16-17 世紀、物理学と微積分の成立

目次

1473-1543 コペルニクス
1537-1612 イエズス会神父クラウディウス
1546-1601 チコ・ブラーヘ
1548-1600 ジョルダノ・ブルーノ
1571-1630 ヨハネス・ケプラー
1564-1642 ガリレオ・ガリレイ
1588-1648 マラン・メルセンヌ
1596-1650 ルネ・デカルト
1601-1665 ピエール・ド・フェルマ
1616-1703 ジョン・ウォリス
1623-1662 ブレーズ・パスカル
1629-1695 クリスチャン・ホイヘンス
1642-1727 アイザック・ニュートン
1646-1716 ゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツ
同時代のその他の人々
参考文献
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1473-1543 コペルニクス

「天球回転 論」。いわゆる地動説を唱えた本だが、本人が公開後の論争にまきこまれることを 恐れて、その死の直前に出版。本ができてきた当日に亡くなったという。ただしそ の前から自説のパンフレットを回覧に供していた。

ポーランドの豪商に生れ、 父母の死後教会有力者であった叔父に保護される。クラクフ大学でプトレマイオス の天文学を学んだらしい。叔父の力ぞえで教会に就職、高僧として生涯を送る。法 律などの修行のため20代なかばにイタリアのボローニャ大学に留学したが、そこで も天文学を学ぶ。再度の留学では医学も学んでおり、自画像では医師としての彼が アピールされている。帰国後チュートン騎士団の略奪に対し多忙をきわめ、また教 会区の経営にもあたった。「悪貨は良貨を駆逐する」は実は彼のことばだという。 イタリアですでに星食を観察し、1515 - 1516 には一年の長さを観測、改暦のため 1533 には教皇も彼の理論に興味を持っていた。 1535、独自の天体表。

従来の理論に入っていなかった歳差率 の変化、黄道傾斜角の変化、などをとりいれた明解な理論とするために、地球が動 いているという考えに導かれた。コペルニクス理論の当時の解釈では、天球は太陽 と各惑星をのせたガラスのような実体をもつものとされており、火星の運行を観測 通りに実現しようとすると火星の天球と太陽の天球とが重なってしまい、説明に困 難が感じられていた。彗星の出現も困ったもので、ギリシャ時代には大気圏内の現 象と考えられたらしいがそれよりも遠くでの現象であることが実測され、横切るこ とができる天球とはどんなものであるかという問題を生む。コペルニクスはこれら に答えるために彼の理論を作ったが、これは恒星の年周視差が生ずるなどの新たな 問題を起した。(当時宇宙が大きいものとは思われておらず、恒星はすべて同じ天 球にのっているとされていた為の問題。)また実験(観測)と合う理論としても、彼 一人の力では長い歴史のあるプトレマイオス流に匹敵するものを提出できず、批判 される。

はじめ教皇庁は改暦のためにむしろ好意的だったようにさえ見える。 しかし次第に(カトリックよりも)プロテスタント(新教徒)からの非難が強くなり、 例えばマルティン・ルターはコペルニクスをこきおろしていたという(1539 ころ)。 こうした非難に対しては、彼は「数学は数学者のために書かれている」と言った。

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1537-1612 イエズス会神父クラウディウス

コレジオ・ロマーノで数学と天文学を講義し多くの宣教師を教育。 タルタリアの教科書を使ったともいう。当時 ユリウス暦は暦の春分と実際の春分との差が 12 日にも達していたが、その改 正案を作り、現在も使われている 1582 のグレゴリオ(13世)暦となった。コペ ルニクスをはじめて読んだ一人。ユークリッドをギリシャ語から訳した他代数 学の教科書も著し、小数を用いた。「16世紀のユークリッド」とよばれた。

1564-1622 カルロ・スピノラ。 イエズス会宣教師。クラウディウスに数学を学び、 来日して京都で講義。長崎で殉教。

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1546-1601 チコ・ブラーヘ

デンマークの貴族。若いころ決闘で鼻を失なった という。コペルニクスの理論に刺激された。王の援助を得てフヴェン島をまる ごと天文台とし、そこには発表のための紙漉き場と印刷場まであったという。 死の数年前までそこで続けた観測は肉眼で可能な限りの最も正確なものであっ た。1572 には新星を、1577 には彗星を観測し、とくに彗星の視差が大気中の 現象と考えられない小さなものであることを明かにした(「新星について」)。 これらの「天界の異変」もプトレマイオス説には不利であった。

