歴史の基礎 (Basics on history)

 

歴史という学問において前提となっている事柄について自分の考えとともにまとめる。前半の歴史の性質に関する部分は自分の考えが多く含まれている。

ヘロドトス BC485年頃-420年頃

人類最初の歴史を書いた人物。「歴史の父」と呼ばれる。『ヒストリアイ』と呼ばれる地中海文明の歴史を著述した。

『ヒストリアイ(historiai)』

ギリシア語historia(=研究)の複数形。その後の歴史を記述する際の基本的枠組み(歴史観)となる。その後トゥキディデス『ペロポネソス戦争史』などに受け継がれた。

歴史は政治勢力の抗争と対立に至った原因を記述する。

ヒストリアイの冒頭に始まる次の文章から読み取れる。

「本書はハリカリナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(barbaroi)の果たした偉大な驚嘆すべき事柄の数々、とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情、もやがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである。」(『ヘロドトス 歴史 上』岩波文庫)

政治勢力は変化し、歴史はその変化を記述する。

ヒストリアイの序文における結びの文から読み取れる。

「私はただ、ギリシア人に対する悪業の口火を切った人間であることを私自身がよく知っている、その人物の名をここに挙げ、つづいて人間の住みなす国々(polis)について、その大小に関わりなく逐一論述しつつ、話を進めていきたいと思う。というのもかつて強大であった国の多くが、今や弱小となり、私の時代に強大であった国も、かつては弱小であったからである。されば人間の幸運が決して不動安定したものでない理を知る私は、大国も小国もひとしく取り上げて述べてゆきたいと思うのである。」(『ヘロドトス 歴史 上』)

二つの勢力が対立し、最後にどちらかが勝って歴史記述が完結する。

ヘロドトスの『ヒストリアイ』における筋書きは、アジア(ペルシア=強力なバルバロイ)とヨーロッパ(ギリシア=弱小な自陣)の宿命的な対立において、強大なアジアの侵攻に対するヨーロッパの雄々しい抵抗と最終的な勝利(サラミスの海戦でペルシア艦隊がギリシア艦隊に撃破される)、というものであった。

(SY comment)
一部の人々が歴史に「物語」があることを要求する起源がここにある。

歴史として認められるための条件

一つの歴史(世界史)の定義は、
歴史(世界史)とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのこと(『世界史の誕生』岡田英弘)
である。人類の営みとしての歴史を強調する場合、「世界史」「狭義の歴史」と呼ぶことにする。すなわち、世界史と呼ばれるものは次の性質を満たしている必要がある。

(I) 人類が住んできた世界を記述する

世界史は、「人類発生以前の地球の歴史」や「銀河系ができるまでの宇宙の歴史」を含まない。広い意味での歴史(広義の歴史)と言った場合にはこれらを含む。

(II) 時間順序が明らかにされている

時間順序が明らかにされることなく、事象がただ羅列された記述は歴史ではない。

(III) 著述対象は過去に起きた、普遍的、科学的事象である

歴史の著述には一個人が直接体験できる範囲を超えることが必要とされる。このため、ある特定の個人や集団だけが認識できる事象ではなく、原理的に人間が認識可能な(=普遍的、科学的な)事象が著述対象として選ばれる必要がある。そうでなければ、それは個人の創作物語である。このことから、多くの場合神話や経典は歴史ではない。それらは歴史以外の何かであり、歴史とは区別されるべきである。歴史家に委ねられている自由度は、実際に起きた事象群の取捨選択とそれに対する表現方法である。

(SY comment)
この意味において(キリスト教などの)宗教や神話は「共同体の物語」という位置づけが相応しいと思われる。それらにおいては歴史的記述と共同体における伝承が渾然一体となっている場合が多く、歴史とは異なる特別な扱いを必要とする。

特に、科学的事象には因果律が存在する。このことから歴史は次の性質を満たしている必要がある。

(III') 因果関係に明らかな矛盾がない

因果関係に明らかな矛盾がある記述は歴史とはみなせない。これは歴史の著述対象が普遍的、科学的事象であることからの帰結である。

したがって、著述が歴史として認定されるためには、全体の著述内容に矛盾がないだけでなく、それまでに書かれた歴史とも整合的であることが要求される。このことは著述が歴史として認定されるための強い条件になる。異なる歴史書において記述に明らかな矛盾が見つかった場合は、上記に基づいてどちらが正しい記述か部分ごとに判定を行う。判定材料に乏しく判断できない場合には無理に判定せず判断を保留する。

