量子情報と量子技術

原子や分子、光などミクロな世界は量子論という物理理論により記述される。この量子論は、量子的重ね合わせやエンタングルメントといった、我々が普段生活しているマクロな世界の常識からすると非常に奇妙な現象が数多く現れることで知られており、その不思議な性質を理解することは大昔からの物理における重要な問題であった。

量子情報というのは、この量子論の不思議な性質をうまく制御することにより、これまでにない高性能の情報処理技術の実現を目指す学問である。実際、現在のコンピューター(古典コンピューター)の計算能力を遥かに凌駕するような超高性能のコンピューター(量子コンピューター)や、様々な古典では実現できない新しい機能を持った暗号タスクが実現できることが分かっており、これまでに多くの理論的、実験的研究が世界中で活発に行われてきている。本部門の一つのゴールはこの量子情報の研究を推進することである。とりわけ、量子計算量理論、量子アルゴリズム理論、量子暗号理論、量子誤り訂正理論といったようなテーマに取り組む。

一方で、量子情報の研究で得られた得られた新しい結果や概念、テクニック等をこれまでの伝統的な物理にフィードバックすることにより、まったく新しい視点から理論物理の深い理解に迫るのも量子情報のもうひとつの重要な目的である。実際、量子情報の成果は近年、統計物理や物性、素粒子、重力等にも逆輸入されるようになり、それらの分野と量子情報研究者らの間で活発な交流が進んでいる。また逆に、物理で長年研究されてきたものが量子情報で有用であるという例もある。例えば、量子多体系の効率的な数値シミレーションのために昔から研究されてきているテンソルネットワークは量子計算の古典シミレーション(つまり量子計算がどれだけ古典計算より優れているかを調べる)にも有用である。本研究部門では、このように、物理学と情報科学が交差する新しい領域において、物理から情報へ、情報から物理へ、の両方向で研究を進めている。

量子重力とゲージ重力対応

自然界に働く力は、「電磁気力」と「弱い相互作用」と「強い相互作用」、そして「重力(万有引力)」と4種類ある。このうち、電磁気力と弱い相互作用と強い相互作用に関しては、ミクロな世界における法則を記述する量子論に関しても、「標準模型」を用いて統一的に理解されている。しかし、重力に関しては、マクロな世界の法則として「一般相対性理論」による記述は確立しているが、重力の量子論(量子重力理論)は未だにその法則が未解明であり、物理学最大の難問の一つとして有名である。超弦理論は、万物の最小単位を、つぶ(素粒子)ではなく、ひも(弦)であると考えることで得られる理論で、量子重力理論の有力候補としてよく知られている。

この超弦理論の研究から「ゲージ重力対応」という新しい考え方が生まれた。これは、「重力の理論が、重力相互作用を含まない物質の理論(ゲージ理論など)と理論として等価になる」という現象である。これを用いると、難解な量子重力理論を、よりなじみの深い「量子多体系の理論」として非摂動的に定式化できる可能性が期待される。さらには、この不可思議な現象の背景において、「量子情報理論」が重要な役割を果たすことが分かってきた。量子多体系における量子情報の相関を表す「量子エンタングルメント」の強さ(エンタングルメント・エントロピー)が、ゲージ重力対応で対応する重力理論の宇宙の断面積に比例することが分かってきた。例えば、重力理論の基礎方程式であるアインシュタイン方程式は、エンタングルメント・エントロピーの満たす熱力学的な性質の方程式と解釈できる。ゲージ重力対応をこの手法を用いて解析することにより、量子物質の理論(ゲージ理論)が持つ量子エンタングルメントの構造が、重力理論が表す宇宙の幾何学に対応するという予想も得られるようになった。これを実現する一つの可能性として、重力理論の宇宙がテンソルネットワークのような量子多体系における量子エンタングルメントのネットワークになっているという予想も提起されている。

