イギリスの歴史。
氷河期には大量の海水が氷となっていたため大陸と地続きであり、ネアンデルタール人などが居住していた。
イギリス南部ソールズベリーにある環状列石の遺跡。青銅器と農耕文明をもつビーカ人と呼ばれる人びとが数回に分けて作り出した。
大陸からケルト民族が移住し住み着いた。
移住したケルト人は鉄器を導入し生産力と人口数が増大、同時に部族間抗争が激化した。その中で最も有力な部族はブリトゥン人であった。
BC55年ローマ皇帝カエサルのガリア遠征からさらにブリタニアへも遠征を受けるもブリトゥン人部隊は戦車戦法で抵抗し撃退した(cf. ガリア戦記)。しかしAD43年、ローマ皇帝クラウディウスの時再びローマ軍の遠征を受け征服され属州となった。
ロンドンのローマ名。ローマ帝国がブリタニア統治のため建設した都市。
大陸でゲルマン人の大移動が始まるとその一派のアングロサクソン人はブリテン島に盛んに移住するようになった。移民の侵入に手を焼いたローマ軍は409年大陸へ引き上げブリタニアを放棄することでローマ帝国によるブリテン島の支配は終わった。
アングロサクソン人の侵入と戦った伝説のブリトゥン人の英雄アーサー王の物語。
移住を進めたアングロサクソン人はケルト人を徐々に圧迫し始め、6世紀末にはブリテン島の東南部から中部を占領、この地は「イングランド(England)(=アングル人の土地(Angle land))」と言われるようになりアングロサクソン人による以下の七王国が島を支配するようになった。
ゲルマン人に圧迫されたブリトゥン人はスコットランドやイギリス海峡を渡り大陸へと移った。ブリトゥン人が移住した大陸の地は「ブルターニュ(Bretagne)」と呼ばれるようになった。
国名 | 民族 | 地方 | 解説 |
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ウェセックス | サクソン人 | 島南部 | 829年にマーシア国を破ると七王国の覇権を握った。 |
エセックス | サクソン人 | 島南部 | マーシアに滅ぼされた。 |
サセックス | サクソン人 | 島南部 | マーシアに滅ぼされた。 |
マーシア | アングル人 | 島中部 | 七王国中最初に有力国となった。以下参照。 |
イースト アングリア | アングル人 | 島東部 | その名の通りイングランド東部を支配したアングル人の国。 |
ノーサンブリア | アングル人 | 島北部とスコットランド | マーシア王国とウェセックス王国の強勢で振るわず、10世紀に統一イングランド王国に編入された。 |
ケント王国 | ジュート人 | 南東部 | ローマ教皇グレゴリウス1世からベネディクト派修道士アウグスティヌスらが派遣され597年イングランドで初めてカトリックが伝えられると、カンタベリー大聖堂が設立されイギリスカトリック教会最上位のカンタベリー大司教が置かれた。 |
七王国中最初に有力国となった。
「南イングランドのすべての者の王」を自称し教会や住民への徴税を強化し王権を強化したが、家臣に反発され暗殺された。
エゼルバルド暗殺の内紛を収めると、他国に攻め入りエセックスとサセックスを滅ぼした。イングランドで最初の法典を編纂、自らの横顔と名前を刻んだ銀ペニー貨を造幣しイングランド全土で普及させ、後のイングランドの通貨の模範となった。
イングランド統一王国時代においては王の個性や独自の判断に大きく依る政治が行われていた。国王が変わるごとに政治が変化し時の王が傍若無人な政策を行うこともしばしばあった。王政の不備を改善すべく貴族らは議会政治を徐々に整備していくが王権も徐々に強化されていく。
829年マーシア国を破りはじめてイングランド王国の王として認められた。その直接的支配はウェセックスとコーンウォール地方、テームズ川以南に限られ、海岸地方にはノルマン人=ヴァイキング(=入り江(ヴィーク)の民)による侵略活動が続き、9世紀の中ごろにはデーン人がイングランドの大部分を制圧した。
エグバートの孫であったアルフレッドは王位に就くと、デーン人の支配地域を北東部に押しとどめそこに統治権を与えてデーン人の居住区(Danelaw)とし、自らは南西部の支配権を保持した。さらにモーセの十戒に基づいた法律(アルフレッド法典)を整備し、自らラテン語を学ぶなど学問を積極的に保護して国家の基礎をつくった。この功績によりイギリス史において唯一「大王(グレート)」と呼ばれる。
アルフレッド大王の孫。デーン人からヨークを奪回。アルフレッド法典を拡張し、通貨を発行、王の立法、司法にかかわる賢人会議を発足させた。
アルフレッド大王の曾孫。王権を強化するため、各地の有力者を教会に集めて戴冠式を行った。
