アナトリア(別名:小アジア)の歴史。ヒッタイトからトルコ共和国まで。
インド・ヨーロッパ語族ヒッタイト人。旧約聖書ではヘテ人(ハッティ)とも呼ばれている。(➡ [勢力図])
史上初めて鉄器の製造を行い、それを用いて強力な武具を製造した。
ハンムラビ王の死後急速に衰えた古バビロン王朝(バビロン第1王朝)を遠征、滅亡させた。
エジプト新王国と争い、前1286年頃にラメセス2世とシリアのカデシュの戦いで対決、史上初と言われる国家間講和条約を締結した。
海の民の侵攻により滅亡したとされる。これによりヒッタイトが独占していた鉄器製造技術が各地へ伝搬した。
インド・ヨーロッパ語族系統の王国。史上初めて貨幣を使用した。
エーゲ海に面したエフェソスを支配し巨大なアルテミス神殿を建造、リディア王国の最盛期を築いた。しかし、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世と対立し開戦するも破れリディア王国は滅亡した。
BC546年キュロス2世率いるアケメネス朝ペルシア軍に侵攻されリディア王国は滅亡、アナトリアはアケメネス朝ペルシアに占領された。
ギリシアマケドニア王国からアレクサンドロスが東方遠征を開始し、アケメネス朝ペルシアの勢力を駆逐した。
アレクサンドロス大王の死後、その後継者(ディアドコイ)は相続地を巡って争いアナトリアは広大なセレウコス朝シリアの領土の一部となった。(-> イプソスの戦い )
アナトリア(小アジア)のポントス王ミトリダテス6世はイタリア半島で同盟市戦争が起こったことを契機に挙兵するも、3度の戦いの末に最後は将軍ポンペイウスによって鎮圧された。
名称 | 年代 | 解説 |
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第一次 | BC88-85 | BC88年ミトリダテスは戦いに勝利してこの地方にいたおよそ8万のローマ人を虐殺、イタリア半島やイベリア半島の反ローマ勢力とも連絡を取ると、ギリシアのアテネでミトリダテスの支持を受けた民衆政治家が貴族の支配を倒しその財産を収奪した。ローマは将軍スラを派遣しアテネに報復の総攻撃をかけて殺戮と掠奪を行ったが、ローマでは対立する平民派のマリウスがローマの実権を奪取したため、スラのローマ軍はBC85年に講和に持ち込みローマに退却した。 |
第二次 | BC83-81 | スラはミトリダテスに味方した諸都市に賠償金や様々な税を課したため、それらの都市の期待を受けミトリダテスは再び反乱を起こした。BC83年から81年に渡って争いを繰り広げたが再び講和した。 |
第三次 | BC70-63 | BC66年にローマ軍はポンペイウスが指揮を執ると形勢が一変し抵抗を続けていたミトリダテス軍は大敗した。クリミア半島に逃れたミトリダテスはガリア経由でのローマに反撃の機会を狙ったが、兵士が反乱を起こし自害に追い込まれ、BC63年戦争は終結した。 |
テオドシウス帝の死後その長子アルカディウスが即位し正統なローマ帝国の継承国家であると主張、即位当初からローマ帝国と名乗った。コンスタンティノープルを中心として東地中海・バルカン半島・小アジアを支配しギリシアの影響を受けながら発展、西方ローマ教会と対立し始める頃から都の旧名ビザンティオンの名をとって「ビザンツ(ビザンティオン)帝国」と呼ばれるようになる。
イエスに対して神性と人性の二つの位格(persona)しか認めないネストリウス派/受肉前は神性と人性の両性をもつが受肉後に人性が神性に吸収され単一性をもつ存在になると考える単性説が、エフェソス/カルケドン公会議で異端として退けられ、三位一体説の正統性が確認された。その後ネストリウス説は東方に拡がりササン朝ペルシアを経て、唐代の中国に伝わり景教と呼ばれる一方、単性説はエジプト(コプト教会)、シリア(ギリシア正教会)、アルメニア(教会)、エチオピア(教会)など東方に拡がった。
名称 | 年 | 主催者 | 内容 | 補足 |
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ミラノ勅令 | 313 | コンスタンティヌス帝 | キリスト教が公認された。 | |
ニケーア公会議 | 325 | コンスタンティヌス帝 | アタナシウス派が正統とされアタナシウス派が異端とされた。 | その後コンスタンティヌス帝はアリウス派を認めてアタナシウス派を追放するなど混乱が続いた。 |
コンスタンティノープル公会議 | 381 | テオドシウス帝 | アタナシウス派の三位一体説が正統教義となった。 | これ以外の信仰や宗教を法的に禁止したため実質的にキリスト教が国教となった。 |
エフェソス公会議 | 431 | テオドシウス2世 | ネストリウス派が異端として退けられた。 | その後ネストリウス派は唐に伝わり景教と呼ばれた。 |
カルケドン公会議 | 451 | マルキアヌス帝 | ローマ司教レオ1世によって単性説が異端として退けられた。 | その後単性説は東方エジプト、シリア、パレスチナなどに拡がった。 |
ユスティニアヌス帝(在位:527-565)は対外遠征を行いゲルマン人に奪われていたかつてのローマ帝国の領土を回復して地中海世界再統一し、その結果東ローマ帝国の領土は最大となった。
将軍ベリサリウスの軍勢を派兵し534年ヴァンダル王国を滅した。
同じく将軍ベリサリウスの軍勢がイタリアに派兵され、20年にわたる戦争の結果東ゴート王国を征服しイタリア半島の支配を回復した。その後まもなく西ゴート人王国へ遠征も行いイベリア半島南部を占領した。
ゲルマン人の一派であるランゴバルド人はユスティニアヌス帝が東ゴート王国の征服に協力したが、皇帝の死後反旗を翻し北イタリアに侵入し568年にランゴバルド人王国を建国した。
ササン朝ペルシアと領土争いを行っている間にアラビア半島でイスラム教が勃興しイスラーム勢力が台頭、正統カリフ時代のウマルの時に635年シリア、638年エルサレム、641年エジプトを奪われた。
726年東ローマ皇帝レオン3世はキリスト教の信仰のためにつくられたイエスやマリアなどを描いた像(聖像)や絵画(聖画)を作成、崇拝することを禁止するとそれらイコンの破壊とイコン擁護派の総主教の罷免を行った。この時期にレオン3世が聖画像禁止令を出した理由は(その後聖像禁止令が撤回されると聖像破壊派の著作が異端の書として焚書され現存しないため)明らかにはなっていないが、帝国を脅かし始めたイスラム教国に対抗するためイスラム教同様一神教の原則へ回帰して教会や修道院の影響力を抑制しそれらのもつ徴兵・徴税が免除された領有地を没収して財政や軍備の増強を図る意図があったと考えられている。
聖像禁止令は聖像をゲルマン人への布教に用いていたローマ教会には極めて都合が悪くこの決定に強く反発、イコンの破壊者(イコノクラスト)を破門にするなど東西キリスト教会の対立は激化していった。聖像禁止令は843年に解除されたが後の東西キリスト教会の分裂につながる契機となった。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 | 『トルコ共和国』 |
実教出版 | 『世界史B』 |
(SY comment)
戦いに破れ捕らえられたクロイソス王がキュロス2世に「わしの友とならず敵となったのはだれのしわざか」と訊ねられた際に述べた言葉が、「平和より戦争をえらぶほど無分別な人間がどこにいるだろうか。平和の時には子が父の葬いをする。しかし戦いとなれば、父が子を葬らねばならない。...」であったらしい。