重力は物質間に働く力の中でおそらく人類が最初に認識した力であるにも関わらず、ミクロの世界でも通用する理論的枠組みは未だに完成していない。現在のところ最も信頼されている重力理論はアインシュタインの一般相対性理論であるが、これにミクロの世界を支配する量子論の原理を適用すると、いろいろな物理量の理論的な計算に発散が生じてしまうことが知られている。特に、宇宙誕生の瞬間や、ブラックホール内部の特異点など、重力が極端に強い場合には量子重力理論の正しい理解なしには物理を語ることはできない。こうした問題を解決し、矛盾のない量子重力理論を構築することは、現在の理論物理学の最大の問題の1つである。
現在のところ、量子重力理論として最も有望視されている理論は弦理論と呼ばれる理論である。この理論は世の中に存在するあらゆる素粒子が点粒子ではなく紐状をしているという仮説に基づく理論である。弦理論には自然に重力が含まれており、摂動論的な計算において量子論的効果を取り入れても発散を生じないことが示されている。そればかりではなく、重力以外の基本的な力(電磁気力、弱い力、強い力)を統一する大統一理論をも自然に再現する可能性があることが1980年代に明らかになり、究極の統一理論の候補とも言われている。
弦理論の研究対象は1990年代の半ばから始まった弦理論の第二革命と呼ばれる革命的な大発展を経て飛躍的に広がった。特に、弦理論と場の量子論の間に非常に密接な関係があることが見出され、弦理論を利用して場の量子論の問題を解明する研究や、場の量子論の知識を利用して弦理論の解析する研究が盛んに行われるようになった。(後述の「ゲージ重力対応」もそうした研究から見出された。)この流れは現在でも続いており、場の量子論における双対性、超対称理論の数理的構造、強結合ゲージ理論の閉じ込めの問題などに弦理論が利用されたり、場の量子論の解析が弦理論におけるブラックホールの性質の解明に用いられるなど、多様な研究が行われている。
弦理論が正しい量子重力理論であるならば、ブラックホールの量子論的効果についての知見も得られるはずである。ブラックホールは量子論的効果によって光や物質などを放出し、やがては消滅してしまうことが予想されている。このとき、ブラックホールの内部に入った情報が喪失してしまい、量子論の基本的な原理であるユニタリ性を破るように見えるという問題が1970年代にホーキングによって指摘され、未だに論争となっている。弦理論の枠内でブラックホールを考えるとブラックホールのエントロピーの起源を与える微視的な自由度を同定することができる場合があり、それを用いてブラックホールの情報喪失問題を解決する試みなどがなされている。
現在のところ、弦理論の定式化は摂動論的な形でしか与えられていない。非摂動論的な性質も双対性や場の量子論との対応を手掛かりに、非常に多くのことが分かってきてはいるものの、理論の完全な定式化は未だ完成されていない。これに対するアプローチとしては行列模型や弦の場の理論を用いた定式化などがあり、盛んに研究されている。さらに最近では、ゲージ重力対応に基づき、ゲージ理論を用いて弦理論や量子重力理論を定式化するアイティアも議論されているが、これについては「ゲージ重力対応」の項目を参照されたい。
もちろん、自然界を記述する究極の理論が弦理論であると確定した訳ではない。弦理論とは異なるアプローチで量子重力理論の構築を目指す研究も脈々と行われている。また、超重力理論や余剰次元を用いた素粒子模型など、素粒子の現象論的研究も重力の物理に対して重要な知見を与えるものと期待される。ここで挙げた研究に限らず、自由な発想で既存の理論の枠を超えた新しい理論を探求することが求められている。
ゲージ重力対応とは、「重力の理論が、重力相互作用を含まない物質の理論(ゲージ理論など)と理論として等価になってしまう」という現象であり、超弦理論の考察から1997 年にマルダセナによって見出された。例えば理論物理学の分野として、宇宙のダイナミクスを記述する一般相対性理論と、素粒子や量子凝縮系を記述する量子多体系の理論は全く別々なものとしてこれまで扱われてきているが、ゲージ重力対応が成り立つ場合においては、両者は等価な理論となってしまう。このように、ゲージ重力対応は、これまでの理論物理学の考え方を大きく変える可能性のある新しい枠組みとなりえると期待されている。