特に、因果関係が明らかにされた著述はよい歴史と言えるが、逆にこの性質により、歴史は歴史を記した主体の立場を正当化するための道具になる。 悪人や御用学者はこの歴史のもつ機能を悪用、利用するために意図的に歴史を歪めさせることがある。 実際後にも述べるように、歴史は自然科学とは異なり、「歴史における因果関係」は、自然科学で発見された因果関係(法則)より(再現性が期待できないという点において)弱いため、悪用されても気づかない恐れがある。 歴史の悪用や改ざんを防ぐには、常にある一定数の専門家集団を養成して知を共有し、歴史の記述に矛盾がないかどうか検証する作業を怠らないことが必要である。

(SY comment)
もちろん歴史資料は人間によって作成されたものであるため、記述に間違いが含まれることが十分考えられる。上記の条件は、このような些細な間違いを除いた上での話である。

歴史が生成されるための条件

歴史の定義から、歴史が生成されるためにはその文明はある一定の条件を満たす必要がある。それらは現代的視点からすればほぼ自明であるが、実際にはこれらの条件を文明が獲得することは自明ではない。

(I) 言語と文字を記す媒体が存在する

これらがなければ一個人が直接経験できる範囲を超えて事象を認識することができない。

(II) 因果律の概念が存在する

因果律が存在するには局所的時間の存在が前提となる。実際、因果律とは、ある事象が起きた場合、局所時間前において別のある事象が起きていたことを意味する。

(III) 無限に続く時間の概念が存在する

無限に続く時間を局所的時間と対比して大域的時間とも呼ぶことにすると、歴史事象は大域的時間によって順序付けられている必要がある。またこのことから、無限に続く時間を管理する、時計などの時間を管理する技術の存在も必要になる。

(III') 自然数と数字が存在する

自然数とそれを記述する数字は無限に続く大局的時間を記述するのに必須である。

(III'') 歴史事象には再現性がない

これは歴史が大域的時間を必要とすることから導かれる。 再現可能であれば「何度も同じ時間を過ごすこと」が可能となるが、これを記述するには周期性をもつ時間の概念さえあれば十分で、無限に続く時間の概念を必要とせず上記の記述と矛盾する。したがって、歴史事象が科学的対象になることはない。 このことは、歴史的対象が科学的、普遍的事象に基づく必要があることと矛盾しない。歴史事象はマクロな事象であり、マクロな事象がミクロな事象から構成されるからといってミクロな自然法則に従う必要は必ずしもない(例えば、不可逆的であってもよい)

前提として、再現性という概念が成立するためには、異なる時刻で「同じ状態」を用意できる必要がある。言い換えれば、ある限られた状況下においては「何度も同じ時間を過ごす」ことが可能であることが再現性のために必要であるが、こんなことは地球規模で考えれば実現不可能である。

(SY comment)
物理学ではマクロな事象が科学的対象になり、熱力学統計力学流体力学などはいずれもマクロな物理現象を予言する学問である。このこと(マクロな物理現象の予言)が可能になる理由は、大量にあるミクロな情報の中から(温度や圧力などの)平均操作や粗視化による捨象が行われたマクロな物理量に限れば「同じ状態」を用意することができるからである。世界史が対象とするようなマクロな事象(歴史事象)はむしろカオスに近い対象で、「同じ状態」とみなすことのできる量は存在しない。言い換えると、そのような普遍的な量を抽出できてしまうほど捨象を行ってしまった記述はもはや歴史とは呼ぶことができない。

歴史をもたない/重視しない文明の例

上記の条件を満たさなかった古代文明や歴史を重要視しない国家はいくつかある。

インド文明

インド半島では古い時代から都市生活、王、政治、文字の記録があり、産業も盛んで富も蓄積されていたがインドには歴史をもつという文化が発達しなかった。その理由はインド文明に特有の輪廻転生の思想から来ている。