量子重力理論によって解決が期待される重要なターゲットが「ブラックホールの情報問題」である。ブラックホールは熱輻射(ホーキング輻射)によって、徐々に小さくなり、最終的に蒸発してしまうと考えられる。その時にブラックホールに内部に隠れていた情報はどうなってしまうのか?という問題である。この問題は長らく難問のままであったが、ようやく最近になって、量子情報理論とゲージ重力対応を融合することで、この問題の糸口が得られることが分かり、国際的な中心テーマの一つとなっており、本グループの主要テーマの一つである。

さらに、量子重力理論の究極の目標は、我々の住んでいる宇宙がどのようにして生まれたか?という「宇宙創成」の解明である。そこで重要となるのが、時間に依存する量子重力理論のダイナミクスであるが、現在の超弦理論の理解ではこの問題を解明するにはまだ遠い。また前述のゲージ重力対応という考え方は、反ドジッター宇宙と呼ばれる宇宙定数が負の宇宙を対象としており、宇宙定数が正と考えられている現実の宇宙を扱うことはできない。しかし、ゲージ重力対応の基礎原理が量子情報理論を鍵として理解できれば、宇宙定数が正の宇宙を扱えるように、大きく一般化できると期待される。

また、別なアイデアとして、量子重力理論への離散的理論のアプローチも有用である。物質を構成する原子のように、時空間や宇宙を何らかの離散的な構成要素により記述できるか?、というのは、誰しもが抱く素朴な疑問である。このような離散的理論により量子重力を構成できるかどうかは極めて非自明な問題である。特に、相対論における連続的時空間を離散的理論の有効理論として導けるかどうかが重要な要である。これはまさしく離散的理論で宇宙の誕生を研究することとも等しい。また、プラックホールのエントロピーを離散的構成要素の自由度から導くことも面白い可能性である。実際のところ様々な離散的アプローチがあるが、当グループで行われているものの一つとして、2次元量子重力の記述で成功している行列模型の高次元への拡張であるテンソル模型の研究がある。

本研究グループでは、上記のような多様な理論物理学的アプローチを、量子情報理論の手法と融合することで、量子重力理論の諸問題の解明に新展開をもたらし、日本における量子重力理論の研究における中心軸となることを目的としている。

重力波物理と宇宙論

宇宙論は、宇宙背景輻射や銀河・銀河団の統計、超新星の観測等の膨大な観測データを背景に、飛躍的に発展してきた。今や、宇宙を記述するパラメータの多くはかなりの精度で決まった、少なくとも決まりつつあると言える。しかし、それらのパラメータの値が何を意味するのかは明らかでない。実際、現在の宇宙の殆どを占めていると考えられている、ダークエネルギーとダークマターの正体を私たちは知らない。また、宇宙がこれだけ大きいのは何故か?その大部分を説明すると考えられているのがインフレーションであるが、その源となる真空のエネルギーが何によるものかも分かっていない。豊富な精密観測データを誇る宇宙論の前には、ダークエネルギー・ダークマター・インフレーションという、3つの大きな謎が立ちはだかっているのである。他にも、初期特異点、宇宙磁場の起源等、宇宙には多くの謎が残されている。私たちの宇宙を理解するためには、一般相対性理論、統計物理学、素粒子物理学、超弦理論など、あらゆる手段を用いてこれらの謎に挑戦し続けなければならない。

宇宙では、様々なスケールの物理現象が互いに影響を及ぼしながら絶えず起こっている。そして、最大スケールの物理すなわち宇宙論は、最小スケールの物理と密接に繋がっている。生まれたばかりの宇宙は超高エネルギーの極限的状態にあるため、ミクロの物理が本質的になるからである。特に、宇宙創世のような重力と量子効果の両方が本質的となる状況では、重力現象を記述する一般相対性理論も、素粒子の世界を記述する場の量子論も破綻してしまう。したがって、宇宙創世を論ずるには、この理論的破綻を回避して重力と量子論とを調和させる、量子重力理論が必要になる。私たちは、宇宙の謎のいくつかを解くヒントを、量子重力理論が与えてくれると期待している。量子重力理論に基づく宇宙論は、私たちの宇宙を理解する上で重要な役割を果たすはずである。