ミクロな重力の理論(量子重力理論)を明らかにすることは、宇宙の誕生を理解する上でも必要不可欠であり、理論物理学において現在まで残されている難問の一つである。しかしゲージ重力対応を用いると、非常に難解な重力の量子論を何らかの量子物質の理論に置き換えることができ、より簡単な問題に結び付けることができるのである。このような理由でゲージ重力対応は量子重力理論の問題を解決する強力な手法と期待され、この手法の推進が本研究部門の研究テーマの一つである。
この目的のためには、ゲージ重力対応の基礎原理を深く理解する必要がある。発見から20年近く経過してきており、ゲージ重力対応が正しいことを検証した膨大な数の論文が出版されてきた。しかし、なぜこの対応が生じるのか?という基礎的理解は不十分であり、現在でもある意味ブラックボックスのような状況である。しかしながら、最近になってこの重要な問題に糸口が開けてきた。その鍵の一つとして注目されるのは量子エンタングルメントと呼ばれる古典力学には存在せず、量子論になってはじめて現れる現象である。量子エンタングルメントは、量子情報理論における量子操作のリソースの量に相当し、また近年では量子凝縮系の情報量を表す秩序パラメーターとしても活用されている。ゲージ重力対応をこの手法を用いて解析することにより、量子物質の理論(ゲージ理論)が持つ量子エンタングルメントの構造が、重力理論が表す宇宙の幾何学に対応するという予想が得られるようになった。そこで、この予想を実際のゲージ重力対応で具体的に実現することが重要な課題となるが、そのためには重力理論、場の量子論、そして量子情報理論の手法をうまく融合することが必要となる。
またゲージ重力対応を逆に利用して、様々な量子物質の解析に応用することも本研究部門のテーマの一つである。ゲージ重力対応において、重力の理論として一般相対性理論を考えると、対応する量子物質は、例えばQCDのように相互作用がとても強い理論となる。一般に相互作用が強いと量子論に基づく解析が難しくなるが、ゲージ重力対応を用いると例えばブラックホールのような時空における古典論的問題に置き換えることができるので強力な計算手法となる。このようにしてゲージ重力対応を原子核・ハドロン物理、物性物理、非平衡物理などの解析に応用することができ、そのさらなる推進は理論物理学全体の発展につながる重要なテーマである。 以上のように本研究部門では、理論物理学における広範囲にわたる分野の知識を融合させて、ゲージ重力対応の基礎原理の解明と応用の開拓をめざす。様々な分野の優秀な理論物理学研究者が揃う基礎物理学研究所の強みを生かし、日本におけるゲージ重力対応の研究の中心軸となることを目的としている。
2015年にアメリカの重力波望遠鏡であるadvanced LIGOが、連星ブラックホールからの重力波の初観測に成功した。日本でも、独自の検出器KAGRAが2018年頃から本格稼動開始予定である。これらの重力波望遠鏡が予定感度で観測を始めれば、ブラックホールや中性子星からなる連星の合体が、年間10~1000イベント観測されるようになり、重力波天文学・重力波物理学が新しい学問として創生される。そして、重力波の初の直接検出のみならず、これまで知ることができなかったブラックホール誕生の瞬間のような一般相対論的動的現象の解明が進むと考えられる。さらに、重力波望遠鏡は、高エネルギー天文学にも大きなインパクトを与えると期待される。仮に近傍で超新星爆発やガンマ線バーストが起これば、それらに付随する重力波が検出され、未だにメカニズムが解明されていないこれらの爆発現象の理解に大きなヒントが得られると予想されるからである。特に、未だに起源が明らかではないγ線バーストの正体が解明されることが強く期待されている。さらに、強い重力場中での一般相対論の検証という物理の基礎を検証するという役割も担うものである。
重力波観測においては、検出器の開発研究だけではなく、理論研究とデータ解析研究が重要な役割を果たす。言うまでもなく、あらゆる観測・実験研究がこれらを必要とするが、重力波観測には独特の側面がある。それは期待される重力波信号の振幅が、検出器雑音の高々10倍程度であり、雑音の中から重力波信号を確実に取り出すためにはあらかじめ精度の高い理論波形を予測することが不可欠なこと、理論波形を有効活用することにより検出効率を可能な限り高くするようなデータ解析手法の開発が不可欠なこと、である。さらには、取り出した信号から物理的情報を引き出さなくてはならない。これには、各々の重力波源に適したデータ解析法が必要になり、新しい手法の探求が急務となっている。
