い、「わいわいがやがや」やりたい
ものである。