イングランド王国の混乱の後、デーン人の王クヌートは有力貴族の支持を受け正統なイングランド王として迎え入れられた。クヌートは即位するとこれまであったウェセックスにおける法を継承することを宣言、キリスト教に改宗し、前王(エセルレッド)の未亡人(エマ)と結婚するなど現地貴族と協調しながら統治を行った。クヌートは同時にデンマーク王、ノルウェー王を兼ね、スウェーデンの一部も支配し広大な北海帝国を築いた。
クヌートが亡くなるとデーン朝は急速に衰えた。
地方貴族が大規模な領主直営地(荘園)をもちそこで農民を雇って耕作させる経営制度。荘園内にはカトリック教会が建てられ、ヨーロッパ封建社会の基礎となった。
デーン朝の後ウェセックス王家エドガーの孫エドワードが王位に就いた。エドワードは父エセルレッドの亡命先ノルマンディーで育ったためフランス語しか話せず、宮廷の要職を自分が連れてきたノルマン系貴族で固めた。
信仰心に篤く、ウェストミンスター教会を建設するなどキリスト教を熱心に保護し「懺悔王(証聖王)」と呼ばれた。
エドワードの死後、その治世に不満をもっていたアングロサクソン系貴族はハロルドを即位させるも、それに対しフランスノルマンディー公ウィリアムは自らの祖父がエドワード証聖王の母(エマ)であるということを理由に王位継承の正統性を主張、イングランド王国に侵入した。ヘースティングスの戦いでアングロサクソン王朝ハロルドの軍を破り、その年のクリスマスにイギリス王ウィリアム1世として即位した。
ウィリアム1世はイングランド国王として即位したが、フランスノルマンディー公としての立場はそのままであったため、イングランド国王であると同時にフランス王から封土を与えられている臣下という状態になった。
ウィリアム1世はイギリス統治において多くのフランス人を任用してフランス語を公用語にした。以後約300年程は議会や法律など公式な場では主にフランス語が用いられ、大量のフランス語(間接的にラテン語、ギリシア語)が英語に流入した。
ウィリアム1世は征服後アングロサクソン系貴族の土地を取り上げノルマン系貴族に分け与えた。これにより国王と臣下の間に強い封建的主従関係を作り上げた。
ウィリアム1世が1078年に亡くなるとノルマン朝はウィリアムの長男ロベールがノルマンディ公国を、弟のウィリアム2世がイングランドを継承し領土の分割が行われた。しかし弟ウィリアム2世が1100年に暗殺的に事故死すると末弟のヘンリがヘンリ1世を名乗りイングランド王位継承を主張、長兄ロベールはそれを認めず内乱が発生した。戦いはヘンリ1世の勝利に終わり領土の再統一が行われた。
ヘンリ1世が1135年に死去すると、男子の後継者がおらず、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁ぎ後継に指名されていた娘マティルダとウィリアム1世の孫に当たるスティーヴンとの間で王位継承を巡る対立が発生した。最終的にマティルダとその再婚相手であるフランスのアンジュー伯ジョフリ・プランタジネットの間に生まれたアンリが1154年ヘンリ2世としてイギリス国王として即位することで収束した。
ノルマン朝相続争いの後、フランスのアンジュー伯アンリ・プランタジネットが1154年ヘンリ2世と称してイギリス国王に即位、プランタジネット朝を開始した。
父ヘンリ2世からフランス国内の領地(ノルマンディー、ブルターニュ、アンジュー)、母エレアノールからフランスアキテーヌ地方を相続、広大な領域を支配下においた。
広大な支配領域を背景に、時のフランス王フィリップ2世と争い、また第3回十字軍に参加しアラブ側のサラディンと渡り合い「the Lion-hearted」の異名を持った。そのためもありイギリスに居ることはほどんどなくイギリス国民には戦費のみが課され不満が蓄積した。フィリップ2世との戦いで戦死する。
リチャード1世の死後、その弟のジョンがその広大な領土を相続する。
フィリップ2世から自分の離婚結婚問題に裁判をかけられ出廷を拒んだことによりノルマンディー、アンジュー地方を奪われ、フランス国内のイギリス領はギエンヌ地方のみとなった。
身分や血統を否定して人間の平等を主張した言葉。
(SY comment)
陳勝呉広の乱の時に陳勝が農民らに呼びかけた言葉である「王侯将相安んぞ種あらんや」を思い起こす。
イギリスにおける身分制議会。
イギリス絶対王政の全盛期の国王
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房『世界史の窓』 | 『イギリスの歴史』 |
東京書籍、実教出版 | 『世界史B』 |
ミネルヴァ書房 | 『西洋の歴史』 |
趣味の歴史 | 『イギリスの歴史』 |
(SY comment)
アングロサクソン人とは「アングリア(アングル人の国)のサクソン人」という意味であり、大陸のサクソニアと区別する意味で使われた。