さらには、重力波以外の宇宙観測手段による同時観測などの協働的な研究も欠かせない。なぜならば、重力波源に対応する天体を電磁波(あるいはニュートリノ)を用いて観測できれば、重力波の検出を確信する上で飛躍的に信頼度が増すからである。さらには、重力波源の正体解明というメリットまである。対応天体を観測するには、なによりもまず、理論的に予想される信号を明らかにする必要がある。さらにその情報を観測者へと発信して行き、必要となる装置の開発および観測計画の立案を促す必要がある。
以上まとめると、重力波観測が実現すれば、新たな天文学・物理学が始まることは間違いないが、その確立のためには、重力波実験研究者、データ解析研究者、天文観測研究者、および理論研究者の協働は不可欠である。来たる重力波検出装置の稼動後、KAGRAを中心とした日本の研究者集団から重要な成果を発信していくためには、これらの研究者の連携強化が必要不可欠な課題となっている。本研究部門は、このような課題に対して理論物理学者集団として貢献し、日本において中心的役割を担うことを目的としている。
宇宙論は、宇宙背景輻射や銀河・銀河団の統計、超新星の観測等の膨大な観測データを背景に、飛躍的に発展してきた。今や、宇宙を記述するパラメータの多くはかなりの精度で決まった、少なくとも決まりつつあると言える。しかし、それらのパラメータの値が何を意味するのかは明らかでない。実際、現在の宇宙の殆どを占めていると考えられている、ダークエネルギーとダークマターの正体を私たちは知らない。また、宇宙がこれだけ大きいのは何故か?その大部分を説明すると考えられているのがインフレーションであるが、その源となる真空のエネルギーが何によるものかも分かっていない。豊富な精密観測データを誇る宇宙論の前には、ダークエネルギー・ダークマター・インフレーションという、3つの大きな謎が立ちはだかっているのである。他にも、初期特異点、宇宙磁場の起源等、宇宙には多くの謎が残されている。私たちの宇宙を理解するためには、一般相対性理論、統計物理学、素粒子物理学、超弦理論など、あらゆる手段を用いてこれらの謎に挑戦し続けなければならない。
宇宙では、様々なスケールの物理現象が互いに影響を及ぼしながら絶えず起こっている。そして、最大スケールの物理すなわち宇宙論は、最小スケールの物理と密接に繋がっている。生まれたばかりの宇宙は超高エネルギーの極限的状態にあるため、ミクロの物理が本質的になるからである。特に、宇宙創世のような重力と量子効果の両方が本質的となる状況では、重力現象を記述する一般相対性理論も、素粒子の世界を記述する場の量子論も破綻してしまう。したがって、宇宙創生を論ずるには、この理論的破綻を回避して重力と量子論とを調和させる、量子重力理論が必要になる。私たちは、宇宙の謎のいくつかを解くヒントを、量子重力理論が与えてくれると期待している。量子重力理論に基づく宇宙論は、私たちの宇宙を理解する上で重要な役割を果たすはずである。
現代の理論物理学と宇宙論における最難問の一つである宇宙項問題には、2つの側面がある。第一は、「何故小さいのか?」という問題である。観測からの宇宙項に対する上限値は、量子論的にナイーブに予想される値に比べて、約10^(-120)と非常に小さい。現時点で、このような小さな値を自然に説明できる理論はない。そのため、研究者の間で、人間原理に頼ってしまおうという傾向が見受けられる。しかし、それは早計かもしれない。基本原理によって宇宙項問題を解決できる理論が見つかれば、人間原理による解決などすぐに忘れ去られてしまうであろう。難問への挑戦は、諦めるべきではない。
