中華平原の歴史。
亀甲や獣骨に刻まれた文字で、殷王が戦争や狩猟に際の占いで用いられたので「卜辞」とも言われる。殷墟から多数発見された。漢字の起源となる。
皇帝が一族や功臣を諸侯として領土を与え、その地域の支配を世襲させる制度。これにより血縁氏族社会が形成された。
血縁や先祖を共有する人々が集団を形成する集団(cluster)社会。
周王朝で実施されたとする土地均分制。耕地をすべて公有地としてから、それらを家族を単位として平等に分配する制度。
(SY comment)
この土地制度において共産主義の理想が実現されている。後の儒教の項目でも述べるが、中国において正統な学問とされた儒教は西周に理想を見出しており、国家の正統性を主張するには共産主義を採用するのが自然、もしくは都合がよい。現代の中華人民共和国が(少なくとも形式的に)共産主義をとる思想的背景が垣間見える(2017/10/10記)。
周の西北で活発化した異民族犬戎(けんじゅう)が前770年首都鎬京を侵攻、周の幽王は殺害され周は滅亡した。周王室の生き残りが東の副都洛邑に逃れ周を再建した(周の東遷)。
西周が滅亡し東遷によって東周となったが、各地に有力な諸侯が独立して対立、中国は統一天子のいない分裂期に入った。
各地の有力諸侯が対立する不安定な情勢の中、旧来の社会秩序に代わる国家理念や道徳観、世界観を説き戦国時代の混乱を収束させる道を探った思想家の総称。諸子百家は各国を遊説して自説を主張、自由闊達に議論を戦わせる状況が生まれた(百家争鳴)。儒学の創始者となった孔子がその先駆けとなった。
なお、諸子百家という名称は前漢末の劉向が戦国時代の文献の古文を復元して分類して名付けたもので、当時はそのような分類された名称はなかった。
(SY comment)
不安定な社会情勢の中、その状況を克服すべく自由闊達に議論する状況が生まれ、その中から優れた思想が生まれたという歴史は、大変素晴らしい中国が誇るべき歴史である。物理学で言えば、20世紀前半のボーア原子模型が登場した後、さらに多数の「素粒子」が見つかり、(QCDに収束するまで)何が基本的な理論が分からず混沌とした時代と似ている。
儒学または儒教と呼ばれる、孔子の教えを奉じる思想家。『詩経』『書経』『易経』『礼記』『春秋』の五つの経書(五経)を基本書とする。人間が個人として自己と他者を認め合う「仁」と、社会秩序を意味する「礼」を重視し、家族道徳を守ることによって乱世を収束させ太平天下が実現されるとする徳治主義を主張、西周の時代を「礼」の理念を体得した聖人によって統治された理想的な時代とした。孔子の教えを基礎として曹子、子思、孟子、荀子らが発展させる。
秦の始皇帝によって厳しく弾圧されたが、漢時代には武帝により儒学者である董仲舒の意見が取り入れられ官学となった。それ以後儒学は各王朝で保護され最も正統とされる学派としての地位を占めた。
(SY comment)
西周の制度は(井田制など)共産主義的であったから、儒教と共産主義は相性が良い。加えて、後に儒教が中国の正統な学問として扱われたという事実は、中国を支配する国家が正統性を示すためには共産主義を採用するのが自然である、もしくは都合が良い、ということを意味する。
(SY comment II)
中国における儒教の地位の変遷は西欧、特にローマ帝国内におけるキリスト教のそれに似たところがある。例えば、儒教が始皇帝に皇帝の権威を危うくするという理由で弾圧された後に武帝により正統な官学という地位が与えられた、という歴史は、中世ヨーロッパにおいてキリスト教が皇帝崇拝を否定するという理由でしばしば弾圧されるも後にコンスタンティヌス帝はキリスト教を公認し(ミラノ勅令)、テオドシウス帝はさらに国教にまで定めた、という歴史と似ている。
人間の本質は善/邪悪であるという説。孔子、孟子/荀子が主張。
儒家の説く徳治主義によって国を統治することは困難と考え、成文法によって罰則を定め、法と権力によって国家を治める法治主義を主張した思想家たち。公正で厳格な法の執行が為政者に最も必要なことと考えた。
後の隋や唐など律令王朝において法治主義の思想が結実する。
秦(BC221 - BC206)と漢(BC202 - 220)
早くから改革に着手して国力を蓄えた秦が中国全土を統一した。
始皇帝は領土を統一すると、法家の李斯を宰相に起用し、各国ごとに異なっていた貨幣や度量衡、文字を統一、周時代の地方分権的な封建制を解体し、中央集権的な体制を作り上げた。
秦の始皇帝は戦国時代において各国ごとそれぞれ異なっていた青銅貨幣を統一し、中国史上最初の統一通貨となった。
法家の李斯が建言し始皇帝が採用した中央集権的な地方制度。全国を36(後に48)の郡、さらにその下に県を設け、それぞれの郡に中央から官吏を派遣して統治する制度。郡県の下にはさらに郷(きょう)、里の行政区分があり、里を行政の最小区分とした。
指令を各行政区分から順繰りに行うことで中央政府が地方を直轄した。このことにより周の封建制で形成された血縁氏族社会が解体した。
始皇帝は春秋戦国の諸侯がそれぞれの国境に建設していた長城を修復してつなげることにより、西は甘粛省から東は遼東に至るおよそ4000kmにわたる防衛施設を建設し、匈奴などの北方騎馬遊牧民に対抗した。
始皇帝に登用された法家の李斯は、儒家が過去の時代を理想化して現代を批判し人々を惑わしていること、皇帝の出す法令に批判を加えその権威をあやうくしているという理由で、儒家の書物を焼き払い(焚書)、拒否する儒家は死刑にすることを提案、首都咸陽にいた儒者を生き埋めにした(坑儒)。
始皇帝の死の翌年、貧農出身である陳勝と呉広が秦の圧政に対して反乱を起こすと、たちまち反乱が中国全土に広がったが、内紛により瓦解、鎮圧された。しかしその後農民出身の劉邦や楚の王族であった項羽がそれに誘発されて挙兵し秦を滅亡へと追いやった。
