量子で開く新たな情報科学の扉

原子や分子といったミクロな世界を記述する量子論は、私たちの直観に強く反する概念を含む物理理論です。1925年に理論が完成した当初は「現象は説明できるが、何が起きているのかはよく分からない物理理論」と評されていました。しかし、現在では、通常とは異なる奇妙な確率論としての量子論の理解が進み、その確率論に基づく情報処理を考える学問として、量子情報科学が発展しました。

量子の世界では、“観測するまでは情報を超並列保存できるが、コピーはできない”など、情報の振る舞いそのものが変貌し、「できないはずだったこと」が可能になることがあります。例えば、セキュアな量子通信や超精密量子センシング、また、NP問題の多項式時間量子アルゴリズムなどです。こうした量子のポテンシャルが明らかになるにつれて、次世代情報技術の基盤としての量子情報技術に期待が高まっています。

本研究室では、量子論を「情報を扱う理論」として捉え直すアカデミックな立場から、量子情報処理の可能性と限界を理論的に探究しています。これまでに、量子通信、量子誤り訂正、量子アルゴリズム、量子多体系における情報の振る舞いなど、情報と量子が交差するさまざまなテーマに取り組んできました。

以下では、これまでに取り組んできた研究テーマを紹介します。これらは本研究室の関心の一部に過ぎません。量子と情報の関係を手がかりに新しい問題設定や予想外の接点が見えてくるのであれば、理論から応用まで、柔軟に研究対象を広げていきたいと考えています。

量子擬似ランダムネス

情報科学において、ランダムネスは計算、通信、セキュリティなどを支える重要な資源です。しかし、理想的なランダムネスの生成は本質的に難しく、そのままでは現実的な情報処理に用いることはできません。このため、限られた操作や計算資源のもとで、どこまでランダム性を再現できるのかという問いが、理論・実装の両面から重要となります。

この問いを直感的に示す例が、トランプのシャッフルです。トランプは何回シャッフルすれば「十分に混ざった」と言えるのでしょうか。実は、マジシャンが行うリフルシャッフルをおよそ七回行えば、統計的にはほぼランダムな状態に達することが数学的に示されています。完全なランダムネスを実現せずとも、少ない操作で本質的なランダム性を得られるのです。

本研究室が扱う量子擬似ランダムネスは、この問題の量子版にあたります。「どのような量子ダイナミクスで、理想的な量子ランダム性をどこまで近似できるのか」を理解することが目標です。量子擬似ランダムネスを効率的に生成する量子ダイナミクスの解明や、その性質を検証する理論手法の確立を通じて、理想と現実の間にある量子ランダムネスの本質に迫っています。

研究のキーワード:Haarランダムネス・ユニタリデザイン/状態デザイン・ランダム量子回路・ランダム量子ダイナミクス・量子ランダムネスの計算量・Weingarten計算

量子通信と量子誤り訂正

情報をいかに正確かつ効率的に伝送できるかという問題は、情報科学の中心課題の一つです。量子の世界では、量子状態がノイズや損失の影響を強く受けるため、この問題はより一層重要になります。そのため、量子情報を誤りから守る手法は不可欠であり、その基本的な枠組みが量子誤り訂正です。

量子誤り訂正では、量子情報を冗長に符号化することでノイズの影響を抑制します。様々な量子符号が存在しますが、特に量子ランダム符号では、量子ランダム性や量子擬似ランダム性を用いることで、特定の誤りモデルに依らない高い普遍性を持つ誤り訂正性能が実現されます。

なぜ、符号を作るのにランダム性を用いるのでしょうか。例えば、飛行機への搭乗をできるだけ早く終わらせたいとき、座席番号順で案内すると、荷物棚で人が滞留し、時間がかかります。一方で、ある程度ランダムに搭乗させると人の動きが分散され、全体としてはスムーズに着席が進みます。このように、ランダム化は特定の衝突を平均的に回避し、最悪ケースを避ける役割を果たします。量子誤り訂正でも同様で、符号に適度なランダム性を取り入れることで特定の偏りを防ぎ、平均的に高い誤り訂正を実現できるのです。

