湯川史料のなかには、1990年に京都大学基礎物理学研究所と合併した広島大学理論物理学研究所の所長だった三村剛昂(みむらよしたか、1898-1965)の関係史料が含まれている。
三村は1930年代を中心に数学者・岩付寅之助(1894-1945)らとともに波動幾何学研究を展開したことで知られる理論物理学者である。波動幾何学による活動実績は、1944年8月に広島文理科大学附属の理論物理学研究所(以下、理論研)の設置をもたらした。戦後、1949年に広島文理科大学が広島大学に包括されると、理論研は広島大学附属となった。三村はこの理論研の初代所長を、退官する1961年3月までつとめ、理論研の代名詞的存在であった。また、広島での被爆体験をもつ彼は、戦後の平和問題に大きな関心を向けて、第一回および第二回科学者京都会議の声明に名前を連ね、第二回では議長をつとめた。このように、理論物理学者であり、平和問題に積極的であった三村は、湯川と密な接点をもっていた。
第二回科学者京都会議の声明の文案原稿の一部(C091-006-004) 赤字と人名の書き込みは湯川による。
こうした接点を強く印象づけるものが、湯川・朝永・坂田編著『核時代を超える−平和の創造をめざして−』(岩波書店,1968年)の「むすびにかえて」で湯川が記した文面である(172-173頁)。「最後に、第一回科学者京都会議の賛同者であり、第二回竹原会議の開催を可能にして下さった 故三村剛昂博士のお言葉を掲げ、私たちの平和への決意を新たにしたいと思う。波動幾何学の創始者であり、広島大学理論物理学研究所の創立者であられた博士は、広島で原爆をうけられ、それがもとで一九六五年十月二十六日に亡くなられた。すぐれた科学者であると同時に科学者京都会議の有力なメンバーでもあった三村博士を失ったことは、かえすがえすも残念である。」このように記し、湯川は「三村剛昂博士の言葉」を二つ引用して、本を締めくくった。
「科学者自身のあずかり知らぬ問題に、科学者自身が知らず知らずのうちに入りこんできている。一体われわれは戦争を是認するのか、しないのか。科学が発達することが戦争に対して、どういう影響をもたらすかということを科学者として真剣に考えなければならない。」
「原子爆弾や水素爆弾による殺人法が残虐無比のものであることを知っていて、なおかつこれらを武器として使用することを止めないのであれば、「人道」という言葉はこの世から抹殺した方がよい。」
平和を真摯に求める湯川と三村の関係は、湯川史料を通して、1965年10月に没した三村への湯川直筆の弔辞原稿(C021-130-010-010)、二人の参加した第二回科学者京都会議(1963年5月、竹原)の声明の文案原稿(C091-006-004)などから、さらに深く読み解くことができる。
(小長谷大介)