王が変って援助が止り、抗議も無駄に終わってプラハに移る。そこでケプラー と会い翌年に死んだ。ふたりはうまが合わなかったらしいが、共に相手が必要で あった。チコは自分の天体理論の完成をケプラーに託し、生涯をかけた観測記 録を彼に渡す。チコの天体理論はプトレマイオス流とコペルニクス流の折衷と いう感じで、地球を中心として太陽が公転し、そのまわりを他の惑星が回って いるというものだった。(惑星の運動については聖書に述べられていないこと から、これなら当時の教会の公式見解に反しない。)

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1548-1600 ジョルダノ・ブルーノ

「宇宙は無限である」などと説き異端とされ、 各地を 逃げまわった 末に火刑される。本人は天文学よりも自由な社会の実現に興味が あったようで、その天文の知識には誤りもみられるが、結果的に それまでの有限の天球という考えを打破することに貢献した。

1585 天正の少年使節、教皇と会見

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1571-1630 ヨハネス・ケプラー

チコ・ブラーエの観測資料を譲りうけ、25年 かけて整理。コペルニクス理論をもとに火星の不規則な運動を理解するために 楕円軌道を導入し、いわゆるケプラーの3法則を発見。数学に優れまた観測結 果の取り扱いにも厳密をきわめた末の、労作であった。コペルニクスが不毛な 論争にまきこまれたことを考え発表をためらうが、ガリレイの勧めもあり 1597「宇宙の神秘」、1619「宇宙の調和」を著す。なお、このとき迄最も正確 な天文表は12世紀サマルカンドの天文台のものであったという。ルドルフ2世 などのおかかえ天文学者として生活し、当時一般であったように占星術も行な う。自身神秘的なものに引かれる性格があったらしく、当時知られていた惑星 6個を正多面体 5 個と関係があるはずだと結びつけて考えたりもした。

当時、円錐曲線(円錐を切ってできる楕円、双曲線、放物線)はギリシャ時代の 数学者が見つけた、美しくも実世界とは関係のないものと思われていたらしい。 それによってはじめて規則性が記述されるというのは、合理指向の人々にとっ ても驚きであった。ケプラーの理論から見ると、コペルニクスの理論は軌道の 形の分だけ不正確であり、またプトレマイオス流ででてくる「エカント点」 (周転円の中心からずれた点で、この廻りを惑星が等角速度で運動するとされた) は、周転円がもし楕円であれば、その焦点にあたる概念であったことがわかる。

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1564-1642 ガリレオ・ガリレイ

音楽家の父(リュートの名手だったと いう)のすすめもありピサ大学ではじめ医学をめざすが、ユークリッドとアル キメデスに強い印象をうけ中退。アリストテレスは批判的に読んだ。1589 母 校に就職なるも、研究のための安定した生活を求め貴族の間をわたり歩く。ケc プラーと長く文通。振り子の等時性(ただし厳密には正しくない)、落下の法則 などを発見(ピサの斜塔の実験は伝説らしい)。水銀柱による真空実験のトリチェ リは弟子。自分は真空を認めなかったという。ケプラーが数学に長けていたの に対し、観察による定性的議論を得意とした。

アリストテレスの述べた運動の法則(「落ちる物体の速度はその物体の重さに 比例する」など)について矛盾を感じ、落体の運動を研究。ピサの斜塔の実験 は伝説らしいが、より緩慢で精密に測定ができる坂道での運動を実験した。加 速度、重力加速度を発見。これが生涯の研究テーマとなるはずであったが、 1610 望遠鏡のうわさを聞き自分で製作、木星を観察してそこに木星を周る4つ の衛星、土星の輪、…を発見。地球以外の衛星がはじめて見つかり、一方天球 らしきものは観察されなかったことで、「単に数学的な虚構にすぎないかどう か」で疑問視されもした太陽中心説(地動説)を支える発見となった:「星界の 報告」。1618、彗星観測。

1623、彼の旧来の友人が教皇ウルバヌス8世となる。「太陽黒点論」などを渡 したこともあり、教皇は以前からガリレオの賞賛者であった。1616 より禁じ られていたコペルニクス体系を広める好機と見た彼は、大衆向けの本「世界体 系」(あるいは「新天文対話」)を1632にイタリア語で著す。事前に法王や枢機 卿と謁見して禁書とされないよう運動したが、結局異端審問を受け(拷問の脅 し!) 1633、判決の際自説をとりさげることを誓わされる。(「それでも地球 はまわる」といったかどうかは定かでない。)ウルバヌス8世は、自分がその中 で馬鹿にされて描かれていると思いこみ怒ったともいうが、政治生命を保つた め彼を罰せざるをえなかった。以後軟禁状態におかれるが、なお「新科学対話」 で力学を述べる。1637 失明の後も息子(金遣いが荒く無愛想だったという)を 助手とし、時計の改良などを考えた。ほぼ350年後の1976にバチカンが名誉 回復の決定。