本研究室では、このような視点のもと、ランダム符号を含む多様な量子符号を研究しています。「量子ランダム符号はなぜ有効なのか」「どの程度の量子ランダム性があれば十分なのか」といった根本的な問いに取り組むと同時に、ランダム符号にとどまらず、理論的な性能保証と実用性の両立を目指したスタビライザー符号の研究も進めています。

研究のキーワード:量子誤り訂正符号・量子ランダム符号・低深さ一般復号回路・量子シャノン理論・エンタングルメント分配・デカップリング理論

量子アルゴリズムと量子計算量

すべての情報処理の基盤となるのがアルゴリズムです。1994年に Shor によって素因数分解を多項式時間で解く量子アルゴリズムが発見されたことは、量子情報科学の急速な発展を導く大きな契機となりました。

従来の量子アルゴリズム研究は、特定の問題に特化した職人技的アプローチが主流でした。しかし、近年、量子特異値変換と呼ばれる量子サブアルゴリズムが登場したことで、多様な問題にアルゴリズム的にアプローチする理論基盤が確立されました。

このような流れを受けて、本研究室でも、これまでに述べた研究テーマを量子アルゴリズムの観点から捉え直す研究を行っています。具体的には、量子擬似ランダムネスを生成・検証する量子アルゴリズム、量子ランダム符号の復号アルゴリズムの開拓、さらには量子情報理論で頻出するUhlmann 変換の量子アルゴリズム実装など、量子情報理論で現れる基本操作をアルゴリズムとして具体化する研究にも取り組んできました。アルゴリズムを構成することでこれらのプロトコルを実行可能な形で具体化するだけでなく、実行に必要な計算量の評価も可能となりました。

量子コンピュータの実現が現実味を帯びる現在において、アルゴリズム的視点の重要性はますます高まっています。本研究室では、抽象的な理論にとどまらず、量子計算量も意識したアルゴリズム設計を通じて、実装可能性と理論的理解の両立を追求しています。

研究のキーワード:量子アルゴリズム・量子計算量・量子クエリ計算量・量子特異値変換・ブロックエンコーディング・アルゴリズム的量子情報理論

情報の視点で切り拓く、新奇な物理

量子情報科学は、情報科学と物理科学が交差する学際的研究分野です。情報科学は現代の情報化社会を支える基盤であり、量子論は現代物理学の根幹をなす理論です。この二つの分野が融合することで、新しい研究の視点と世界が生まれます。

例えば、「誤り訂正=情報処理における誤りを防ぐ技術」、「カオス=予測不能なダイナミクス」、「熱緩和=系が熱平衡へと向かう現象」を考えてみましょう。これらは情報から物理まで、一見まったく異なる概念に思えますが、実は深く結びついています。

この直感を理解するために、ランダム符号を考えてみます。ランダム符号は、規則性を意図的に排除することで偏りを防ぎ、高い誤り訂正を実現します。その符号化には「十分にランダムで複雑な」ダイナミクスが必要ですが、重要なのは、偏りがないが故に、その結果は第三者には完全に予測不能に見える点です。この予測不能さこそが、誤り訂正とカオスを結びつけます。さらに、その後に部分系のみを眺めると、その振る舞いは熱緩和と見分けがつかなくなります。このように、「ランダム符号」「カオス」「熱緩和」は、予測不能なダイナミクスという本質が、情報と物理の異なる側面として現れているに他なりません。

異分野融合が魅力的なのは、視点を少し変えるだけで、世界の見え方が一変する点にあります。例えば、上述の例から、「カオスを情報処理に活用する」というエキゾチックな発想や、「熱緩和は身の回りで起こっているが、それは実は身の回りの情報の符号化が進んでいるということ」という新しい物理像が自然に生まれてきます。本研究室では、このような視点に立ち、情報処理の概念を武器に物理現象を捉え直し、情報と物理の境界から新しい価値観を切り拓く研究も行っています。

研究のキーワード:量子多体系・量子カオス・熱平衡化現象・情報スクランブリング・統計力学・複雑系

Contact

量子情報グループ 中田 芳史

〒606-8502 京都市左京区北白川追分町 京都大学 基礎物理学研究所

Email: yoshifumi.nakata [at_mark] yukawa.kyoto-u.ac.jp

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