農民階層から反乱が起きそれが帝国の崩壊に導くほどのものであったということは、春秋戦国時代において形成された王族や貴族階級に代わって農民層が台頭し始めたという社会的な変動を表している。この階級変動の象徴となる人物が、後に農民であったにも関わらず秦を滅亡させ皇帝の座に登りつめた「農民皇帝」劉邦である。
「国王や諸侯、将軍や丞相などと言っても、そのような人種が最初からいたわけではない」という意味で、身分や血統を否定して人間の平等を主張した言葉。陳勝呉広の乱の時に陳勝が農民らにこの言葉で呼びかけ農民たちに秦帝国の圧政に対する反乱を扇動するスローガンとなった。
「燕や雀のような小さな鳥には鴻鵠の志がわかるものか」という意。人に雇われて土地を耕す貧農時代に陳勝は一緒に働いていた男に「もし富農になってもおまえのことを忘れないぞ」と言ったが「貧農の身で何を言うんだ」と一蹴された際に述べた、陳勝の反骨精神を表す言葉。
農民階層であった劉邦は、陳勝呉広の乱に触発されて挙兵し秦帝国を滅亡に追いやると、その後高祖と称して帝位につき漢を建国した。
封建制と郡県制を併用した地方行政制度。皇帝自らの直轄地には郡県制をしいて官吏を派遣、それ以外の地域には自分の一族や功臣を配して諸侯王として封じ、その地域は国と呼んで世襲的に支配権を任せる封建制を復活した。
第6代景帝の即位後、中央政府は諸侯の封地を削減して皇帝の直轄地を拡大しようとしたため諸王は反発、呉や楚などの中国東南部の有力な七国が挙兵し内乱が起こった。当時の中国を二分する内乱となったが、反乱はわずか三ヶ月で鎮圧された。この機を境に中央政府は徐々に封建制を縮小し郡県制を拡大していき、氏族血縁社会が解体されていった。
郡県制を拡大して実質的な中央集権体制を実施、儒学を国学として採用、儒学者董仲舒の建言を取り入れて斬新な政策に着手、帝国の支配領域を最大にし広大な漢帝国を築きあげた。 司馬遷が初めて歴史を編纂した。
武帝は匈奴に対し衛青や霍去病(かくきょへい)を将軍とする遠征軍を送り匈奴を圧迫した。
武帝は匈奴を挟撃するため、張騫を中央アジアの大月氏国に派遣した。同盟は成らず、トルコ系遊牧民と考えられる烏孫と同盟を締結し帰国した。張騫の出張によって大月氏、大宛、烏孫などの西域の実体が判明し、武帝は西域に進出した。
董仲舒の建言。郡県制における郷や里から適正な人物を地方長官が中央に推薦(選挙)する登用制度。郷挙里選以前は、官吏は高官の子弟か富裕な者の子弟から登用されていたため、これを改めて優秀な人材の新規発掘を意図したが、結局、有力な豪族の子弟が多く推薦されてしまい、豪族が中央に進出するための格好の制度になってしまった。
後の魏では人材登用として郷挙里選を改めて九品中正法を始めた。
(SY comment)
「選挙」という用語の起源がここにあると思われる。
漢は当初、貨幣として秦の始皇帝が導入した半両銭を踏襲した。しかし貨幣不足から民間の鋳造や諸侯国にも貨幣の発行を認めるようになると経済が混乱したため、幾度の改鋳の後に、武帝の時代に五銖銭と呼ばれる新しい貨幣を用いた通貨制度を導入した。漢は当時度重なる外征による出費で困窮していた財政を、種々の増税や塩鉄酒の専売制、均輸法や平準法などの政策とともに建て直しを図るために通貨制度は安定させる必要があった。
BC113年には諸侯国での貨幣鋳造を禁止し五銖銭だけを正式の通貨とすることで、私銭の鋳造も行われなくなった。その結果、五銖銭は以後の中国の基本通貨となり、唐の高祖(李淵)が制定する開元通宝が導入されるまで使用され続けた。
中国の皇帝が周辺諸国の首長を冊封して、これに王・侯の爵位を授け、その国を外藩国として統属させる体制。(西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫版)
隋や唐の時代にも取り入れられ、その後の王朝でも何らかの形で踏襲された。
第十一代元帝の皇后の一族であった王莽は、次の成帝の外戚となって実権を握ると、哀帝の死後幼少の平帝を擁立するもすぐに毒殺、8年、皇帝となり新王朝を打ち立てた。
周王朝復古政策を唱える儒学者である劉歆(りゅうきん)を側近に採用し、五経を手本とし周王朝を模した政策を実現しようとした。
山東省一帯で飢饉が起こったのを機に各地で始まった農民反乱。彼らは王莽軍と戦うときに眉を赤く染めて(赤眉)目印とした。集結して大群となった反乱軍は、新の政治に不満を持つ豪族とも結びつき、長安を征服、王莽を自害させ新王朝は滅亡した。しかし、新王朝滅亡後は豪族は農民反乱軍の鎮圧に転じ、光武帝として漢を再興した劉秀の軍が27年に反乱軍を鎮圧した。
赤眉の乱を鎮圧した劉秀が光武帝を称して皇帝となり、漢を再興した。
倭人の奴国王が光武帝に朝貢して金印を授けられ、冊封体制に組み込まれた(『後漢書:東夷伝倭人条』)。
「太平道」という新興宗教を起こした張角は「蒼天(後漢王朝)すでに死す、黄天(太平道が信奉する神)まさに立つべし。」をスローガンに民衆を扇動、民衆は黄天を象徴する黄色の頭巾を巻いて大反乱を起こした。
後漢政府は当時「党錮の禁」で捕らえていた党人(宦官と対立していた官僚たち)を許し、党人と農民反乱が結束することを防いだ上で、豪族の協力を得て12月までに黄巾の乱を鎮定した。その後も散発的な反乱が続いて中央政府の威信はなくなり、各地の有力豪族が自立して、動乱の時代に入る契機となった。
後漢滅亡後、魏の曹丕が禅譲により皇帝となると、翌年蜀の劉備が、翌々年呉の孫権がそれぞれ帝位を宣言、三すくみの状態となった。263年魏が蜀を滅ぼすも265年に晋に帝位を奪われた。
もと後漢末の孫堅が台頭後孫権が長江流域の江南地方を制圧した。赤壁の戦いで蜀と結んで魏に勝利すると魏の曹丕から呉王に封じられた。222年独立し、229年建業で皇帝を称する。