現代の理論物理学と宇宙論における最難問の一つである宇宙項問題には、2つの側面がある。第一は、「何故小さいのか?」という問題である。観測からの宇宙項に対する上限値は、量子論的にナイーブに予想される値に比べて、約10^(-120)と非常に小さい。現時点で、このような小さな値を自然に説明できる理論はない。そのため、研究者の間で、人間原理に頼ってしまおうという傾向が見受けられる。しかし、それは早計かもしれない。基本原理によって宇宙項問題を解決できる理論が見つかれば、人間原理による解決などすぐに忘れ去られてしまうであろう。難問への挑戦は、諦めるべきではない。

宇宙項問題の第二の側面は、「何故ゼロでないなのか?」そして「何故今この値なのか?」という問題である。これは、宇宙の3大謎の1つ、ダークエネルギーの謎そのものである。ダークエネルギーは、現在の宇宙の7割以上を占めていると考えられているにも関わらず、私たちはその正体を知らない。この状況は、宇宙規模の長距離・長時間における重力に、新しい物理を紐解くヒントが隠されているかもしれないと予感させる。なぜなら、ダークエネルギーの"証拠"は長距離・長時間での重力の振る舞いから得られており、しかしそのような長距離・長時間での重力の性質が直接検証されたことはないからである。19世紀に水星の近日点移動が発見された時、人々は見えない惑星、言わばダークプラネット、を導入して説明しようとした。発見したと主張した人もいたが、実際の答えはダークプラネットではなく、"重力理論を変える"ということであった。つまり、"ニュートン力学から一般相対論へ"重力理論の新しい幕開けである。この歴史的事実を鑑みれば、少なからぬ研究者が、「宇宙の加速膨張の謎も、もしかすると同じかもしれない」つまり「ダークエネルギーを導入する代わりに、一般相対論を拡張し、その振る舞いを長距離または長時間で変更することはできないだろうか?」と考えるのも不思議ではない。ただし、言うまでもなく、最終的に判定を下すのは、観測・実験データである。ダークエネルギーか拡張重力か?その答えを得るためには、理論的綻びや観測的矛盾のない拡張重力理論を構築し、検証可能な予言を引き出す必要がある。

2015年にアメリカの重力波望遠鏡であるadvanced LIGOが、連星ブラックホールからの重力波の初観測に成功した。日本でも、独自の検出器KAGRAが2020年に観測を開始した。その結果、重力波天文学・重力波物理学が新しい学問として創生され、これまで知ることができなかったブラックホール誕生の瞬間のような一般相対論的動的現象の解明が進むと考えられる。さらに、重力波望遠鏡は、高エネルギー天文学にも大きなインパクトを与えると期待される。仮に近傍で超新星爆発やガンマ線バーストが起これば、それらに付随する重力波が検出され、未だにメカニズムが解明されていないこれらの爆発現象の理解に大きなヒントが得られると予想されるからである。特に、未だに起源が明らかではないガンマ線バーストの正体が解明されることが強く期待されている。さらに、強い重力場中での一般相対論の検証という物理の基礎を検証するという役割も担うものである。

重力波観測においては、検出器の開発研究だけではなく、理論研究とデータ解析研究が重要な役割を果たす。言うまでもなく、あらゆる観測・実験研究がこれらを必要とするが、重力波観測には独特の側面がある。それは期待される重力波信号の振幅が、検出器雑音の高々10倍程度であり、雑音の中から重力波信号を確実に取り出すためにはあらかじめ精度の高い理論波形を予測することが不可欠なこと、理論波形を有効活用することにより検出効率を可能な限り高くするようなデータ解析手法の開発が不可欠なこと、である。さらには、取り出した信号から物理的情報を引き出さなくてはならない。これには、各々の重力波源に適したデータ解析法が必要になり、新しい手法の探求が急務となっている。