宇宙項問題の第二の側面は、「何故ゼロでないなのか?」そして「何故今この値なのか?」という問題である。これは、宇宙の3大謎の1つ、ダークエネルギーの謎そのものである。ダークエネルギーは、現在の宇宙の7割以上を占めていると考えられているにも関わらず、私たちはその正体を知らない。この状況は、宇宙規模の長距離・長時間における重力に、新しい物理を紐解くヒントが隠されているかもしれないと予感させる。なぜなら、ダークエネルギーの"証拠"は長距離・長時間での重力の振る舞いから得られており、しかしそのような長距離・長時間での重力の性質が直接検証されたことはないからである。19世紀に水星の近日点移動が発見された時、人々は見えない惑星、言わばダークプラネット、を導入して説明しようとした。発見したと主張した人もいたが、実際の答えはダークプラネットではなく、"重力理論を変える"ということであった。つまり、"ニュートン力学から一般相対論へ"重力理論の新しい幕開けである。この歴史的事実を鑑みれば、少なからぬ研究者が、「宇宙の加速膨張の謎も、もしかすると同じかもしれない」つまり「ダークエネルギーを導入する代わりに、一般相対論を拡張し、その振る舞いを長距離または長時間で変更することはできないだろうか?」と考えるのも不思議ではない。ただし、言うまでもなく、最終的に判定を下すのは、観測・実験データである。ダークエネルギーか拡張重力か?その答えを得るためには、理論的綻びや観測的矛盾のない拡張重力理論を構築し、検証可能な予言を引き出す必要がある。
原子や分子、光などミクロな世界は量子論という物理理論により記述される。この量子論は、負の確率振幅による重ね合わせやエンタングルメント等、我々が普段生活しているマクロな世界の常識からすると非常に奇妙な現象が数多く現れることで知られており、アインシュタインやシュレディンガー、ハイゼンベルクの大昔から物理学者たちを魅了してきた。量子情報理論の一つの目的は、この量子論の不思議な性質をうまく制御することにより、これまでにない高性能の情報処理技術を実現することである。実際、盗聴が原理的に不可能な暗号通信(量子鍵配送)や、現在のコンピューター(古典コンピューター)の計算能力を遥かに凌駕するような超高性能のコンピューター(量子コンピューター)が可能であることが理論的に証明されており、実験室で数多くの実験が行われてきているだけでなく、最近では、IBMやGoogle、Microsoftといった企業が商業化を進めている。本研究部門ではこれまで、クラウド上で量子計算を秘密に実現する方法(セキュアクラウド量子計算)の提案や、非ユニバーサル量子計算機の量子スプレマシー証明などについて取り組んできた。面白いことに、一見、全く理論物理と関係のないように見えるこのような応用的な研究においても、局所ハミルトニアンや量子誤り訂正符号といった、量子物理の多くの概念やテクニックが非常に賢く利用されているのである。
このような方向の研究はある意味、量子物理を情報に応用する研究であるが、そのような量子論の情報処理への応用を通じて得られた新しい結果や概念、テクニック等をこれまでの伝統的な物理にフィードバックすることにより、まったく新しい視点から理論物理の深い理解に迫るのも量子情報のもうひとつの重要な目的である。実際、量子情報の成果は近年、統計物理や物性、素粒子、重力等にも逆輸入されるようになり、それらの分野と量子情報研究者らの間で活発な交流が進んでいる。例えば、本研究部門では、テンソルネットワークと測定型量子計算を通じて、量子多体物理をこれまでとは違った視点から理解する研究を行ってきた。エンタングルメントや相関、トポロジカルオーダーといった量子多体状態の物理的性質と量子計算の性能との間にどういう関係があるのか、ということが明らかになってきている。また、量子計算と古典イジング分配関数との間に成り立つ面白い関係についても調べてきた。量子計算機がある問題を解くのにどのくらいのリソース(時間、メモリ等)を必要とするのかを調べる学問は量子計算量理論と呼ばれており、計算機科学の分野で昔から研究されてきた。最近、量子対話型証明系を含む、量子計算量理論における数多くの概念が統計物理や物性、素粒子、重力などの分野において、様々な物理的性質の特徴づけにうまく使えることが発見され、多くの物理学者が量子計算量理論に注目している。本研究部門でも、量子計算量理論や量子対話型証明系と物理との関係についてこれまで多くの研究を行ってきている。
このように、本研究部門では、物理学と情報科学が交差する新しい領域において、物理から情報へ、情報から物理へ、の両方向で研究を進めている。