呉の時代から江南開発が始まり都建業は後に歴代南朝の都として繁栄する。また領土はベトナム北部まで広がり、林邑や扶南から朝貢を受けた。
司馬炎(武帝)の晋との戦いで破れ、三国時代が終わる。
漢の劉氏の血を引くと主張し劉備が皇帝を称し長江上流の四川地方を制圧、蜀を建国した。劉備は国号を漢と自称していたため蜀漢とも呼ばれる。宰相の諸葛孔明が有名。劉備の死後は衰え、263年魏によって滅ぼされた。
後漢末の曹操が献帝を擁して実権を握り216年魏王となって華北一帯を制圧、魏を建国した。220年、曹操の子の曹丕が献帝から強制的禅譲により皇帝(文帝)となった。
流民に戦乱で荒廃した土地を与え、平時には耕作をさせて自給自足させ(兵戸)、辺境の防備(軍屯)に充てると同時に、戦時には兵士として徴兵する制度。漢代にも採用されたが、魏の時代には入植民は農具や牛が貸与されるかわりに収穫の半分以上を上納させるという小作方式(民屯)が採用され大規模に展開された。
中央官職を一品から九品までの等級(官品)に分類する一方、地方に中正という官吏を派遣し、地域管内の任官志望者にも同様の等級(郷品)をつけた。政府はその郷品を基準に任官を実施し、おおむね郷品より四等下がった官位に任命(起家)した。このとき、官吏は郷品を超える官品をもつ官職に出世できないという条件をつけた。ただし、中正は起家後の官吏の品行を絶えず監視し、必要があれば郷品を変更する義務をつけた。
九品中正法の官吏登用制度は後の西晋に受け継がれた。
(SY comment)
中正官の一存によって任官の待遇が決定されてしまうことから、汚職や賄賂が蔓延ることが容易に想像できる。無能な中正官が派遣された地域はさぞ不運であったことだろう。
家臣の司馬懿がクーデターを起こして以降司馬氏一族が実権を握り263年蜀を滅ぼした。
265年、魏の実権を掌握した司馬昭が蜀を滅ぼした後に病没し、その息子司馬炎が魏の皇帝から禅譲を受けて武帝と称し、280年呉を滅ぼして中国を統一した。
国家の上位官僚になった知識人や文人の家系がその地位を世襲的に独占する社会。世襲により一部の家系によって独占された政治を門閥貴族政治という。秦の郡県制や漢の軍国制によって解体された氏族血縁社会が九品中正法により形を変えて蘇ったとも言える。
南北朝時代には六朝文化の担い手となり、唐の時代には科挙制度が創始されるも蔭位の制がこしらえられることで門閥貴族は世襲による高位を維持したが、後梁の朱全忠が行う武断政治を境に徐々に門閥貴族は衰退していく。
魏から継承した九品中正法では、上品とされた人々には貧しい家の出身者(寒門)は無く、下品とされた人々には裕福な家の出身者(勢族)がおらず、上品者は豪族に独占されている、ということ。九品中正法の当初の目的は個人の才徳によって官吏を登用することにあったが、結局郷挙里選同様、地方の豪族が中央に進出して上級官僚の地位を独占、門閥貴族の制度に堕した。
後の王朝である隋では九品中正法に代わる人材登用制度として科挙が行われた。
(SY comment)
日本語における上品下品の起源はここにあると思われる。ところで近年日本の国立大学で筆記試験や実技試験とは異なる、面接などによる人物評価によって入学を認めようとする動きがあるようだが、「上品」ばかりが集まって格差が固定し腐敗した中国の人材登用制度の二の舞いになるからはっきり言ってやらない方がよい。2017年時点でも半数以上の東大生の親の平均年収が1000万円だというのだから(世帯平均は550万円)、すでに格差固定が始まりつつあると言える。アメリカでは少なくない大学で人物評価による入学を認めているにも関わらず凋落しない理由は、別に国内で優れた研究者を育てなくても世界中から優れた研究者が(好待遇を求めて)集まってくるから(仮に入ってくる学生の質が悪くても)問題ないのである。端的に言い換えると、質をあまり問うことなく学生を集めそれで貯まったお金を優秀な研究者を集めるために使う、という二段構えの方策をアメリカは採用している。日本ではこのやり方は機能しないだろう。
武帝没後子の恵帝が即位したが愚鈍であったため、皇后の賈后とその外戚が実権を握るもすぐに暗殺された。各地で諸王が兵を挙げて大混乱に陥るが、武帝(司馬炎)の時皇帝直属軍は縮小されていたため、政府や八王は軍事力として匈奴などの北方民族である五湖の力を兵力として利用しようとした。このことが北方民族の中央権力獲得のきっかけとなってしまい、北方民族が台頭して西晋滅亡の引き金となる永嘉の乱へとつながった。
はじめ西晋の成都王のもとに仕えていた遊牧民匈奴の族長劉淵は、304年に反乱を起こして独立し、さらにその子劉聡の軍が311年に洛陽を陥落させ西普を滅ぼした。
西晋が匈奴の侵入を受けて滅んだ後、司馬睿が江南で317年に晋を再建した。呉の建業(現在の南京)を、建康と改称して都とした。
魏晋南北朝時代に江南地方で都を建康においた六王朝=呉・東晋・宋・斉・梁・陳で発展した漢民族文化。華北が五胡に占領されたのに対し、江南地方では門閥貴族が皇帝の政治を支える門閥貴族社会を継続し漢文化を継承・発展させた。しかし南朝文化の発達すると北朝文化との解離が著しいものとなり、南北朝の文化の相違は後に中国を統一した隋や唐が科挙を全土で行う際の障害となり、両文化の相違を解消させる必要性が生まれた(➡『五経正義』)。
南朝では音韻の研究が進み四声が発見された。
四字と六字をもとにして対句表現を行う独特の文体。初めは漢詩に用いられていたが徐々に散文にも取り入れられ四声の発見と相まって韻を踏む詩文として盛んになった。この流行は唐代まで続いたが次第に形骸化すると韓愈などの古文復興運動が起こってくる。
人物 | 時期 | 説明 |
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顧愷之 (こがいし) |
