インド半島の歴史。パキスタン地域を含む。
現在のパキスタンの辺りで興ったインダス文明は、ドラヴィダ人の麦栽培などによる農耕社会としての側面と、モヘジョ=ダロやハラッパー遺跡では公共沐浴場や整然と配備された建物や道路が残されており都市社会としての側面を持った。
彩文土器とともに青銅器を使用していた。
印章などに刻まれた。未解読。
インド=ヨーロッパ語族で鉄器を使用するアーリヤ人が西北から侵入、インダス川流域を征服するとBC1000年以降にはガンジス川流域まで勢力を広げた。
アーリヤ人が使用していた鉄器がインダス川流域に広がった。
ポルトガル語"casta(血統、身分)"に由来。アーリヤ人は現地住民を征服していくと、清浄と不浄(穢れ)という基準で社会集団を差別化、自らの宗教的な権威を維持するため次第に宗教儀式を複雑化させ、ヴェーダを暗唱して複雑な儀式を司る司祭階級(バラモン)を最上位とするカースト制度を築き上げた。
本来は「色」を意味し、肌の色の白いアーリヤ人と有色の非アーリヤ人を区別するために用いられた言葉であったが、混血が進むうちに本来の意味を離れ「身分(種姓)」や「身分制度」をさす言葉となった。死、血、排泄などは不浄とされ、これらに関わる職業(動物の屠殺や皮革加工、清掃、洗濯など)に従事する人々(パーリヤ)は差別の対象になった。
名称(上のものほど高位) | 階級 | 構成種族 | 解説 |
---|---|---|---|
バラモン | 司祭 | アーリヤ人 | 宗教的先導者。 |
クシャトリヤ | 武士、貴族 | アーリヤ人 | 政治や軍事を司る。 |
ヴァイシャ | 一般民 | アーリヤ人 | 農耕牧畜や手工業を手掛ける生産者。 |
シュードラ | 奴隷 | ドラヴィダ人 | 上位階級に隷属する。 |
パーリヤ | 不可触民 | ドラヴィダ人 | 不浄の職業に従事する。 |
「生まれ」を意味し、4つの基本のヴァルナをさらに細分化されて出来た世襲職業別の集団。それぞれに上下関係があり、異なるジャーティー間では婚姻をせず食事を共にしなかった。
4つの「ヴェーダ(聖なる知識)」からなる「リグ(賛歌)」でバラモン教の聖典。BC1000年頃に編纂され、サンスクリットの古い言葉であるヴェーダ語で伝承された。バラモンによって暗唱されることでカースト制度を支える基盤となった。
古代インドにおける十六大国の一つで前6世紀頃、ガンジス川下流に成立した都市国家。仏典上の摩訶陀国。マガダ国は同時期に生まれた仏教とジャイナ教を保護した。
バラモン教が徐々に権威主義や形式主義に陥っていくと、その不毛さを批判する新しい思想が芽生え、それらに嫌気がさしていた人々に受け入れられていった。
BC5世紀頃ガウタマ=シッダールタが悟りを開いてブッダとなり、北インドで仏教の教えを人々に説くと次第にクシャトリヤやヴァイシャ層に広がっていった。
ほぼ同じ頃、ベンガル地方のクシャトリヤ出身であったヴァルダマーナは、30歳で出家し13年ほどの苦行の末悟りをひらきジャイナ教(ジナ教、大雄)を創始した。
第5代ビンビサーラ王の時にガンジス川流域の平原を支配すると、父のビンビサーラ王を殺して王位に就いたアジャータシャトルがコーサラ国を滅ぼしてベナレスを併合、強力になっていった。
マハーパドマと呼ばれる出自のよく分からない人物が挙兵、滅ぼされた。
古代インドにおける十六大国の一つで前6世紀頃、ガンジス川中流に成立した都市国家。当時の商工業の中心地であったベナレスを征服して有力となった。
コーサラ国の王子で古代インドの二大叙事詩の一つ『ラーマーヤナ』の主人公になっている。ラーマ王子が都としたアヨーディヤはヒンドゥー教の聖地とされている。
シシュナーガ朝アジャータシャトルによって滅ぼされた。
初代マハーパドマは別名「ウグラセーナ(恐ろしい軍隊を有する王)」の異名を持った。
前4世紀末、アレクサンドロス大王の侵入を受け阻止したがそれを機に衰退が始まった。
インド北西部チャンドラグプタが挙兵し倒された。
マガダ国のクシャトリヤ出身チャンドラグプタがナンダ朝を倒してマウリヤ朝を興した。 チャンドラグプタはアレクサンドロス東方遠征によって混乱した西北インドに出兵しインダス川流域からギリシア人勢力を一掃、ガンジス川流域からインダス川流域に及ぶ広大な領域を収め、南インドを除くインド半島を統一した。
『実利論』を著し「インドのマキャヴェリ」の異名を持つ政治思想家。チャンドラグプタ王の宰相としてインド統一体制の構築に大きな貢献をした。ガンジス川流域の直轄地では中央政府として多数の官僚と軍人を組織する一方、征服地は4つの属州に分けて王子を知事として派遣して統治、さらに租税制度も整備した。
即位前後は暴虐の限りを尽くしチャンダ・アショーカ(暴虐阿育)と呼ばれたが、デカン高原の東南部のカリンガ国を征服したとき、戦争で多くの犠牲者を出したことを深く恥じて仏教に帰依、それ以後は仏法による政治を行い人々からダルマ・アショーカ(法阿育)と呼ばれた。
仏塔(ブッダの遺骨を納めた仏舎利をもつ塔)を建設、民衆語であるプラークリット語をインドの文字の一種ブラーフミー文字で石柱(石柱碑)や崖(磨崖碑)に刻んだ。また第三回仏典結集を行い、スリランカに僧侶を派遣して布教活動を行った。同時にバラモン教とジャイナ教も保護した。