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1588-1648 マラン・メルセンヌ

僧侶。フェルマ、デカルト、パスカルなど、 数多くの学者と学問的な文通。1635 「パリアカデミー」を創立。

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1596-1650 ルネ・デカルト

哲学者、数学者:「我思う故に我あり」。法律家 の家に生まれカトリック系の大学を出た後、イエズス会の学校に学ぶ。彼が入 学したころちょうど良い先生が着任したという。クラウディウスの本で学び、 その延長というべき「代数学」を書く。ニュートンもライプニッツもこの本で 代数を学び、またこれが発展して彼の後年の幾何学になった。1629、閑静な生 活で研究に専念するため、パリから(新教であり、出版の自由な)オランダに移 住。形而上学を学ぶ。1637、大著「方法叙説」の一部として光学などど共に解 析幾何(座標の方法、ただし直交座標とは限らぬ)を発表。この中ではじめて現 在とほぼ同じ代数記号が用いられたが、原点も負の数もまだ使われてはいない。 また「長さ」と「面積」を比べるときにも、前者に単位の長さを掛けてから行 なっている。

「全体は部分より大きい」、「平行線の公理」、なども疑い考察したが、その ような疑いうるすべてを何を基礎として言明すべきかに悩み、我思う故に我有 り という言葉が生まれたという(1640)。しかし晩年には「考えている私は神 を表象する、神は完全で誠実であるから私を誤らせるはずがない」として、折 角疑った全てを神に帰してしまう「デカルトの循環」に陥った(こういう議論で ある仮説が正しいかどうかを検証できはしない)。

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1601-1665 ピエール・ド・フェルマ 本職は法律家。「フェルマの最終定理」 (=ワイルズの定理 1995)を予想し、「証明を書くにはこの本の余白は狭すぎる」 と書き遺したが、彼の持っていた「証明」は何かの勘違いであったろうと思わ れる。賭博の問題や、曲線に接線を引く問題を考察。パスカルとも文通。

1603 セントローレンス川探検。

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1616-1703 ジョン・ウォリス

運動量保存則を提唱。また、複素数を平面に表示。

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1623-1662 ブレーズ・パスカル

母を早く亡くし父親に注意深く育てられる。 病弱。少年のころ、三角形の内角の和が180度であることを発見した他、多く の幾何の定理を得た。真空の実験、二項定理、機械による計算機を試作などの 他フェルマと共に確率を論ずる。父の死後健康を害し閉じこもりがちになる。 イエズス会批判、論理学研究のあと宗教的生活を望み数学を離れ、「パンセ」 を執筆。その著作はトルストイなど文学者にも大きな影響を与えた。

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1629-1695 クリスチャン・ホイヘンス

ガリレオの研究した力学、天体 観測、振り子時計などの研究を発展させる。特に、時計についてはあらゆる時 代を通して彼がもっとも詳しいとさえいわれる(ただし今世紀前半の物理学者 ゾンマーフェルトの言葉)。ガリレオと同様、17 才の少年のときに運動の法則 に興味を持ち、投げた物体が放物線を描くことを発見し証明しようとしたが、 彼はその内容をガリレオの本で見つけ、以後それを学んだという。天体観測に おける時刻の特定のため、また航海時に緯度経度を算出することに用いるため、 40年間を振り子時計の改良に費やした。「振り子の等時性」は振れ幅が無限に 小さいときにしか成り立たない。サイクロイドという曲線を用いた装置を振り 子の支点に用いることでこの問題が解決できることを発見した。(現代の「変 分法」にあたる、いわば無限次元の微積分の問題であった。)航海中にも用い る為には、船の揺れに対する対策が必要であるが、その研究途上でゼンマイ式 の時計が開発され、航海にはこちらが採用されるようになった。

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1642-1727 アイザック・ニュートン

田舎の裕福な地主の家に生まれたが、父 は生まれる前に死に、母も彼が3才のときに再婚し隣村へ。その後10才のとき に母が戻ってくるまで祖母に育てられた。家族はあとを継がせたかったらしい が12才のときから寄宿舎学校に入り、そこで化学や数学に熱中しケンブリッジ 大学へ。在学中、1665-67 にペストが流行し帰省。このころまでにはアポロニ ウス、デカルト、ケプラーを読んで、力学の研究に入っており、また特待生に なっていた。帰省中に微積分法(デカルトの影響?)、光学理論(フックの影響?)、 そして万有引力の法則(ケプラーの影響?)を発見したと語っている。大学が再 開してすぐに教官となり、26 才の時から長くケンブリッジのルーカス教授職 にあった。