東晋 | 中国史上最初の画家。「画聖」。代表作は『女史箴図』『洛神賦図』。 |
王羲之 (おうぎし) |
東晋 | 「書聖」。代表作は『蘭亭序』。楷書・行書・草書の書体を完成させた。 |
慧遠 (えおん) |
東晋 | 浄土教の始祖。道安の弟子になり仏教経典や戒律を学ぶ。阿弥陀仏像の前で念仏をとなえる修行を始め、その結社は白蓮社、その宗派は白蓮教と言われ、後に元滅亡の引き金となる紅巾の乱や清末に白蓮教徒の乱を起こす。 |
陶潜 (陶淵明) |
東晋から宋 | 田園詩人、隠遁詩人。代表作は『桃花源記』『帰去来の辞』。ユートピアを表す「桃源郷」の由来になった。 |
謝霊運 | 南宋 | 詩人。東晋に対する忠義心から宋の文帝を非難、反逆者として捕らえられ433年処刑された。 |
昭明太子 | 梁 | 代表作は、古来の名文を編纂した『文選』。日本にも伝えられ平安時代の文学に大きな影響を与えた。 |
五胡とは、「匈奴・鮮卑・羯・氐・羌」の五つを指し、これらの遊牧民が華北に16の国々を打ち立てた。
氐の苻健が長安を占領し前秦を建国し国の基礎を築くと第3代苻堅は華北を一時的に統一した。
華北統一を果たした苻堅はさらに中国全土を統一しようと江南の東晋に大軍を派遣し淝水(現安徽省寿県の南東)で激突したが敗れた。
南朝では中国固有の人文学的な文化が発達した一方で、北朝では仏教などの外来文化や技術に関する文化が発展した。
人物 | 時期 | 説明 |
---|---|---|
賈思勰 (かしきょう) |
北魏-東魏 | 古代中国の農業を集大成した中国最古の実用的農業技術書『斉民要術』を著す。後世にも印刷頒布され大きな影響を与えた。 |
酈道元 (れきどうげん) |
465~ - 527 | 地理書『水経』を著し、長江や黄河を中心に中国各地の河川について地形、産物、鉱物、風俗、歴史などを詳しく記述した。 |
仏図澄 (ブドチンガ) |
後趙 | 西域亀茲の生まれ。五胡の一つ羯が建国した後趙に招かれ洛陽で仏教を広め、華北における仏教の興隆をもたらした。仏図澄は自身で著述や経典の翻訳を行わなかったが、多数の門弟を輩出しその門下から道安が現れた。 |
道安 |
前秦 | 五胡の一つの氐が建国した前秦で捕虜となり長安に連行されるも、後に中国で最初の仏教教団を組織し、僧尼の戒律やダルマ(仏法)を起草した。その業績は弟子の慧遠に受け継がれた。 |
鳩摩羅什 (クマラジーヴァ) |
350 - 409~ | 西域亀茲の生まれで父はインド人。幼少時に仏教の中心地であったカシミールに遊学、大乗仏教に転向した。長安でナーガルジュナの『中論』をはじめ『法華経』『阿弥陀経』など多数の大乗仏典を漢訳した。 |
(SY comment)
南朝と北朝の文化の発展の相違は興味深い。
江南地方では420年東晋から宋に代わり、華北では439年北魏が統一を達成した。このころから中国は淮河を境として北の北方民族鮮卑が台頭し漢民族との融合が進められた地域と、南の漢民族の文化が維持された地域に二分された。その分裂時代から589年に隋が統一するまでの時代を南北朝時代という。(➡華北の詳細は鮮卑参照。)
南朝の最初の王朝。劉裕が東晋最後の恭皇帝から禅譲を受けて建国。しかし、皇帝一族の権力闘争が相次ぎ政情は不安定で、北魏の討伐に失敗して以降衰えはじめ、479年に皇帝順帝が軍人の蕭道成(しょうどうせい)に帝位を禅譲した。
太祖は道教を保護し廃仏を行うも、それ以後は仏教は保護されれ、雲崗や竜門などの石窟寺院が完成した。
479年に南朝の宋の部将であった蕭道成が宋の皇帝から禅譲を受け建国、蕭道成は即位して高帝と称した。しかし、独裁を行って暴君化、502年一族の蕭衍(しょうえん)によって倒された。
斉の皇帝の一族であった蕭衍が放伐(クーデター)により、梁を建国し武帝として即位。蕭衍は武人ではあったが文人としても知られ、貴族を優遇、法律の制定、儒学の奨励、学問の保護を行い、華北で北魏が東魏と西魏に分裂したことも相まって安定した政権運営がなされた。後世は仏教に帰依し自らを「三宝の奴」と称した。(聖徳太子が十七条憲法で「篤く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり」と制定し、その後の聖武天皇も自らを「三宝の奴」と称するなど武帝の善政は日本の為政者にも影響を与えた。)しかし、晩年は貴族文化や仏教保護によって出費がかさみ、その負担を農民に押し付けたため政情不安に陥っていった。
武帝は貴族文化や仏教保護による財政難を外征で回復しようと、北朝から投降した武将侯景を信任して北伐の軍を起こすも東魏の大軍に敗れ失敗、再び反乱軍となって建康を襲った。泰平の世を謳歌していた文弱な貴族らに侯景の軍を防ぐ手立てはなく、549年、城を包囲され武帝は餓死した。侯景は江南地方を略奪して回ったため、江南は荒廃した。
最終的に武帝の皇子の一人である蕭繹(しょうえき)が武人の陳覇先の力を借りて侯景軍を平定、江陵で即位して元帝を称した。しかし、実権は既に陳覇先に移っており、即位後間もなく禅譲を余儀なくされた。
(SY comment)
大陸において、反乱を鎮圧する際に外部勢力を利用した場合、しばしば実権が外部勢力に移ってしまう。これは中国において天下を支配し続けるためには(天下において)最強の軍事力を保ち続けることが必要であるという天下の支配には軍事力が不可欠であることを示唆している。
侯景の乱を鎮圧した陳覇先が梁の混乱に乗じて皇帝から強引に禅譲させ皇帝となった。第五代まで皇帝が続くも、五代目が貴妃とともに享楽に溺れ奸臣を重用したため国が傾き、589年隋の南下により滅亡した。