輪廻転生 Samsara: サムサーラ

「衆生(生物)」はその形によって「六道」(=「天(神々)」「阿修羅(悪魔)」「人間」「畜生(動物)」「餓鬼(幽霊)」「地獄」)に分けられ、それらの寿命が尽きると魂が死体を抜けだして次の生物に生まれ変わる(転生)。このサイクルを「輪廻」と呼び、来世でどんな種類の生物に生まれ変わりどんな生涯をたどるかは現世でどんな行為(業)を積んだかによって定まる。すなわち、因果の法則は現世だけで閉じることがなく、前世や来世を考えて初めて完結する。輪廻転生の思想の下では時間は周期性(サイクル)をもつため、大域的時間の概念が存在しない。

このため、インド文明では目の前で起こる現象を説明するために神話が用いられていた(「この世界は偉大な神の夢の中の世界だ」「神の気まぐれがこの地上の出来事を引き起こした」)。

イスラム文明から歴史が流入

歴史という観念が生まれ始めたのは、輪廻転生を否定するイスラム教が流入した13世紀ころである。13世紀初頭北インドのデリーに奴隷王朝と呼ばれるイスラム教徒のトルコ人とアフガン人の政権が樹立し、その後1858年ムガル皇帝が廃位されるまでインドではムスリムが支配階級であった。その間は歴代の君主の在位期間や政治的な事件などの日付をもつイスラム的な記録が行われた。 インドが(SY:本格的な)歴史の著述を開始したと言えるのは、ムガル皇帝が廃位されイングランドのヴィクトリア女王が皇帝になってから、と言える。

イスラム文明

上記インド文明において歴史はイスラム文明によって持ち込まれたと記したが、実際にはイスラム教の教義上イスラム文明は歴史が成立することは基本的に不可能である。その理由は、イスラム教における時間の観念と因果関係の概念が西洋文明や日本文明のものと根本的に異なるからである(『歴史とはなにか』岡田)。

(SY comment)
しかし、以下のコメントで述べるように、このことをもってしてイスラム文明がその教義上歴史を生成することが不可能であると結論付けることはできない。

イン・シャー・アッラー(インシャラー)

アラビア語で「神の意志あらば」。ムスリムが未来について語るときは常にこの語句が付け加えられる必要があるとされる。ムスリムにとって時間は過去、現在、未来とが因果関係によってつながっているわけでなく一瞬一瞬が神によって創造されており、未来に関わることは神の領域に属している。未来と過去は因果的に断絶した領域である。

(SY comment)
このことをもってしてイスラム文明が歴史を自発的に生成することは不可能であった、と結論付けることはできない。すなわち、未来が過去と因果的に断絶しているからといって無限に続く時間の概念を必要としないとは限らない。数学的に表現すれば、西欧的な時間軸は実直線で表され、負側を過去、原点に現在、正側を未来に取るが、その一方イスラム的な時間軸は半直線で表され、負側が過去、半直線の開端が現在を表す。端が開区間になっているのは過去や現在と未来が断絶し未来が不確定であることを表す。実直線と半直線は微分位相同型であり、どちらの時間も無限に続く。したがって、このことをもってしてイスラム文明が歴史を生成する条件を満たすことができないと結論することはできない。(実際後に述べるようにムハンマドの死後の時代から日付をもつ記録が行われている。)ただ、物理学のような局所的に限定すれば未来を予言できてしまう学問はその教義上発展不可能だ、ということは言える。

地中海文明への対抗としての歴史

こういう事情があるのでイスラム文明が歴史をもつことは教義上不可能であるはずなのだが、実際にはムハンマドの死後の時代から日付をもつ記録があり本格的な歴史書も書かれている。その理由が、地中海文明、特にローマ帝国に対抗するために歴史をもつことを受け入れた。そうしなければ外交交渉において不利に働くからである。

(SY comment)
この指摘は上記の理由により正しいとは言えない。後半の理由付けは、結果を知っているものがその結果を自説に合うよう都合よく解釈してしまったものであり、イスラム文明に対する評価としてアンフェアで不適切である。「強大なローマ帝国の存在が、イスラム文明に(より詳細な)歴史をもつことを促した」としなければならない。

