モンゴル高原の歴史。
紀元前にはモンゴル高原では民族系統不明の騎馬民族が遊牧を営みながら栄えていた。
秦の始皇帝の中国統一と時期を同じくして、北方で部族統一をなしとげ強力な国家を形成した。君主は「単于」と称した。
父を殺して単于の位に就くと、BC200頃漢の高祖と戦い奪われた地を回復し、月氏を討って西方に敗走させ広大な領土を支配した。
漢の武帝から度々侵略を受け、徐々に衰退しBC1世紀頃には東西に分裂した。
中央アジアのタラス川流域に移動した西匈奴はBC36年漢と東匈奴の連合軍によって滅ぼされた。
東匈奴はさらに48年に南北に分裂する。
北匈奴はその後、烏桓、鮮卑といった遊牧民や漢と同盟を結んだ南匈奴によって攻撃を受け、東アジアから姿を消した。一部がさらに西進し、ゲルマン民族大移動の引き金となったフン族とも言われている。
当初匈奴に服属していたが、匈奴分裂後に部族統一を果たした鮮卑が頭角を現し始めた。五胡十六国時代には中国北東部から華北に侵入し国を打ち立て五胡に数えられ、南北朝時代では華北を支配し、後に中華平原全体を支配する楊堅を生み出した。
386年鮮卑の拓跋珪が皇帝(道武帝)を称して魏を建国、南北朝時代が幕を開けた。
439年三代目太武帝のとき華北を統一した。
第六代孝文帝は豪族の大土地所有を制限し人民からの租税収入(租庸調)を確保することを目的として土地公有の原則(均田制)を導入した。しかし男性だけでなく女性や奴婢にもその半分の露田を与えた上に、耕牛をもつものにはそれに応じた土地を支給、さらには税を奴婢は良民の8分の1、耕牛は20分の1に抑えた。豪族優遇は依然として残されたままで貧富の格差は解消されなかった。
孝文帝は493年都を北方の平城から中原の洛陽(漢民族の古都)に遷すことを決定、翌年には胡服を着ることは禁止された。さらに中国語の使用が命じられ、胡族と漢族の結婚を奨励、南朝風の貴族制度を採用した。しかし当然のことながら漢化政策は遊牧騎馬民族としての誇りを持っていた武人階層に不評で、後に北魏分裂の要因となる六鎮の乱を誘発した。
六鎮とは北方の長城地帯の国防の第一線に配備された六つの駐屯軍のことで、胡族の系譜を持ち優れた騎馬の技術をもっていた。漢化政策が進むと、洛陽遷都から暫く宮廷には文官や宦官が多くなり漢文化風の貴族制が形成され、武人はますます肩身が狭くなっていった。その洛陽宮廷の変化は北方にとどまった武人層には堕落と感じられるようになり、さらに中央政府から罪人が鎮兵として北方に送り込まれるという差別的扱いを受けると523年彼らの不満が爆発し華北一体で大きな反乱が沸き起こった。結果、北魏は西魏と東魏に分裂し洛陽は両軍の戦場となった。
六鎮の乱で台頭した軍人の高歓が、534年北魏の孝静帝を擁立し北魏の東半分を支配させ、自らは晋陽に幕府を開いた。しかし、建国に功績のあった北方系軍人と漢人官僚との間で対立が激しく政権は安定しなかった。
550年高歓の子の高洋が帝位の禅譲を受け北斉の文宣帝を称した。しかし北方系軍人と漢人官僚の対立を収まることができず北周によって577年滅ぼされた。
北魏の孝武帝は六鎮の乱から西へ逃れ、長安を拠点としていた地方軍団長の宇文泰は535年孝武帝を帝位に擁立し都を長安とした。
公有地を与えられた農民の中から兵士を徴発する徴兵制度。隋、唐に継承され唐の律令制度の中に組み込まれた。
西魏の軍事権を握った宇文氏が、西魏皇帝から禅譲を受けて成立。第三代武帝のとき、仏教寺院の所有地を取り上げ僧を兵士として徴兵し廃仏を行った。
北周の第三代武帝は西魏時代に作り上げた府兵制の軍事力を利用して北斉を577年に滅ぼして華北を再統一した。さらに南朝の陳、北方の突厥に攻め込んだが36歳で病死し全土の統一はならなかった。次の代の皇帝には統治の力が無く、外戚であった楊堅に帝位を禅譲し、隋を建国した。
鮮卑出身の楊堅が漢人建国の南朝陳を滅ぼし中華平原を統一、文帝として即位し隋を建国した。隋は北魏発祥の均田制・租庸調制、西魏発祥の府兵制を継承、科挙を創始して官僚制度を構築、次の王朝である唐とともに律令体制の基礎を作った。
煬帝が暗殺された後、同じ鮮卑系で文帝(楊堅)に仕えていた李淵が、煬帝の孫の恭帝から禅譲によって皇帝となり高祖を称して唐を建国した。
鮮卑系が中華平原に移動すると、モンゴル高原ではトルコ系の遊牧民が繁栄した。
トルコ人を意味する"Turkic(トュルク)"の音をそのまま漢字にした。読みは「とっけ(く)つ」。アルタイ山脈西南地方を中心に部族を統合した。その王は柔然と同じく可汗(カガン、ハガン)と呼ばれた。
西方のトルキスタンに進出、ササン朝ペルシアと結んで柔然(エフタル)を滅ぼした。