国家体制の基礎となる法典である律令を作り、すべて律令にもとづいて国家の行政組織や業務などを運営する中央集権体制。法家が理想とした法治主義による国家体制がここに実現した。
遊牧民である鮮卑出身であった楊堅が、漢人建国の南朝陳を滅ぼし、文帝として即位することにより始まる。隋は北魏発祥の均田制・租庸調制、西魏発祥の府兵制を継承、科挙を創始して官僚制度の基礎を作った。日本や朝鮮などの東アジア諸国にも大きな影響を与え、統一国家の形成に大きな役割を果たした。604年に第2代皇帝煬帝が即位するも暗殺され二代でその栄華が終わった。短命な王朝だったため歴史の編纂が行われなかった。
文帝(楊堅)が制定。
後漢期には郡県制の上に州が設置されて地方が統治されるようになっていた。魏晋南北朝になるとその数が増え300にも上るようになり、中央集権を円滑に行うための弊害となっていた。そこで隋は郡を廃止して州が直接県を管轄するように改めた。州と県の長官と次官は中央から派遣され、それ以下の官吏は現地で長官が任命した。
なお、唐も基本的にこの州県制を継承したが、唐はさらに全国の州を道に分けて州を管轄させる道州県制を行い、玄宗の時代にはその数は15にも及んだようである。
(SY comment)
このように土地制度がどんどん変更され複雑になっていく理由は、支配領土に変更があるからという直接的な理由以外にも、制度を様々に変えながら中央の人間を断続的に地方に送り込み、中央の影響力を維持・強化することが狙いにあるからと考えられる。(日本における、国家官僚の大学機関などへの「天下り」と似たような構図である。)地方の現状を知らない、高圧的な中央官吏が派遣された地域はさぞ災難であったことだろう。
魏発祥の九品中正法に代わる、科目試験を用いた初めての官吏登用制度。「科挙」とは「科目による選挙」を略したもの。
中国を再統一した文帝(楊堅)は、科挙により、九品中正法によって門閥貴族が上級官僚を独占してしまっていた硬直人事による弊害を改め、広く優秀な人材を登用することを目指した。清の時代1905年に廃止されるまで、すべての王朝に引き継がれた。
太祖文帝、第2代煬帝ともに大運河建設を行い、中国の経済的統一の基盤を作ったが、土木工事に借り出された農民は疲弊し民衆の離反につながった。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という国書により煬帝は激怒するも、高句麗遠征の計画上、日本の国書を受け入れ、日本と中国の間に正式な朝貢関係が結ばれた。
(SY comment)
聖徳太子は自国民には和を以って尊しとせよとか宣ってたという割には、中国皇帝には初手から煽っていく外交スタイルを展開。中国皇帝の立場からすれば、小島から来た得体のしれない奴がいきなり現れて「あなたの国は斜陽ですね、元気ですか?」とか謎もいいところだろう。激怒するのも当然で妹子は大陸でじゃがいもになる危険があったが、そうされずに済んだのは煬帝に仕える官吏の進言があったからだろう。
煬帝は三度にわたる朝鮮半島の高句麗遠征を行うも悉く失敗し、民衆が離反、内乱が起こり618年煬帝は親衛隊隊長に殺害された。
煬帝が暗殺された後、同じ鮮卑系で文帝(楊堅)に仕えていた李淵が、煬帝の孫の恭帝から禅譲によって皇帝となり高祖を称して唐を建国した。
漢の武帝が発行した五銖銭以来の貨幣である開元通宝を発行した。
初代高祖(李淵)が制定。隋の開皇律令を基に作られたと言われる。第二代太宗によって律令を補間する格式が加えられた。
三省とは、政治の中枢で皇帝に直属する中書省・門下省・尚書省の三機関をいう。国家の最高意志である皇帝の詔勅が、中書省で起案され、門下省が審議し、尚書省で執行、それらの活動を御史台で監視した。起案、審議、執行を分離して官吏が手続きすることにより皇帝の独裁を抑える役割を果たす。基本的には明、清にも継承された。
六部とは三省の一つの尚書省の管轄下にある六つの行政機関。吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の六部門からなる。六部の分担は隋代にほぼできあがり、その体制はその後の中国の中央行政機関として維持されたが、元代には中書省の管轄に移され、明代には皇帝直属となり、清にも継承された。
管署名 | 役割 | 日本における相当機関 | 三省 | 皇帝の意思(詔勅)を法案化する。 | 立法・行政府 |
---|---|---|
中書省 | 皇帝と相談の上で吟味された上書、もしくは皇帝の独自の意思を基に法案の文章を作る。定員は二名。 | 衆議院 |
門下省 | 法案を審査し、内容次第で中書省へ差し戻す。定員は二名。 | 参議院 |
尚書省 | 門下省の審査を通った法案の執行を司る。六部を統括する。次官は二名。 | 行政府(内閣府) |
御史台 | 官吏の行動を監視し、皇帝の意思に反する官吏の糾察、弾劾を行う。 | |
六部 | 尚書省に帰属し、法案を実行に移す。 | 省庁 |
吏部 | 官吏の選任。当初は科挙も担当していたが後に礼部に移され、吏部は科挙合格者を対象に行う試験を実施した。 | 人事院 |
戸部 | 戸籍及び財政事務を管轄。 | 財務省 |
礼部 | 礼制、教育、外交に関する事務を司る。後に科挙が吏部から管轄が移された。 | 外務省、文部科学省 |
兵部 | 軍事を担当。全国の折衝府を管轄。 | 防衛省・自衛隊 |
刑部 | 司法、警察を担当。 | 法務省、警視庁 |
工部 | 土木事業、公共工事を管轄。 | 国土交通省、農林水産省 |
(SY comment)
皇帝が頂上に君臨した統治機構であるため、三権分立にはなっていないし実際それは必要ない。三権分立は、皇帝位に頼らない、頂上を持たない社会において、バランスの取れた統治機構を考える上で産み出されたアイデアだと思われる。ちなみに、日本の残りの省は、経済産業省、総務省、環境省、厚生労働省の1府11省である。
