中央アジアの歴史。アフガニスタン、トルキスタンを含む。
アレクサンドロス大王はアム川(現アムダリア川)流域のゾロアスター教の伝統をもつバクトリア地方を征服した。
アレクサンドロス大王はバクトリアにギリシア人を入植させて支配を行った。
アレクサンドロス大王の死後アフガニスタン・ソグディアナの地域はセレウコス朝シリアによって統治が行われた。不満を持った領域内のギリシア人は祖国に帰ろうと蜂起したが鎮圧された。
セレウコス朝シリアの総督ディオドトス1世は次第に分離独立の意向を強め独立王国を作った。イラン高原のパルティアとは友好関係を保ちつつ、インド方面に領土の拡大を企てた。
マウリヤ朝マガダ国の衰退に乗じて南下し、パンジャーブ地方を支配下においた。これによりヘレニズム文化がインドのガンダーラ美術に影響を与えたともいわれている。
スキタイ系遊牧民トハラ(大夏)の侵攻によりバクトリアは滅ぼされ、この地域は一時的にトハラ(大夏)によって支配された。
前3世紀末匈奴に敗れは西方に逃れた月氏の主力勢力(大月氏)が烏孫に追われ、パミールを超えてアム川上流のソグディアナからバクトリアに侵入、この地を支配していたトハラ(大夏)国を滅ぼし定住を始めた。
前漢の武帝の命を受けて張騫が来訪、匈奴を挟撃するための同盟を提案するが大月氏は提案に応じなかった。
大月氏国の支配を受けていた有力5諸侯のうち、大月氏の一族もしくはイラン系クシャーン人が他の4諸侯を制圧して王を名乗りパルティアやインド北部を征服して国家を作った。
釈迦の死後、部派争いで次第に民衆の信仰から離れていった仏教の革新運動として登場したナーガールジュナが大乗仏教の理論を確立するとクシャーナ朝の第3代カニシカ王が帰依し第四回仏典結集を行った。
大乗仏教はその後中央アジアを経て中国、朝鮮、日本に伝えられ日本の鎌倉仏教に大きな影響を与え北伝仏教とも呼ばれた一方、小乗仏教はスリランカから東南アジアに広がり南伝仏教とも呼ばれた。
インダス川の上流域パンジャーブ地方に属するガンダーラ地方(現パキスタン領土)において仏像を作る技術が発展した。本来仏教は偶像崇拝ではなくブッダを彫像で表すことはなかったが、クシャーナ朝はローマと交易しヨーロッパの影響を受け仏像を造るようになった。
ソグディアナ地方を原住地とするオアシスで灌漑農業を営んでいたイラン系農耕民族。
古くから内陸のシルクロード(オアシスの道)で交易にも従事し、中国から西へは主として絹を、西から中国へはイランの金銀器やガラス製品などを運んだ。当時の中国の唐にも出入りし商業活動を行った。
西アジアのアラム文字をもとにして作られたと考えられている表音文字。ソグド商人の商業活動によって中央アジアから東アジアに広がり、ソグド文字を基にしてウイグル文字が作られた。
中央アジア初のイスラーム王朝。
中央アジアで捕らえたトルコ人を奴隷(マムルーク)としてイスラーム世界に輸出し収入源とした。
サーマーン朝が治めるブハラ近郊で生まれたイスラーム世界を代表するイラン人医学者、錬金術師。幼いうちから教育熱心な父親から英才教育を受け10歳でコーランを暗記、そして数学、イスラム法学、アリストテレス、錬金術、医学を学ぶ。約20年の歳月をかけてアラビア医学、ギリシア医学、インド医学の知識を加えた大著『医学典範』を著した。これは後にヨーロッパに伝えられ「アヴィケンナ」というラテン名の著者とともにヨーロッパで長く医学の教科書として用いられた。
10世紀頃にイスラム教を受容したカラ=ハン朝によってサーマーン朝は滅ぼされた。
アルタイ山脈の南西にいたトルコ系カルルク人の部族連合がカラ=ハン朝を建国し東西トルキスタンにまたがる国家となった。
サーマーン朝の影響を受けてイスラーム教を受容、トルコ人のイスラーム化が始まった。
サーマーン朝に仕えるマムルーク(トルコ人奴隷兵士)出身の親衛隊長であったアルプテギンがアフガニスタンのガズナに独立政権を樹立、アフガニスタンとパキスタンを支配し西北インドに侵入した。イスラーム勢力としてインド進出に初めて成功した。
ガズナ朝に服属していたトゥグリル=ベクがニーシャープールで自立しセルジューク朝を打ち立てた。
ガズナ朝の領内のアフガニスタン中部ゴール地方から起こった勢力が1148年に独立しイスラーム王朝を建国、1186年にガズナ朝を滅ぼした。
王ムハンマドはパンジャーブを平定後北インドのラージプート諸侯軍を破りインドでのイスラームの布教につとめた。
1203年にはベンガル地方にあったパーラ朝を滅ぼし、ナーランダー僧院をはじめとする仏教僧院を破壊した。その後この地を部下のアイバクに統治させた。
パーラ朝征服後、ムハンマドはガズナに戻ると間もなく暗殺されゴール朝は分裂状態となり、北インドのアイバクは奴隷王朝を建てて自立、アフガニスタンとイランの地域はホラズム=シャーによって征服された。
モンゴル高原で栄えていたトルコ系ウイグルがキルギスによって滅ぼされると、その一部中央アジアタリム盆地のタクラマカン砂漠のオアシス地帯に移住した。
ウイグルが移住した中央アジアのパミール高原の東西に広がる広大な草原と砂漠地帯はイラン系民族のインドヨーロッパ語に代わってトルコ語が用いられるようになった。トルコ文化を受け容れたこれらの地域はトルキスタン(イラン語で「トルコ人の地域」)と呼ばれるになり、特に西ウイグル王国が支配した地域は東トルキスタンと呼ばれるようになった。
カラ=ハン朝は11世紀以降東西に分裂し、ガズナ朝に次いでセルジューク朝に圧迫され衰退し、12世紀中頃モンゴル高原東部から金にとの争いに敗れ移動してきた西遼(カラ=キタイ)に併合された。
西ウイグルも同様カラ=ハン朝による支配を受けた。
セルジューク朝のマムルークであるトルコ系アヌシュ=テギンが、アム川の下流域のホラズム地方(アラビア語では「フワーリズム(マー・アワー・アンナフル=川の向こうの地)」)の総督に任命されホラズム=シャーを称し独立した。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 | 『アフガニスタン』 |
実教出版 | 『世界史B』 |
(SY comment)
仏典結集はカニシカ王のときになされたものが最後だと言われている。