ガリア-フランスの歴史。
古代ローマ時代の地名で、現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダ・ドイツの一部にわたる地域。ケルト人の一派が住んでいたとされる。
カエサルから侵攻を受けガリアに住む諸部族は抵抗するも悉く制圧された。
ローマ帝政期にはガリアに住む部族「ケルト族」「ベルガエ族」「アクィタニア族」の居住地に応じて3つの属州に分けて分割統治された。
フランス南東部、イタリアと地中海に接する地域。その名前に過去ローマの属州(Provincia)であったことの名残をとどめている。
ライン川東岸にいたゲルマン人の一派であるフランク人が5世紀に北ガリアに侵入し定住を始めた。
フランク人のサリ族メロヴィング家のクロヴィス(英語読みはクローヴィス)が各部族を統一しガリア北部にフランク大統一王国を建国する。
ガリアを統一したクロヴィスは、同じゲルマン民族の多くがキリスト教の異端であるアリウス派を信仰する中、正統とされたアタナシウス派にいち早く改宗し、ローマ大司教の洗礼を受けた。
これによりローマ教会は476年に滅亡した西ローマ帝国に変わる庇護者を得る一方、メロヴィング朝は教会と貴族から「異端からの解放」という「お墨付き」を得て他地域を征服する大義名分とした。
クロヴィスが没するとゲルマン人の分割相続の原則に従って領土が子孫に分割され、東北部アウストラシア(中心都市:メッス)、中西部ネウストリア(中心都市:パリ)、東部ブルグンディア(中心都市:オルレアン)の三つに分裂しそれぞれが王を称し、南部アクイタニアは三分国の共同管理下に置かれた。
ゲルマン民族大移動の後にライン川中流のブルゴーニュ地方一帯を支配していたブルグント人の王国を征服した。
7世紀後半頃ネウストリアを治めていたメロヴィング家のクロタール2世は三つの分国それぞれに王に代わって実質的に執政を行う宮宰(Major domus:マヨル・ドムス)の職を設けた。
ネウストリアではエブロインが宮宰となると独裁的な権力を握り他の分国の支配を目論むも、アウストラシアで宮宰となったカロリング家の中ピピン(ピピン2世)がクロタール2世を助けてエブロインを失脚させた。勢いをつけた中ピピンはその後強引にネウストリアとブルグンディアの宮宰の地位を独占し、カロリング家の地位を不動のものとする下地を作った。
全王国の宮宰職を掌握し最高実力者となった中ピピンの子シャルル=マルテル(マルテル(Martel)は古フランス語で「鉄槌」)は、イベリア半島からピレネー山脈を超えてフランク王国領内に侵入したウマイヤ朝ムスリム軍をトゥール・ポワティエ間に騎馬部隊を編成して迎え撃ち撃退した。
言語 | 表記 | 読み |
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フランス語/英語 | Charle/s | シャルル/チャールズ |
ドイツ語 | Karl | カール |
ラテン語/スペイン語 | Carolus/Carlos | カロルス/カルロス |
トゥール・ポワティエ間の戦いでムスリム軍に勝利を収めて名声を高めたカロリング家シャルル=マルテルの子小ピピンは、ローマ教皇ザカリアスに使節を送り実力で王位を奪い取ることに対する承認を得ると、751年メロヴィング朝の王を修道院に幽閉して王位に就任、大司教ボニファティウスから塗油を受けローマ教会から正統な国王としての承認を得た。
ピピンの王位就任によるローマ教会とフランク王国の結びつきを警戒したランゴバルド人王国はローマ教皇領へ進撃しラヴェンナ地方周辺を併合、さらなる進軍の脅威にさらされたローマ教皇はピピンに救援要請を行うと、ピピンはランゴバルド人王国に大軍を率いてアルプスを超え首都パヴィアを包囲し奪ったラヴェンナ地域周辺を放棄させローマ教皇へ寄進した。これが最初のローマ教皇領となる。
小ピピンの子シャルルは王位に就任すると領土の拡大を行い、最大時には西ヨーロッパとバルカン半島を除く南欧諸半島を勢力下に納めた。
遠征先 | 年代 | 平定地域 | 補足 |
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ザクセン | 772-804 | ゲルマニア |
ランゴバルド人王国 | 774 | 北イタリア |
後ウマイヤ朝 | 778 | イベリア半島 |
アヴァール人 | 796 | パンノニア(現ハンガリー) |
シャルルから後ウマイヤ朝へ遠征に派兵されたローラン(Roland)が勇猛果敢な戦闘を行ったが、帰還の際しんがりを務めピレネー山ロンスボー峠でバスク人の襲撃により全滅した史実を基にしたフランス最古の英雄叙事詩。キリスト教世界とイスラーム世界との対決の物語となりイスラーム勢力に対する聖戦思想を鼓舞し、1096年に始まる十字軍活動の精神的な後押しとなった。
800年ローマ教会教皇レオ3世の要請でローマに来ていたシャルルはクリスマスを祝うためサン・ピエトロ大聖堂を訪問し礼拝しているとレオ3世に帝冠を置かれ、教会にいた人々に祝福された。これによりシャルルは476年滅亡して以来のローマ帝国の帝位継承者となると同時に、イスラム勢力やギリシア正教会に対するローマ=カトリック教会の庇護者と位置づけられた。