アメリカ文明

アメリカは基本的に現在と未来に関心を寄せ過去に関心を持たない。それはアメリカ合衆国という国の成立を考えるとそれほど不思議なことではない。すなわち、アメリカ合衆国は王の財産を略奪して成立したという側面がある。先祖が略奪者であったという過去はあまり都合の良いことではなく、過去は済んだことだと考えると都合が良い。歴史に(積極的に)関心をもたないという行為は、西欧文明への一つの対抗手段であったと考えることができる。

(SY comment)
上の文章は岡田『歴史とはなにか』の指摘を幾分弱めて記述している。というのも、 アメリカが過去よりも現在と未来により関心があるというのは正しいと思うが、過去に関心がないということは決してないからである。それは例えば2016年オバマ大統領が日本の広島に来て行った演説(日本語訳,原文)を読めば明らかである。

市民革命による建国

現在のアメリカ合衆国の起源は、北アメリカの大西洋岸にあったイングランド王の十三の植民地が王に反旗を翻し、イングランド王の財産を奪いとってそれぞれ"state(財産)""commonwealth(共有財産)"と自称して連邦を形成し、1776年独立を宣言したことから始まる。

市民革命の原因となったのは本国から植民地への一方的課税であった。当時イングランドには1689年に定められた「権利章典」で議会の同意のない課税は違法とされていたが、植民地の住人には英国議会に自分たちの代表を送り込む権利がなかったため課税だけが一方的に行われ、それに対する植民地住人の不満が爆発した形となった。1789年自分たちが奪い取った王の財産を持ち寄って「アメリカ合衆国(United states of America)」という市民連邦(国家)を形成、君主制とは異なる政治形態を樹立、その勢いはフランスへ飛び火しフランス革命の引き金となった。

その一方、アメリカ独立以前にいた土着のアメリカン・インディアンは駆逐された。現在の合衆国とは何の関係ももたない。

移民の国

このようなアメリカ建国の経緯から、アメリカ国民は1776年の「アメリカ独立宣言」と1787年の「アメリカ合衆国憲法」の前文によって統合され、縁故や血縁関係は重要とされず、合衆国は移民に寛容である。

アメリカンドリーム

個人は親の恩恵に頼ることなくゼロから出発して自分一人で財産を築き上げるべきである、というのがアメリカ人の理想の生き方でありアイデンティティである。逆に言えば、親の財産や職業を引き継いで安泰な生活を続けることを恥じるべきとする考え方である。この考え方はアメリカが歴史をもたない、もたなくてよいという考え方と相性が良い。

(SY comment)
この考え方こそアメリカの素晴らしい点だと思う。日本という社会が今後競争力をもち続け成長する意思があるのであれば、学んで取り入れなければならない点である。衰退を受け入れるのであれば、裕福な人々を優遇する政策を行い才能の芽を潰し続ければ良い。もちろん、芸術家や音楽家など自分一人だけの力でなることが一般に難しい職業は存在するが、やる気と才能があれば本人の家庭環境によらずに道が開けるような制度設計を行うべきである。特に政治家やマスメディアなどその職業の公益性が高い場合、その職業が世襲や非公開人事によって一部の家系や特定の集団に長年に渡って独占されてしまう状況は好ましいとは言えない。その理由は、そのような人々は自分を叩き上げて達成や成功をする経験をせずに仲間を増やし人付き合いに長けることで高い地位を手に入れてしまっている場合が多く、その場合、責任が発生すると他人になすりつけるか仲間と共謀してルールそのものを変えてしまい、取るべき責任を取らずに逃避してしまうからである。そのような人々が淘汰されることなく高い地位に残ってしまうと改善の希望がなくなってしまい社会の活力が失われてしまう。

日本(歴史をもつ国)との外交折衝

例えば日本との貿易摩擦をめぐる交渉では、アメリカは現状の問題点を主張して改善を要求するが、日本はその問題には歴史的な事情があることを説明して、その改善要求には原因まで遡る必要があると主張する。アメリカ側からすれば、このような説明は「歴史」を口実にした言い逃れであり、大切なのは現状なのだから直ちに法律でも作って現状を改善するべきだと考える。しかし、歴史や経緯を重要視する日本からすれば、自分たちに都合が悪くなったからと言って過去の経緯を無視して要求を行うことは理不尽に過ぎず、そんな我儘な言い分に右往左往されたくはないと考える。