さらには、重力波以外の宇宙観測手段による同時観測などの協働的な研究も欠かせない。実際、2017年に連星中性子星からの重力波とガンマ線が同時観測されたことにより、重力波の伝搬速度が高い精度でわかり、拡張重力理論の許されるパラメータ領域に重要な制限が得られた。また、電磁波(あるいはニュートリノ)との同時観測により、重力波の検出を確信する上で飛躍的に信頼度が増す。さらには、重力波源の正体解明というメリットまである。対応天体を観測するには、なによりもまず、理論的に予想される信号を明らかにする必要がある。さらにその情報を観測者へと発信して行き、必要となる装置の開発および観測計画の立案を促す必要がある。

重力波観測が実現し、新たな天文学・物理学が始まった現在、重力波実験研究者、データ解析研究者、天文観測研究者、および理論研究者の協働が不可欠となっている。KAGRAを中心とした日本の研究者集団から重要な成果を発信していくためには、これらの研究者の連携強化が必要不可欠な課題となっている。本研究部門は、このような課題に対して理論物理学者集団として貢献し、日本において中心的役割を担うことを目的の一つとしている。

量子物質

物性理論の究極の目標をひとことで言うと、物質の示す複雑かつ多彩な性質を、物質の個性を反映した比較的簡単な有効モデルと基本的な物理法則の組み合わせで理解し、そこで得られた知見を元に新たな現象を予言することにある。バンド理論に基づく金属・絶縁体の量子論的理解に始まり、超伝導・超流動、金属の磁性など、その成功例は枚挙にいとまがなく、自発的対称性の破れのように、物理のさまざまな分野を貫く基礎概念を生み出すのみならず、その多くは現在の我々の日常生活を支えるテクノロジーの基礎にもなっている。

このような大きな進展の最近のものとして、1980年代の量子ホール効果の発見に端を発し、2016年のノーベル物理学賞の対象にもなった「トポロジカル物質」の理解があげられる。それ以前にも、秩序を持つ物質中に作られる励起や欠陥をトポロジー(ホモトピー)の概念を用いて分類する試みは知られていたが、トポロジカル物質では、「量子力学的な波動関数」の持つトポロジカルに非自明な性質に着目してその性質が理解される。特に「トポロジカル絶縁体・超伝導体」の発見以降、ここ十数年で、時間反転対称性、粒子・正孔対称性などの対称性がトポロジカル物性において果たす役割が広く認識され、その理解が飛躍的に進んだ。また、最近では、力学系、電気回路系、地球上の海流など一見量子力学と無関係な系や、開放量子多体系との関連で、エルミートでないハミルトニアンを持つ系などにも研究対象が広がっている。

しかし、こうした成功の一方でトポロジカルであるが故に、従来の物質相の理解では大成功を収めた「局所秩序変数」を用いた理解では本質を捉えることができず、その本質の統一的理解はなかなか進んでいなかった。このような状況に新たな道筋をつけたのが、量子情報の分野で生まれた「量子エンタングルメント」の概念である。それによると、トポロジカルな物質相にもエンタングルメントの観点から大きく分けて2つのカテゴリーがあること、これによって、分数量子ホール効果のような「真性トポロジカル相」と、トポロジカル・バンド絶縁体のような「対称性に護られたトポロジカル相」の違いなども統一的視点から理解できるようになった。それ以降、トポロジカル物性は、物性理論と量子情報理論の活発な学際交流の場となっており、さまざまなトポロジカル状態を量子計算のリソースとして利用するアイデアなども進展している。

また、1980年代後半に高温超伝導との関連で理論的に提案され活発に研究された、(絶対零度での)磁性体の無秩序状態である「量子スピン液体」は、信頼に足る微視的模型がなかったことなどもあり、磁性の理論家の間では長らくキリスト教文明における「聖杯伝説」のようなものであると考えられてきた。しかし、21世紀に入って量子計算の文脈で提案された、いくつかの解けるトイモデルの研究などを通じてその理解が飛躍的に進み、現在では輸送係数の量子化や(非可換)分数統計励起といった、その非自明な性質の実験的検証までも射程に入れたひとつの大きな研究の潮流になっている。