「ダルマ」とは仏教以前からインドにある思想で(法律、倫理、道徳、正義などの)人生の正しい指針を「守ること」を意味した。ダルマは元々はカースト制の中でジャーティ毎に異なっていたが、ブッダはその守るべきものをジャーティーに関係なく普遍的なものとなるよう再定義した。アショーカ王はそれを国家統治の理念として採用し、ダルマにもとづく政治を行うことを宣言、詔勅には不殺生や正しい人間関係の尊重が説かれた。
アショーカ王の死後マウリヤ朝は衰退しBC180年に滅亡、インドは小国に分裂したまま統一国のない時代に入った。
マウリヤ朝が崩壊すると南インドのデカン高原でドラヴィダ系アーンドラ部族が独立し建国、BC1世紀頃から急速に勢力を伸ばし後には北インドの大半を支配するようになった。サータヴァーハナ朝とも呼ばれる。北西インドを支配していたクシャーナ朝と隣接した。
サータヴァーハナ朝はドラヴィダ系部族が建国したにも関わらずアーリヤ文化を受容し宗教寛容策をとったためバラモン教、仏教、ジャイナ教は共栄した。
サータヴァーハナ朝時代に造営が始まったデカン高原西部アジャンターにある仏教寺院では、石窟内に純インド文化を表す壁画や仏像(グプタ様式)が存在している。
インド最南端で栄えたドラヴィダ語族タミル人国家。
地中海を支配していたローマと交易し、金貨を得る代わりに胡椒などを特産品をローマに輸出した。
約半世紀の分裂時代を経てマガダを拠点としてチャンドラグプタ1世を名乗る人物がグプタ朝を創始、ガンジス川流域を統一した。2代目のサンドラグプタはデカン高原に遠征し北インドをほぼ統一し、5世紀はじめのチャンドラグプタ2世の時にはかつてのアショーカ王の支配領域と同じ広さを支配した。
インド古来のバラモン教から派生しジャイナ教や仏教の影響を受けて生まれたブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌなど多数の神が存在する多神教でカースト制度と結びついた。
ヒンドゥー文学の二大叙事詩がこの時期に生まれた。
チャンドラグプタ2世の宮廷に仕えたカーリダーサによってサンスクリット語で書かれた戯曲。サンスクリット文学の最高傑作と言われる。シャクンタラーは主人公の姫の名。
ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教それぞれの石窟が共存する、代々宗教寛容政策が取られてきたインドの伝統を象徴する石窟寺院。このグプタ朝時代にはヨーロッパ/ヘレニズムの文化の影響が薄れインド独自の文化が芽生えグプタ様式と呼ばれた。
(SY comment)
エローラ石窟寺院の中で最も大きな石窟はカイラーサナータ寺院で、写真の怪しくも渋い男の後ろに見える造形物がそれである。巨大な岩盤から寺院をくり抜いてヒンドゥー教の神々を壁面全体に彫り込んだ圧巻の文化遺産で、その延べ労働時間はエジプトのピラミッドに比すると思われる。仏教寺院の方では所々壁に掘り込みがあり、一説によればその中でモンクが瞑想による修行をしたそうで、修行中の僧侶の気持ちを知ろうとした怪しい男が穴の中で何か考えているところが写真に納められている。
5世紀に創設され、仏教教学を中心として、バラモン教、哲学、医学、天文学、数学などを研究する僧侶を養成総合学院。後のヴァルダナ朝、パーラ朝で保護を受けたが、アフガニスタンから侵攻したイスラーム教徒のゴール朝によって破壊された。
「白いフン族」とも呼ばれる遊牧民エフタルの侵略によって衰退し滅亡した。
グプタ朝が滅亡するとインドは分裂状態に陥ったが、北インドにはハルシャ=ヴァルダナ(戒日王)が現れ606年頃大部分を統一、ヴィンディヤ山脈(Vindhyas)以北一帯を支配した。
(SY comment)
北インドと南インドはヴィンディヤ山脈を境に分けられる。
647年頃ハルシャ=ヴァルダナ王が死ぬと国内は混乱、その動乱の中アラナシュ(阿羅那順)が王位を簒奪した。唐からの使節王玄策は捕らえられたが吐蕃のソンツェン=ガンポらがインドに侵攻し王玄策を救出、アラナシュは唐に連行されると王国は急速に衰えた。
この時期の北インドの諸王がラージプート(サンスクリット語の「ラージャプトラ(クシャトリヤの子孫で王子を意味する)」の訛り言葉)を称したので、ラージプート時代という。
ヴァルダナ朝滅亡後カナウジを都として自身らを正統クシャトリヤの末裔(ラージプート)と称する一派が北インドのガンジス川中流域で有力となった。9世紀にほぼ北インド全域を支配した。
北西から侵攻したガズナ朝のマフムードによって破壊され滅亡した。
チャールキヤ朝を倒してデカン高原全域を支配し栄えたヒンドゥー王朝。
(SY comment)
この時期にエローラ石窟寺院で最も大きな石窟であるカイラーサナータ寺院が掘削されたようである。
家臣となったチャールキヤ家のタイラ2世が反旗を翻しラシュトラクータ朝は滅びた。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 | 『インドの歴史』 |
実教出版 | 『世界史B』 |
(SY comment)
仏陀が浄土三部経などを説いたことで有名な祇園精舎は都の郊外にあったらしく、現在それらは遺跡として保存されている。