御史台はさしずめ中国における王の目・王の耳といったところで、後漢の頃から存在していたようである。
父祖の官位によって子の最初の官位が決まる制度。門閥貴族に対する優遇措置。五品以上の高官の子孫は自動的に官吏に登用され任子と呼ばれた。唐代前期の高級官僚は蔭位の制によって任官した任子が多かった。
唐代の科挙では進士科の試験で詩の創作が課せられていたことから詩の文化が大きく発展した。唐詩の時代は次の4つに区分けされる。
① 初唐(618-712): 唐成立から太宗の貞観の治を経て武周革命の時代まで
② 盛唐(713-765): 玄宗の開元元年から安史の乱終了まで
③ 中唐(765-826): 安史の乱終了後から敬宗の治政まで
④ 晩唐(827-907): 文宗の治政から唐の滅亡まで
人物 | 時代区分 | 解説 |
---|---|---|
王維 | 盛唐 | 詩人兼画家。「山水画」に新境地を開き、後に南宗画(南画)の祖とされる。代表作は、『渭城曲』。 |
李白 | 盛唐 | 「詩仙」。代表作は、詩文集『李太白集』。 |
杜甫 | 盛唐 | 「詩聖」。代表作は「国破れて山河あり...」に始まる『春望』。安史の乱で荒廃した長安を詠んだ。 |
白居易(白楽天) | 中唐 | 代表作は安史の乱を背景とした玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌った『長恨歌』。 |
韓愈(韓退之) | 中唐 | 四六駢儷体の形骸化を批判し古文復興運動を実施、後に唐宋八大家の一人とされる。仏教や道教の空論を激しく否定して、儒学の復興に努めた。 |
柳宗元 | 中唐 | 韓愈とともに質実な漢・魏の古文を復興させる運動の中心人物のひとりとなった |
第二子の李世民は父親である高祖李淵を強制的に退位させ幽閉した事件。その後さらに兄と弟を殺害して皇帝として即位し太宗を称した。
仏典を求めて陸路を通じてインドに向けて出発、ヴァルダナ朝のハルシャ王の時代に到着しナーランダー僧院で5年間仏典の研究を行った。その後多くの仏典を背負って中央アジア経由で645年に長安に戻り仏典を漢訳、その翻訳書は「新訳」と言われそれ以前の鳩摩羅什らの「旧訳」に代わって広く用いられるようになった。
玄奘の旅行の詳細を弟子たちが『大唐西域記』にまとめ、元の時代にそれを種本にして呉承恩が『西遊記』を著した。
太宗(李世民)が東突厥を攻撃し服属させた際、鉄勒諸族(トルコ系民族の総称)は遊牧民の最高君主の称号である「天可汗(テングリカガン)」を太宗(李世民)に与えた。これは唐の太宗が漢民族だけでなく北方遊牧民を含めて支配したという、世界帝国の皇帝としての称号を意味する。
唐は征服した北方民族地域に中央から派遣された官吏が長官となる都護府を設置し、異民族の族長がそれに従属する形で地域を統括する体制。
唐中期以降は、府兵制の崩壊に伴い都護府は有名無実化し、辺境の防備は節度使(藩鎮)が行うようになる。
太宗の子である高宗が第三代皇帝となった際に制定した律令。このときに律の官選注釈書である『律疎』と、儒家の基本文献である五経の注釈書『五経正義』が完成した。
漢代以来儒学の基本文献である五経には様々な注釈書が作られてきたが、特に南北朝時代における政治的対立によって五経の解釈の差異は南北で著しいものとなっていた。太宗(李世民)は南北における五経の解釈の混乱を解消して五経を用いた科挙試験の公正を保つために、儒学者の孔穎達と顔師古らに命じて基準となる注釈を選定させた。高宗の時代の653年『五経正義』として完成し頒布、毎年の科挙の明経科の試験における解釈の基準になった。
なお、太宗(李世民)は五経の本文自体にも様々な誤伝が生じてきていたため、633年顔師古に命じて国定の五経テキストを編纂させ『新定五経』として天下に頒布していた。
(SY comment)
高校時代世界史で『五経正義』が出てきた際に自分は「正義」を公正に関する正義(justice)だと誤解していて「大層仰々しい名前だな」と感じたことを思い出した。上記の説明を踏まえれば題意は「五経の正しい意味・解釈」であることは明らかで至極まっとうな題名である。
西は西突厥を658年に滅ぼすと、朝鮮半島にも進出し660年に百済、669年に高句麗を滅ぼす。南はベトナムに進出、安南都護府を設置した。
則天武后は655年唐の病弱な高宗の皇后となると、徐々に実権を握って皇帝を傀儡化、高宗の死後、実子らを相次いで廃帝にした。690年聖神皇帝と称して即位、国号を周(武周)に改め都を洛陽に定め神都と改称した。中国史上、唯一の女帝である。
唐王室である李一族などの北朝以来の貴族勢力を排除、進士科の中心試験科目に詩賦を置くなど科挙による官吏登用制度を整備した。また仏教を保護した。
則天武后が背後の簾の中から皇帝に指示を出して行った傀儡政治のこと。
唐の律令を参考に編纂された律と令をもつ日本最古の法典。718年には藤原不比等らによって養老律令がつくられた。
則天武后が死去して中宗が唐を復興したが、今度は中宗の皇后である韋后が実権を握ろうと画策、710年に娘である安楽公主と共謀して中宗を毒殺した。武后と韋后二代続いて皇后が実権を握って政治が混乱した出来事を武韋の禍という。
中宗が毒殺されたその年のうちに中宗の兄の子の隆基(玄宗)が韋后と安楽公主らを殺害して父の睿宗を復位させ武韋の禍による混乱を収束させることに成功、開元律令を制定し安定した政治を行った。
しかし晩年は楊貴妃に耽溺してしまいその結果楊貴妃の一族である楊国忠に実権を握られ、それに反発した節度使安禄山らが安史の乱を起こす。