エンタングルメントをキーワードとした物性理論と量子情報の交流はトポロジカル物性だけにとどまらない。多くの場合に与えられたモデルを厳密に扱うことができない強相関多体量子系の場合、数値計算によるアプローチは重要な研究手段であるが、それぞれの計算手法に一長一短があり、難問にアタックするための新たな視点からのブレークスルーが求められていた。ここでもエンタングルメントの持つ性質の研究を通じて、多体系の基底状態の波動関数を効率的にシミュレートする状態として、行列積状態、テンソルネットワークといった新しいタイプの波動関数を用いるアイデアが提案された。この新たな手法は、スピン液体など、従来の手法ではアプローチが困難であった物性の問題にも適用され、成功を収めてきている。また、テンソルネットワーク状態とAdS/CFTの密接な関係は、物性理論、量子重力、量子情報にまたがる学際的研究の流れも生み出している。

一見すると相反する様に見えるが物性理論のもう一つの大きな目的は、物質の個性に依らない普遍的な法則を明らかにしようとするものである。学部レベルで学ぶ統計熱力学は物質の個性に依らない普遍法則を与えたその成功例であるが、その適用範囲は熱平衡系近傍に限られていて広くはない。一方で、シュレディンガーがその著書“What is life?”の中で看破した様に生物等の非平衡開放系では環境にエントロピーを排出することで着目系のエントロピーが減少する事が屡々生じる。シュレディンガーのネゲントロピーの提唱以来、非平衡開放系の統計熱力学はずっと関心を持たれつつもその一般論の進展ははかばかしくなかった。

こうした非平衡開放系の最も制御された系は量子ドット等の極めた小さな系が環境と接続した系である。この系の有効ハミルトニアンは非エルミート的であるが、寧ろ量子マスター方程式を直接扱ってより詳細にその小さな系の熱力学的性質を調べようという研究が盛んに行われる様になってきた。このアプローチは熱力学が自由度無限大の極限でのみ成り立つという古典的描像と一見相反する様に見えるが、小さな系と接続した環境は普通の熱力学法則に従うと仮定してよい。一方で、系を複数の環境に接続するとそれぞれの温度や化学ポテンシャルは異なってよく、系の中を熱流や電流が流れる非平衡定常状態が容易に実現する。ここでもエントロピーは主要な役割を果たし、例えば小さな系や環境のパラメータを制御した熱機関を論じる事も可能であり、量子効果であるエンタングルメントによって熱効率やパワーが上昇するかどうかについてホットな論争がある。また熱機関では制御パラメータをパラメータ空間の中で一周させるので、複数の制御パラメータがあれば、その幾何学的な性質がエキゾチックな効果を生み熱機関の性能に直結する。このような開放系の量子熱力学は量子重力センターの一つのホットトピックとなり得る。

伝統的な開放系の統計熱力学の対象は量子系よりも古典系であった。それは古典系が比較的簡単に制御でき、その結果を容易に目視できる利点があるからである。また、シュレディンガーが端緒を開いた生物物理学の対象の多くが古典的に扱ってよい高温環境下に存在するマクロな系であるからである。これらの古典非平衡系でどのように物質が流れ、固化し、どのように特徴付けるのかはこれまで量子重力と無関係に議論されてきたが、ごく最近になって、粉体のような古典粒子多体系の降伏転移をホログラフィー原理から説明しようという試みがなされるようになり、量子重力のトレンドと無関係ではいられなくなった。また、量子開放系でも古典開放系でも共通して、その理解や制御では相対エントロピー(Kullback-Leibler divergence)やFisher情報量等がキーとなっており、情報論的な扱いは必要不可欠になっている。この一般的手法の持つ性質は物質の個性に依らず、専門分野に捉われず共通なモダンな観点を与え得る。この様な世界観の拡がりによって物性分野は量子重力センターの進展に資する事が可能になる。