1687 「プリンキピア」(自然哲学の数学的原理)初版。ケプラーの法則を、距 離の2乗に反比例する「万有引力」から導いた。天文学者ハレーが彼に「引力 があるとしたらどのような運動がおきるか」と尋ねたところ「それは知ってい る」と答え、ケプラーの法則が導かれることを説明した。そんな大事なことを 発表んしていないのにびっくりしたハレーの催促によって書かれたという。 ここでは微積分にあたる無限小の考察が用いられるが、その著述はユークリッ ド的な図解に満ちて難解である。自ら請われて予備知識として挙げた本は、ユー クリッド、アポロニウス(の解説)、ホイヘンスなどであった。微積分の発見者 というよりも現代の物理学の祖のひとりとして数えるべきであろう。天体観測 のために巨大な反射望遠鏡を設計したりもした一方、錬金術の研究および聖書 学も彼の主要な関心であった。

化学薬品による中毒としての精神病か、あるいはライプニッツとの微積分の先 発権論争などで人ぎらいになったといい、他の著作もあえて理解を求めないと いう態度が感じられる。晩年友人のはからいで名誉職としての造幣局長官となっ たが、そこでも能力を発揮してただちに局内の不正を摘発した。死後彼の遺体 はウェストミンスター寺院に1週間安置されたのち、国葬級の盛大さで行なわ れたという。なお彼の著作は今世紀にオークションに掛けられたが、散逸の危 機に際して経済学者のケインズが私財でそれを防いだ。

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1646-1716 ゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツ

ライプツィヒで生育、父は裁判所書記兼倫理学教授。 十代では若すぎるからという理由で20才で 法学博士に。1672、外交官としてパリに滞在し数学者ホイヘンスに会い数学を 学ぶ。遅くはじめたため、却って意識的に政治や法学も含めた体系化・記号化 を目指したという。貴族に仕えるのに忙しくした人で、ニュートンと研究上の 競争をしていた 1687-90 にはパトロンの家系図を作ることを生業とし、ゆか りの地を旅して暮した。微積分法のほか、計算機械の試作、哲学、法学、政治 など多方面に才能を表わし、鉱山の開発などにも関わった。きわめて多数の学 者と、また清の康熈帝とも文通し晩年は各地の宮廷から顧問に迎えられた。

デカルトを越えようという意思の下(?)、より広く諸学の統一を試みたという。 またデカルトと異なり、条件つきの知であっても構わないとし、公理を証明す べきとは考えなかった。ニュートンと独立に微積分法を発見したといわれてい るが、最近の研究によれば 1688 にはプリンキピアを入手し書きこみをしてい るという。1689 の「試論」において、ニュートンが職人芸的な幾何学的考察 で得た結論を、彼の「普遍記号法」の一環である微積分法によって導いた(微 分方程式)。これはニュートンとの歴史的な先発権論争に発展したが、喧嘩の 勝敗よりもむしろ結果をみると、イギリスにおいてはニュートンが神格化され て議論がむしろ停滞したが、ライプニッツの微積分法により大陸でその後の研 究が進んだ。

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同時代のその他の人々

なお、例えば James Gregory, Issac Barrow, Evangelista Torricelli らが 1640 ころには微積分の基本定理に気がついていたという。また ロバート・フッ ク(1635-1703)は顕微鏡、巨大望遠鏡なども用いた実験物理学者のはしりのよ うな人であったが、彼も万有引力を考えたともいう。

1650 ころ オランダ人により「写真鏡」 「望遠鏡」「眼鏡」長崎に渡来。

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参考文献

  1. コペルニクス「天球回転論」高橋健一訳、解説 みすず書房 (著者は工学部出身であり、当時の理論的問題点について特にすばらしい解説がある。)
  2. S.G.ギンディキン 「ガリレオの17世紀」「ガウスが切り開いた道」シュプリンガー東京
  3. ガリレオ・ガリレイ「新科学対話」(上下)岩波書店 (原著1638、蘭Elsevier書店)
  4. トーマス・クーン「本質的緊張」(上下) みすず書房 (よい科学史学への入門。)
  5. 山本義隆 「古典力学の形成 ニュートンからラグランジュへ」日本評論社
  6. フォーベル他編「ニュートン復活」現代数学社
  7. D.L and J.R. グッドスティーン 「ファインマンさん、力学を語る」岩波書店 (ファインマンによる、ニュートンの議論の再構成。)
  8. ファインマン「物理法則はいかにして発見されたか」ダイヤモンド社
  9. 小堀憲 「数学史」 朝倉書店
  10. 佐々木力 「科学革命の歴史構造」(上下) 講談社学術文庫; 1996.11.25 東北大学数学教室談話会での講演 「デカルト・ライプニッツの数学論」

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