高句麗出身の河西節度使高仙芝がタシュケントの王を捕虜として虐待すると、脱走した王子がアッバース朝の応援を要請、それに応えたイスラム教徒軍が唐軍を攻撃した。一部の現地のトルコ系部隊がアッバース軍に内通したため総崩れとなり、生還者わずか数千という敗北を喫した。この戦いによって製紙法が唐軍の捕虜によってアラビア人に伝授され東西アジアの技術交流につながった。唐の西域進出が停止されると同時に、中央アジアのイスラム化が始まった。
(SY comment)
ウイグル地区ではイスラムテロのニュースが多かったイメージがあったが、実際ウイグル地区ではムスリムが多いようである(→[参考リンク])。このことの起源には、751年にタラス河畔の戦いでイスラム軍が勝利したことにあるのかもしれない。
北京生まれのソグド人であった節度使安禄山が玄宗皇帝の寵愛を受けた楊貴妃の一族と対立し反乱を起こした。反乱軍は一時長安を陥れ唐は滅亡寸前となったが、内紛で安禄山が殺され、その後史思明が反乱を指揮するも、唐がウイグルから支援を受け立ち回り763年反乱を鎮圧した。
875年黄河下流でイナゴが大発生し農民反乱が勃発。加えて塩の密売人の王仙芝と黄巣が唐政府による密売摘発強化に反発して反乱に合流、反乱を指揮した。880年に長安を陥れ黄巣は皇帝の位につき国号を大斉と称した。唐の皇帝はトルコ系北方民族に援軍を求め、独眼竜と言われた勇猛な李克用が長安を攻撃すると、反乱軍の部将であった朱全忠が唐軍に投降、李克用とともに黄巣の軍を攻撃に回ると、黄巣率いる反乱軍は長安を追われた。結果、長安は荒廃して唐文化の繁栄は失われた。
遣隋使に引き続き630年以来日本は遣唐使を派遣、吉備真備や玄昉などが唐の漢文化を日本に持ち帰り天平文化を開花させた。しかし黄巣の乱で唐が衰退すると菅原道真の建言により遣唐使は廃止された。
唐が滅亡すると各地の節度使が独立し建国を始めた。朱全忠が後梁を建国してから宋が中国を統一するまでの分裂時代を五代十国時代という。五代とは、この群雄割拠の時代に華北に現れた後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五王朝のことで十国とはその他の地域に興亡した、呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢の十王朝をいう。
黄巣の乱を鎮圧して節度使となった漢民族の朱全忠が907年に唐に代わって後梁を建国。しかし、李克用など対抗勢力も多く政治は不安定であった。最終的に朱全忠は自身の子に殺されることで後梁は瓦解した。
武力を背景に行う強権的な政治。朱全忠は全権を握ると、唐の宮廷でのさばっていた宦官を処刑し、貴族勢力を権力中枢に関わらせないよう長安から開封へ遷都した。貴族勢力が一掃されたことにより、これまで続いてきた門閥貴族政治が終焉を迎え、宋代以降の皇帝専制政治の先駆けとなった。
李克用の子である突厥出身の李存勗(りそんきょく)が後梁を滅ぼし建国。しかし間もなく契丹の援助を受けた、臣下である突厥出身の石敬瑭(せきけいとう)に滅ぼされる。
後唐の臣下であった突厥出身の石敬瑭(せきけいとう)が、契丹の援助を受けて後唐を滅ぼして建国。その際、見返りとして契丹に燕雲十六州を割譲し年ごとに金と絹布の贈与を約束したが、第二代皇帝がその約束を守らなかったので、契丹の太宗に都開封を攻撃され後晋は滅びた。
遼(契丹)の太宗が後晋を滅ぼし中国を支配したが、遼(契丹)には租税徴収制度がなく漢民族から略奪を繰り返すのみで反発が強くなった。そうして遼が北方に引き上げたすきに、後晋の節度使であった突厥出身の劉知遠が後漢を建国した。
後漢の節度使である漢民族出身の郭威が建国。第二代世宗は仏教の弾圧(廃仏)や財政改革を行い、契丹を破って燕雲十六州の一部を回復させ善政を行ったが960年に病死。その実子が帝位に就くも幼帝に不安を感じた軍部が人望の篤かった武将の趙匡胤に禅譲させることで後周は滅びた。
漢民族出身と言われる趙匡胤が強制的禅譲によって宋を建国。趙匡胤の死後、その弟である趙匡義が第二代太宗として君臨し、979年五代の争乱を終わらせ中国を再統一した。
(SY comment)
趙匡胤は実は漢民族出身ではなく実際には遊牧民出身であった、という『宋史』に基づいた岡田『歴史とはなにか』の指摘がある。
太祖(趙匡胤)は、皇帝の独裁権力を維持したまま、武力を背景に政治を強権的に推し進める武断政治から 科挙で選抜した文人による官僚制国家体制へと切り替えた。特に、詔勅の審議機関である門下省は中書省に吸収され、皇帝の意向が反映されやすくなった。
貴族合議制から文治主義への転換によって皇帝権力の集中が進み、国家体制を支える多数の官僚に対する俸給は国家財政を圧迫するようになった。また藩鎮(節度使)勢力を削減したため、周辺の異民族である契丹・西夏(大夏)・高麗・大理、そして日本(鎌倉幕府)などが自立することとなった。
太祖(趙匡胤)は節度使の軍事力と政治権力の解体を目指し、軍事力を一本化するため皇帝直属の禁軍を編成、それを文官によって構成される枢密院に管轄させた。(枢密院自体は唐に起源をもつ。)
(SY comment)
文民統制(civilian control)の先駆けと言える。
973年の省試で不正事件が発覚し太祖趙匡胤自らが最終試験を出題して省試をやり直したことがきっかけで始まり975年から殿試(殿による試験)として制度化された。皇帝に対する官僚の忠義心と皇帝権力の強化につながった。
武断政治によって貴族勢力が中央官職から排除されると門閥貴族は徐々に没落して宋代では門閥貴族社会が終焉し、代わって士大夫と呼ばれる平民階級出身の支配者層や商工業者が活躍し始めた。
首都の開封を始めとする江南地方は商業流通の中心として繁栄し、地方には商業都市として草市や鎮(陶磁器の産地の景徳鎮が有名)が生まれ、商・工業者はそれぞれ行・作という同業者組合を結成した。
