チベット高原の歴史。
中国の北西部で半農半遊牧の生活を送っていたチベット系民族。
苻健が長安を占領し前秦を建国し国の基礎を築くと第3代苻堅は華北を統一した。
華北統一を果たした苻堅はさらに中国全土を統一しようと江南の東晋に大軍を派遣し淝水(現安徽省寿県の南東)で激突したが敗れた。
淝水の戦いで敗れた前秦は衰退し鮮卑に滅ぼされた。
チベット系遊牧民で中国の西部青海省付近で活動した。唐時代には党項(タングート)と呼ばれるようになる。
姚氏が長安に入り後秦を建国した。一時華北一帯を支配した
東晋の劉裕の北伐を受けて後秦は滅亡した。
鮮卑出身の吐谷渾という人物が羌を従えて黄河上流の青海地方を支配、人物名がそのまま国名として呼ばれた。
吐谷渾(とよくこん)は南北朝時代の両王朝に朝貢し冊封体制に入った。5世紀前半の一時期には内部抗争や北魏の侵攻を受け、シルクロードの交易ルート確保をねらう隋の煬帝の攻撃を受けて大敗した。隋の滅亡で勢力を回復したが、唐の時代には太宗の時に攻撃を受けて東西に分裂、東吐谷渾は唐の属国となり、西吐谷渾は吐蕃によって征服された。
7世紀頃ソンツェン=ガンポはチベットの諸部族を統一、吐谷渾から諸制度を学びながら国を治めた。
ソンツェン=ガンポは唐の太宗(李世民)に対し公主(皇帝の娘)との婚姻を要求したが応じなかったため唐の国境を攻撃、太宗(李世民)に実力を認めさせ文成公主を降嫁させた。
左から右に書く表音文字で北インドで使われるものに近い。ソンツェン=ガンポがサンスクリット語仏典を翻訳するため使節をインドに派遣してインド文字を学ばせて作ったと言われ、現在でもチベットではこの頃作られたチベット文字が使用されている。
7世紀頃大乗仏教がチベットに伝わりソンツェン=ガンポ王の保護を受けた。チベット固有の呪術的な宗教であるボン教と融合して独自に発達しチベット仏教となった。吐蕃王朝は衰退後もチベット仏教はモンゴルやネパールにも広がり、特にモンゴル帝国ではフビライなど歴代のハンがチベット仏教を保護した。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 | 『チベット』『ウイグル』 |
実教出版 | 『世界史B』 |