シャルル大帝の子ルートヴィヒ1世(敬虔王)が没すると、その子たちによる分割相続争いが繰り広げられ、843年フランク王国が三分割された(ヴェルダン協定)。その後中部フランクのロタール1世が没すると、870年ルードヴィヒとシャルルはロタール領であるロレーヌ地方を二人で分割して東フランク、西フランクに編入、残った地域をイタリア王国とした(メルセン協定)。以上の相続争いによりフランス/ドイツ/イタリアの国境の原型がつくられた。
地方名 | 現在の地域 | 継承者 |
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西フランク | 中部+西フランス | シャルル2世 |
中部フランク | イタリア+ロレーヌ地方 | ロタール1世 |
東フランク | 中部+東ドイツ | ルードヴィヒ |
地方名 | 現在の地域 | 継承者 |
---|---|---|
西フランク | フランス | シャルル2世 |
中部フランク | イタリア | |
東フランク | ドイツ | ルードヴィヒ |
ノルマン人はフランク王国の分裂に乗じて海を渡って西フランク王国に侵攻し始めた。911年にデンマークにいたロロ(860-933)はノルマン人部族を率いてフランスに侵入、シャルトルを包囲すると時の国王シャルル3世は、フランス中心部へ侵入されることを防ぐために、
を条件に北方の地域を公国(フランス国王の臣従となりながら支配権を与えられた地方政権)とすることを約束、ロロもそれを同意しノルマンディー公国が成立した。
この結果、ノルマン人の領土侵攻を許した西フランク国王は権威を失墜し、有力諸侯は従士団を率いて分立するようになった。
ノルマンディー公ギヨーム(英: ウィリアム)はイギリスでエドワード証聖王が没すると王位継承争いを起こしイングランド王国に侵入、1066年イギリスを征服(ノルマン征服)してノルマン王朝を打ち立てた。
カペー朝から西フランク王国は「フランス王国」と称されるようになった。
西フランク王国のカロリング家の王統が途絶えると、ノルマン人の撃退に功績のあったロベール家出身のパリ伯ユーグ カペーが有力諸侯から推されて王位について始まった。
(SY comment)
カペー家の血統は現在まで続いているらしい(➡[参考])。
第一身分が聖職者、第二身分が貴族、第三身分が商人や農民で構成される身分制度を基盤とし、第一身分と第二身分が国土の大半と重要官職を独占かつ免税特権を持っている一方、残りの人口9割にあたる第三身分が地代や税負担を負う制度。フランス革命によって打倒されることになる。
フランス国内のイギリス領の奪取を目指し、リチャード1世を戦死させその弟ジョンが後継に立つとジョンの離婚問題に裁判にかけ出廷を拒んだことを口実にノルマンディー、アンジューを奪った。それに対しジョン王は甥の神聖ローマ皇帝やフランドル伯とともにフランスに攻め入るも(1214年ブーヴィーヌの戦い)ジョン軍を撃退し、奪った領土を守った。
中世フランスの身分制議会。フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世と争い対立した際の1302年に初めて開催され、国王が各身分の代表者を召集し新税の課税を承認させ王権の基盤強化を図った。三部会は以後1614年に一旦閉鎖されるが、フランス革命直前に再び招集される。
(SY comment)
当時のイギリスにおける模範議会に相当。
フランス絶対王政の全盛期の国王。「太陽王」と称された。
ルイ16世下のフランスは、1775年から始まったアメリカ独立戦争に中途から参戦することを決めたため対外戦争による負債が増加、さらに王妃マリ・アントワネットらによる奢侈的な生活や天候不順による凶作によって財政危機が深刻化した。ルイ16世は重農主義者テュルゴーや銀行家ネッケルを採用し財政改革を指示、彼らは三部体制下の特権階級である第一身分や第二身分に対し課税を試みたが、貴族らは集団で課税を拒否したため財政改革は空振りに終わり、それにより絶対王制の権威が揺らぎ政治(統治)危機へと発展した。そこでルイ16世は1789年ヴェルサイユにおいて三部会を再招集した。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房『世界史の窓』 | 『フランスの歴史』 |
東京書籍、実教出版 | 『世界史B』 |
ミネルヴァ書房 | 『西洋の歴史』 |
(SY comment)
宮宰という職が日本において天皇を補佐する摂政や関白と役割がよく似ていることから、「摂関政治(regency government)」との対比で「宮宰政治」と呼ぶことにした。フランク王国でカロリング家の大中小ピピンは宮宰政治で隆盛しローマ法王に取り入ってカロリング朝を打ち立て国家第一当主となる一方、日本平安時代において藤原家の道長/頼通は摂関政治で隆盛するも国家の第一当主にはなれなかった。このことの背景には、日本という国が外部と孤立し他の権威からお墨付きを得ることが難しかったことにあるのかも知れない。