エジプトの歴史。
伝説上の王メネスが上下エジプトを統一し最初の統一国家を作ったとされる。ファラオによる神権政治が行われ多数のピラミッドが造営、青銅器文明を発達させた。
「太陽神ラーの代理者」という意味でエジプトの王となり神権政治を行った。『旧約聖書』では「パロ」として登場する。
日干し煉瓦を四面体状に積み上げた大規模な造営物。ファラオが自身の王墓や神殿、権威の象徴などのために造営させた。
地方豪族の自立などで古王国が衰退すると、分裂期を経てBC2000年頃テーベを中心としてメンチュヘテプ王が再びエジプトを統一した。
ヒクソスとは「異国出身の支配者たち」を意味する。前18世紀頃騎馬と戦車を使ってエジプトに侵入、前1650年にエジプト最初の異民族王朝である第15王朝を成立させ、新王国に追われるまでの約1世紀の間エジプトを支配した。
第18王朝の王。北方の脅威となっていたミタンニ王国に対し遠征を開始、軍をユーフラテス川まで進め、バビロンを支配していたカッシート、アッシリア、ヒッタイトなどのアジアの諸王朝と対等な関係を築くと、ナイル川上流ヌビア地方のクシュ王国を属国としエジプト史上最大の領域を獲得した。
アレクサンドロス大王の部将であり、後継者(ディアドコイ)の一人であったプトレマイオス1世がエジプトを支配した。それまでのエジプトの王家の支配はここで終わりを迎えた。
プトレマイオス1世の命で首都に設置された研究施設。プトレマイオスは若い頃アレクサンドロスとともにアリストテレスに学んだせいもあり文芸に理解が深く、各地から研究者を招いて自然や人文の研究を推進し、エラトステネス、アルキメデス、エウクレイデス(ユークリッド)らが研究に従事した。
BC323年バビロンでアレクサンドロス大王が死ぬと、大王が生前エジプトの西方アモン神殿に埋葬されることを望んでいたにもかかわらず、摂政ペルディッカスはマケドニアの古都アイガイに埋葬しようと霊柩車を送り出した。しかしシリアを通過するとき、プトレマイオス1世は軍を差し向けて遺体を奪い取りメンフィスで大王の葬儀を行い後に遺体をアレクサンドリアに移した。大王の遺体を首都に安置することで、大王の権威を利用して自分のいる場所の神聖化を図るとともに自らをアレクサンドロスの正統な後継者であるとアピールする狙いがあった。
ロゼッタ=ストーンはBC196年プトレマイオス5世の業績をたたえる石碑で、ナポレオンのエジプト遠征のときにアレクサンドリアの近くで発見された。神聖文字(ヒエログリフ)、デモティック、ギリシア文字が三段に分かれて彫られており、この時期にエジプト文明とギリシア文明の両要素が併存するというヘレニズム文明の特徴をよく表しており、ヒエログリフの解読のきっかけとなった。
和解を仲介するカエサルを前に、クレオパトラに実権が移ることを恐れたプトレマイオス13世は海上から王宮を包囲して二人を襲撃した。この戦いでアレクサンドリアの市外に戦火が及びムセイオンが焼失してしまいアレクサンドロス大王以来の貴重な文献の多くが失われた。カエサルは無勢であったので苦戦したが最終的にはエジプト軍を制圧しプトレマイオス13世は戦死した。BC47年クレオパトラを女王(7世)としもう一人の弟プトレマイオス14世を名目上の夫として共同統治させるという形で復位させると、カエサルはクレオパトラの求めに応じて正式に結婚、豪華な結婚儀式を行い一子(カエサリオン)をもうけた。
カエサルが暗殺されると身の危険を感じたクレオパトラはローマからエジプトに戻った。クレオパトラは権力闘争からパルティア遠征を目論むアントニウスを篭絡し結婚して3人の子をもうけるも、ローマでは徐々にオクタウィアヌスの名が高まっていった。カエサルの養子であるオクタウィアヌスが権力を握ればカエサリオンの立場は悪くなると考え、アントニウスに迫りオクタウィアヌスの姉でもある妻のオクタヴィアと離婚させた。このことが引き金となってオクタウィアヌスとの決戦がマケドニア近海アクティウムで始まった。
アントニウス・クレオパトラ軍は数で勝るも機動力で上回るオクタウィアヌス軍船に翻弄され戦況は不利、勝利を諦めたクレオパトラはアレクサンドリアに撤退、アントニウスは戦場を離脱しクレオパトラを追ってアレクサンドリアに逃れた。非情なクレオパトラはアントニウスを見放し、失意の中アントニウスは自殺した。クレオパトラは今度はオクタウィアヌスに誘惑を試みるも断られ逆に監禁される。もはやオクタウィアヌスを籠絡するのは無理とさとり、かねてから用意していた毒蛇に胸を咬ませて自殺しプトレマイオス朝は滅亡した。
プトレマイオス朝が滅亡すると、 エジプト地域は重要な穀倉地帯となり毎年莫大な量の小麦が帝国に運ばれローマ帝国市民の主要な食糧となった。
395年ローマ帝国が東西に分裂すると、エジプト地域は東ローマ帝国の属州に組み込まれた。
7世紀にアラビア半島で興ったイスラーム勢力がシリア、パレスティナ=カナーンの地域に侵攻して東ローマ帝国軍を破ると続けてエジプトに侵入し641年首都アレクサンドリアを陥落させた。
ムスリム軍はエルサレム近くのナイル河畔に都市フスタートを建設しエジプト統治と西方進出の拠点とした。
(SY comment)
イラン=ペルシアではムスリム軍が進出するとゾロアスター教に代表されるイラン文化とイスラーム文化が融合して「イラン・イスラーム文化」を形成したが、パレスティナ=カナーンやエジプトの地域では背景にはユダヤ教・キリスト教がありイランで起きたような文化の融合は起きなかった。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 | 『エジプト』 |
実教出版 | 『世界史B』 |
(SY comment)
エジプト地域は文化的にも西アジアと近く、西アジアは非西アジアとは文化的に異なる部分が多いことから、西アジアとエジプト地域を合わせた地域を「中東」と呼ぶことがあり、本ノートでもこの慣例に従い「中東」と言った場合にはこれらの地域を指すことにする。