強結合物質と(量子)計算

クォーク・グルーオンからなる物質(クォーク・グルーオン・プラズマ、QGP)は初期宇宙において最後の真空相転移を起こし、陽子・中性子・電子からなる現在の宇宙を作った。相転移温度近辺のQGPはほぼ完全流体であり、超弦理論が示す最小のずり粘性 (η=s/4π, sはエントロピー密度)に近いη=(1-3)s/4π という粘性をもつ、強結合物質である。

クォーク・グルーオンからなる物質(クォーク・グルーオン・プラズマ、QGP)は初期宇宙において最後の真空相転移を起こし、陽子・中性子・電子からなる現在の宇宙を作った。相転移温度近辺のQGPはほぼ完全流体であり、超弦理論が示す最小のずり粘性 (η=s/4π, sはエントロピー密度)に近いη=(1-3)s/4π という粘性をもつ、強結合物質といえる。

強結合系の最も有名な的な例は強相関電子系であるが、上記の例のように量子色力学(QCD)で記述されるクォーク・グルーオン物質、およびクォーク・グルーオンからなるハドロンや原子核も強相関系である。例えばQCD真空は粒子が存在しない「空っぽ」の状態ではなく、グルーオンはインスタントンやモノポール等の様々なトポロジカルな配位を取ってカラーの閉じ込めを起こし、クォーク・反クォークの対生成と対消滅が常に起こってカイラル対称性が自発的に破れ、クォークは質量を得る。こうして得られる質量はヒッグス粒子によって生まれる質量の100倍程度となるため、我々の世界を作る見える物質の99%以上は相互作用とそこから生まれる凝縮によって作られているのである。

こうした強結合系を記述するには非摂動論的な理論の枠組みが必要である。上述のQCD真空の場合には、格子上にクォークとグルーオンを載せることにより自由度を有限にして厳密な計算を可能とする格子QCDシミュレーションが用いられる。格子QCDは大きな成功を収めており、ハドロンの質量や様々な遷移行列要素、QGPへの転移温度、高温物質の状態方程式などが求められ、実験データを説明するとともに、状態方程式は流体力学に取り入れられ、現在も活発に行われている高エネルギー重イオン衝突の記述に用いられている。さらにこれまでの実験で全く知られていなかったハドロン間の相互作用も予言され、その後の実験で確認されるなど、進展が続いている。これらは古典計算機での課題であるが、物理学の進展にとって重要であり、当センターでの課題の一つである。

しかしながら、これまで格子QCDの数値シミュレーションにおいて主に用いられてきたモンテカルロ法は万能ではなく、符号問題と呼ばれる問題がある状況では計算量が爆発的に増えてしまい、原理的に効率的なシミュレーションが出来ない。符号問題はトポロジカルな項・化学ポテンシャルがある場合や量子系の実時間発展にしばしば現れることが知られている。これらは中性子星内部に存在する有限密度QCD物質の相構造や初期宇宙のダイナミクスといった大変に興味深い物理を含んでいる。したがって、符号問題がある状況でも有効な計算手法を新しく作ることは現代物理学における重要な課題である。

このような状況を打開する方法として、量子計算機を用いたアプローチが近年注目されている。通常の格子QCDシミュレーションにおいては、ラグランジュ形式に基づいた経路積分の数値計算が行われるのに対して、このアプローチではハミルトン形式を用いる。ハミルトン形式の場合、物理量が経路積分で表されないため、符号問題は最初から存在しない。しかしその代償として、数値シミュレーションでは状態や演算子に対応する非常に大きなベクトルや行列を扱う必要があるため、通常の古典計算機では非常に計算時間がかかってしまうと考えられている。そこで将来の量子計算機を使用することで、このような問題が短時間で解かれる可能性が期待されている。実際にはまだ量子計算機の資源が充分に発展していないことに加え、QCDを量子計算機で解析するために有効な手法がまだ確立されていないことなど様々な課題があるが、当センターではこのような課題を解決していくための研究を行っている。