この時代にルネサンス三大発明と言われる火薬・羅針盤・活字印刷が開発され、その名の通りその後の世界の趨勢に大きな影響を与えた。
(SY comment)
三大発明の影響の大きさは帰納法の提唱者であるイギリスのFrancis Baconをして「いかなる帝国も、宗派も星も、これら(印刷術、火薬、羅針盤)の変化ほどの大きな力と影響を人類に及ぼしたものはない」と言わしめた程であった。
その発言から、技術や生活だけでなく思想にも大きな影響を与えたことが窺い知れる。これらの大発明が門閥貴族社会ではなく一般市民の活躍する社会で産み出されたという歴史的事実は、私からすれば自然なことであり、為政者は肝に銘じてよいだろう。
宋代において平民から台頭した支配者階層。主に、①科挙に合格した上級官僚、②小作人(佃戸)を用いて大土地経営を行った形勢戸、③儒教的教養を身につけた読書人からなる。
文字を一個ずつ印形にして組み合わせる印刷術で、11世紀の半ば、畢昇(ひっしょう)という工人が発明したといわれている。13世紀はじめには朝鮮(高麗)で金属(銅)活字が使用されるようになる。
活字印刷術の発明により紙幣の発行が可能となり、世界最古の紙幣として知られる交子の発行が行われ、商工業の発達による銅銭不足を補った。
当時中国商人はジャンク船と呼ばれる外洋用の大型船を操縦してインド洋に進出し、ダウ船を操り中国にも来航していたムスリム商人と競合していたが、タラス河畔の戦いにおける製紙法が伝播した時とは異なり活字印刷術はすぐにはムスリム商人には伝わらなかった。その理由は偶像崇拝を禁止するムスリムにとってコーランを印刷することは神を冒涜することと思われていたかららしい。(➡ [リンク])
(SY comment)
その一方、ヨーロッパにおいて印刷術はキリスト教、特にルネサンス期の宗教改革において大きな役割を果たした。ヨーロッパでは活版印刷術がドイツのグーテンベルクによって発明されたと言われ、ルネサンス期の三大発明の一つとして知られている。この技術を使って新約聖書の印刷が可能となり、それまで聖職者によって独占されていたラテン語のテキストがドイツ語に翻訳され大衆に普及した。また後に宗教改革を起こすルターも自分の著作を印刷することで自らの主張を民衆に広く伝えることが可能になった。
商工業の発達から銅銭(宋銭)の不足が発生し、銅銭と引き替えることの出来る交換手形が商人の間で流通、1023年北宋政府がそれを公的に承認し、交子(南宋では会子)と呼ばれた。
中国において磁石は古くは後漢では占いの道具として使われ、六朝時代には指南魚という方位磁針の原型が作られていた。宋時代ジャンク船に搭載され中国商人の「海の道」での活躍をもたらした。それがムスリム商人、さらにはヨーロッパに伝わるとピボットの上に乗せられた羅針盤としてヨーロッパ人に実用化され、1492年のコロンブスに始まる大航海時代の遠洋航海を可能にした。
4世紀前半、神仙術家によってさまざまな物質を混合させると化学変化が起きることが知られており不老不死の研究などが行われていたが、7世紀ごろにそれらの知識が硝石・硫黄・木炭を混ぜることで黒色火薬が発明されていた。宋代において遼や西夏など異民族との度重なる争いから生じる軍事技術改良の要請から火薬兵器が発明された。
(SY comment)
占いや錬金術のような、現代的には眉唾とされる営みがこのような実用的技術に発展したという歴史は興味深い。狩りの吉兆を占う甲骨文字もやがて漢字へと発展していった。中世ヨーロッパにおける占星術や錬金術がのちに化学や天文学へと純化され切り離されていった自然科学の歴史が思い起こされる。不思議な現象を見つけたら何か意味があるのではないか?何かに使えるのではないか?と人が問うことは自然であり、人のもつ普遍的な好奇心の表れと言える。これら呪術的営みの歴史的意義を軽んじるべきではないだろう。
1004年に遼(契丹)の聖宗は大軍を侵攻させ首都開封に迫ると、宋の真宗皇帝は遼との和平交渉を行い、両国の間で以下の講和条約が結ばれた。
西夏の李元昊の侵攻に悩まされて取った宋の和平策。これにより李元昊は宋の形式的な臣下となったが、宋は西夏に毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を与えた。
遼を侵攻する際に同盟を結んだはずの宋が遼を攻撃しなかったことに腹を立てた金は翌1125年、大軍を南下させ宋の都開封を包囲した。多額の金銀の支払いと領土の割譲を宋側が約束すると金軍はいったん引き上げた。 しかし宋はその約束も守らなかったので、翌年金に再び開封を攻撃され、上皇、皇帝を含む三千人が捕らえられると同時に金銀財宝も略奪され宋は滅亡した。
靖康の変を逃れた前皇帝の息子高宗は1138年臨安(抗州)に入り宋を再建した。
華北一体を支配する金に対して、和平を主張する秦檜と交戦を説く岳飛の二陣営が対立した。秦檜は靖康の変で金に捕らわれた後逃げ出し高宗の下で宰相になった。そのため金の内情に詳しく、高宗に和平を説く一方、岳飛を無実の罪で投獄し処刑した。1142年、そして高宗は金に対し、多額の銀と絹の貢納と金皇帝に臣礼をとることで、淮河を国境とする和平を実現、二皇帝が共存する状態となった。
現台湾
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
岡田英弘 | 『歴史とはなにか』 文春新書 |
教材工房 | 『世界史の窓』 |
実教出版 | 『世界史B』 |
(SY comment)
血縁氏族社会の一つの究極型はインドのカースト制社会と考えられる。出自により身分が固定されやすく階層間での競争が排除され社会は一定の安定を獲得する反面、競争を排除するため腐敗が起こりやすくなり下層の人々の不満が鬱積しやすくそれが爆発する危険を伴う。秦を滅亡に追いやった陳勝呉広の乱が一つの例と言える。