南北朝時代末に隋が興ると圧迫され東西に分裂した。
隋末期に李淵の反乱を援助、唐が中華平原を支配すると羈縻政策によって服属しながら自治を行った。
まもなく東突厥は唐に対して反乱を起こし682年に突厥を復興すると間もなくソグド文字を改良して突厥文字を開発した。北アジアの遊牧民族が用いた最初の文字と言われる。イェニセイ川上流に残るイェニセイ碑文にはキルギスが書いた突厥文字が残っている。
同じトルコ系民族ウイグルによって侵攻され滅亡した。
西方のトルキスタンに進出しトルキスタンから西を支配した。しかし唐の勢力が徐々に西方に進出し657年に滅ぼされた。
はじめ突厥に服属していた鉄勒の9部族(トクズ=オグズ)の中の一部族であったが、東突厥が衰退した後744年に自立して可汗を称しウイグル国家回紇(かいこつ)を建国した。
安史の乱で唐に援軍を送ると、洛陽を解放したウイグル王はマニ教に改宗、国教とした。
(SY comment)
ウイグルは後にその多くがイスラームを信仰するようになる。そのため中国ではイスラム教のことを回紇から取って「回回教(フイフイ教)」もしくは略して「回教」と呼ぶようになった。現在では「清真教」と呼ぶことが多いようである。
同じトルコ系民族キルギスによって侵攻され滅亡した。その一部は中央アジアのタリム盆地に移住しオアシス都市を支配して西ウイグル王国を建国した。
モンゴル高原の北に広がる南シベリア草原で遊牧生活を送るコーカソイド系であったが突厥の支配を経てトルコ系になった。匈奴に服属し漢代には結骨として出てくる。その後突厥、ウイグルの支配を経てウイグルを滅ぼし国家を建国した。
13世紀前半にチンギス=ハンの侵攻を受け滅亡した。
モンゴル系耶律阿保機が中国の東北辺からモンゴル東高原にかけて遊牧民部族を統合、契丹を建国した。
太祖耶律阿保機が920年に漢字の字形を模倣した契丹大字(表意文字)を制定、後に契丹小字(表音文字)も構成した。表意文字の作成は日本の仮名文字発生と共通した文化現象である。
太祖耶律阿保機が926年渤海を滅ぼす。
太祖の次の太宗の時、中国の五代の一つ後晋を支援した見返りに中国の東北地方、長城以南にある燕雲十六州を獲得。 年ごとに金と絹布の贈与を約束させたが、二代目がその約束を守らなかったため後晋の都開封を攻撃し後晋を滅ぼす。開封に入城して一時中国全土を支配し、翌年に国号を遼とした。
北方遊牧民に対しては伝統的な部族制によって統治したが、華北の支配地域にいる漢民族に対しては州県制による統治を行った。
燕雲十六州奪還を目指す宋は金と同盟を結んで遼を攻撃し、1122年に完顔阿骨打率いる金軍が上京臨潢府と燕京を陥落、第二代皇帝太宗によって1125年に遼は完全に滅ぼされた。遼の王族の一人耶律大石らが西方中央アジアに逃れトルキスタンでカラ=ハン朝を倒し1132年西遼(カラ=キタイ)を建国した。
その一方、同盟を結んだはずの宋軍は長江流域で起こった方臘の乱という農民反乱に対処するだけでほとんど加勢しなかった。このことが引き金となり、翌年金は大軍を南下させ宋の都開封を包囲した(靖康の変)。
アルタイ語族に属するツングース語を用いる諸民族をツングース系と総称する。
中国東北部で遼の支配下にあったツングース系女真は狩猟採集生活を続けながら徐々に強固な軍事組織を作り上げていき、1114年に挙兵、完顔阿骨打が1115年に即位して金を建国した。
太祖完顔阿骨打がまず大字(表意文字)を制定しその後三代目熙宗が小字(表音文字)を制定した。
完顔阿骨打は遼が行った二重統治体制を継承し、女真族には猛安謀克制で統治を行い、華北の漢民族には州県制を適用して統治を行った。
300戸を単位とする謀克(ぼうこく|ムケ)と、10謀克を単位とする猛安(もうあん|ミンガン)からなる組織で、平時は狩猟や農耕に従事し戦時には成年男子が兵士として従軍する制度。
遼を侵攻する際に同盟を結んだはずの宋が攻撃をしなかったことに腹を立てた金は翌1125年、大軍を南下させ宋の都開封を包囲した。多額の金銀の支払いと領土の割譲を宋側が約束すると金軍はいったん引き上げた。 しかし宋はその約束も守らなかったので、翌年金は再び開封を攻撃、上皇、皇帝を含む三千人が捕らえられると同時に金銀財宝も略奪され宋は滅亡した。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 | 『北方民族』『モンゴル』 |
実教出版 | 『世界史B』 |
(SY comment)
府兵制という軍備制度が確立していたことが北周の華北再統一の要因であることは明らかで、隋や唐にこの制度が継承されたのも頷ける。