(SY comment)
このことは、機械と人間の碁の打ち方の違いとよく似ている。人間の場合は碁の指し手をある一定の戦略から決めているため過去の指し手が現在の指し手に影響を与えるが、機械の場合はその場その場で盤面評価を行って各盤面における最善の一手を放つ。人間とアルファ碁の対決の結果を考慮すると、機械的戦略のほうが強力であるという結果になる。(当然といえば当然ではあるが。)逆に言えば、歴史(history)を持って過去から影響を受けながら現状を判断する方が最善ではないかもしれないが人間らしいとも言える。過去に縛られて軌道修正がなかなかできないのは人間であるがゆえの人間らしさの表れなのだと言える。

司馬遷 BC2世紀頃 - BC1世紀頃

ヘロドトスとは全く独立に、「歴史」というジャンルを考案した人物。しかしその歴史のスタイルはヘロドトスのそれとは対照的である。ヘロドトスの歴史は様々な国々がいかに変化したかに重点を置いて記述したのに対し、司馬線のそれは正統な中国がいかに不変であるかを記述した。この意味において、司馬遷が考案した歴史は「正史」と呼ぶべきものであり、この意味での歴史を強調する場合には「正史」と呼ぶことにする。「国史」は各国における「正史」のようなものと考えることができる。

『史記』

司馬線が書いた歴史書。『五帝本紀』『夏本紀』『殷本紀』『周本紀』『秦本紀』からなる。その後の中国の歴史書の思想的基盤となった。

「正統」の歴史観

どの時代の「天下(現在で言う中国)」にも「天子(皇帝)」が必ずただ一人いて、その天子だけが「天命(天下を統治する権利)」を持っている(『歴史とはなにか』岡田)という歴史観。天命の授かれ方には大きく分けて2種類ある。

  1. 「禅譲」: 優れた天子から優れた天子へと天命が平和的に譲られていくこと。
  2. 「放伐」: 武装蜂起や武装侵略が起こって天命が揺らぎ、武力衝突で勝った方に天命が与えられること。

天命が当代の天子から剥ぎ取られることを「革命」という。「革」の原意は「取り去る」。

司馬遷が正統の概念を創始した理由は、自らが仕える(前漢の)武帝こそが正統の天子であることを主張するためであった。

(SY comment)
中国の歴史を学ぶと禅譲には実質的に2種類あることが分かる。一つはまさに上に書いた禅譲で、言うなれば「自発的禅譲」である。もうひとつは、「強制的禅譲」で、臣下が時の皇帝に禅譲を強要することで行われる「禅譲」である。後者は無血クーデターに近い。

『五帝本紀』

黄帝に始まる五人の神話上の天子が天下の至るところに行幸して天下を治めていく。東方では泰山に登って天地を祭り、北方では遊牧民を追い払い平定するなどした。この五帝の時代では禅譲によって天命が引き継がれていった。

天下不変の建前

天命を受けた正統の天子が治める天下には時代毎に変化があってはならない、という考え方。この考え方に従うと、もし天下に変化の兆しが見えればそれは天命に変動があることの前兆となる。このため、中国の正史においては大規模な自然災害や異常現象などの天変地異の記録は極めて重要で、これらは天子(皇帝)が天下を治めるための「徳(エネルギーのようなもの)」が衰えた証拠となる。

このような建前のために、当代の天子に不都合な事象は歴史からしばしば割愛される。歴史観と現実とが矛盾する場合、著述家は、場合によって、現実の方を歪曲、隠蔽して自らに都合の良い歴史観にすり合わせることも辞さない。そうしなければ、自らが仕える君主から反逆罪に問われてしまうからである。

『漢書』

班固(AD32 - 92)編纂。漢の高祖から始まり王莽の滅亡までの、漢一代の話を記述した断代史。王莽は儒教の英雄で、8年に前漢を乗っ取って皇帝と称し儒教で天下を収めたが23年に敗れて死んだ。

『三国志』

代の高官、陳寿(233 - 297頃)著。『魏書』三十巻、『蜀書』十五巻、『呉書』二十巻からなる。三国時代は一つの天下に皇帝を称する人物が三人並立するという状況の中で、魏を正統とする歴史観で著述された。そのため、以下のような事実の隠蔽や歪曲がある。

『南史』『北史』『晋書』

代に書かれた歴史書。同一王朝においては異例の、二本立てで歴史の編纂が行われ『南史』『北史』は両方とも同年の659年に完成された。(『晋書』は648年に完成。)その理由は以下に述べるように隋が正統であることを示そうとすると二本立ての歴史書が都合がいいからと考えられる。

唐代の歴史書において、司馬遷の『史記』において確立された、「常に天下には天子がただ一人いる」という歴史書において前提とされた歴史観が踏襲されなかった。この立場は、現代中国の政治用語では「二つの中国」と呼ぶべきものと考えられる。現実と歴史観を折り合わせようとした結果、「天子の唯一性」が犠牲になったと言える。

『宋史』

この歴史書によれば宋建国の父趙匡胤の祖先は北京の出身で、唐の時代では遊牧民の中心地であった。実際、安史の乱において唐の玄宗皇帝に背いて反乱を起こした安禄山は北京生まれのトルコ人であった。すなわち、北宋時代において家系の伝承や自らのルーツを忘れ失った人々が漢人と呼ばれるようになった可能性がある。

(SY comment)
中国で暮らす遊牧民がそのルーツを忘れ去るには様々な背景があると考えられる。例えば北魏が行った漢化政策もそれを促進する一つの要因であったのだろう。

『資治通鑑』

北宋の宰相司馬光が書いた編年体の歴史書。1084年完成。戦国時代の初めから北宋建国まで、すなわち秦の始皇帝の中国統一以前から北宋の太祖が皇帝になる前年まで毎年の出来事が記述されている。

司馬光が編年体で歴史書を編纂したことの主な理由は、(自分たち)漢民族こそが秦漢時代から続く正統な民族(「中華」)であり、北方遊牧民国家は正統性をもたない成り上がりの民族(「夷狄」)にすぎないということを主張するためであった。実際、司馬光は南北朝時代において南朝の皇帝だけを「皇帝」と呼び、北朝の皇帝は「皇帝」とは呼ばず「魏主」などの呼称を用いて北方民族国家の正統性を認めなかった。遼との澶淵の盟や大夏(西夏)との慶暦の和約を結んだ経緯から、軍事力では敵わない相手に対し歴史書によって軍事行動の報復を行ったと考えられる。

この『資治通鑑』の「負け惜しみ」思想は、その後の「中華思想」(=「軍事力では劣っても文化や歴史の上では中華は最も優れた、正統な民族である」)の起源となった。

(SY comment)
軍事力では劣っても文明の力では圧倒した、という例は西欧の歴史でも見受けられ、例えば古代ローマの詩人ホラティウスの有名な言葉「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した」がある。しかし、この言葉は司馬光『資治通鑑』のような「負け惜しみ」から出てきたものではなく、ギリシア文化に対する敬愛、尊敬の念から出てきたものなのだろう。

(SY comment II)
ところで、「中華思想」とは言い換えると「漢民族至上主義」である。近年アメリカにおいて「白人至上主義」なるものが批判の的になっているが、これはアメリカという国が多民族国家(melting pot)であるという人々の共通認識があることに依る。その一方中国には多民族国家であるという共通認識がない。このことには、上述した司馬遷の歴史認識が大きく影響していると考えられる。そのため、中華思想=漢民族至上主義が批判の的になることがなく、少数民族が迫害を受けても深刻な問題として扱われない。裏を返せば、少数民族が迫害を受けないようにするためには人々の間で中国は多民族国家であるという認識が共有されればよいと言える。しかし、この認識は司馬遷の歴史観に抵触すると考えることもでき一見すると実現は困難に思える。しかし、中国は冊封体制羈縻政策など多民族国家に準ずる政治形態を過去に実現してきたのだから、中国少数民族が自治を獲得する道理は司馬遷の歴史観によっても排除されていないと考えるのが自然である。中国の知識人やエリート階層に現状を打破する名案を期待したい。

日本文明

中国文明の対抗文明。日本書紀が独自の正統を主張。


主要参考ページ⇧ top ⇧

岡田英弘 『歴史とはなにか』 文春新書 この歴史の基礎のノートを作る動機になった本。自分の考えと共にまとめるに辺り大変参考になった。