アラビア半島史 (History of Arabian Peninsula)

 

アラビア半島史。

無明時代 荒) جاهلية Jāhiliyyah: ジャーヒリーヤ

イスラム教が現れる前のアラブの時代の呼称。ジャーヒリーヤ時代では、宗教は多神教であり偶像崇拝が行われ、樹木や石に霊が宿ると考える精霊崇拝が行われていた。また、「時(ダフル)」が支配する宿命論に支配され、死後の世界はないと考えられていた。このため、ジャーヒリーヤ時代の人々は現世を享楽的に過ごす刹那的現世主義であり、規律や権威も部族以来の伝統からくるもの以外はなく自由主義的な生き方をしていた。

(SY comment)
アラビアの当て字は「亜剌比亜」で(「亜」はすでに「アジア」の当て字として使われているため)アラビア語には「剌」が使われるようであるが、本ノートではアラビア語の当て字として「荒」を使うことにする。個人的にアラブの歴史は荒ぶっているイメージもありこの当て字はアラブをイメージしやすいかもしれない。

メッカ Mecca

イスラームの聖地として知られるアラビア半島西部の都市。ジャーヒリーヤ時代の6−7世紀、アラビア半島周辺では東ローマ帝国ササン朝ペルシアが対立しており陸路による東西交易が難しくなったことから、隊商はインド洋から北上してメッカを経由しシリアやバスラへと向かうようになった。この隊商路に入っているメッカが商業都市として栄え、その巡礼地であるカーバ神殿を管理するクライシュ一家が有力になっていった。

現在メッカやメディナはムスリム以外禁制である。

カーバ神殿 Kaʻaba

アラビア語で「立方体」。無明時代においてカアバ神殿はアッラーを最高神とする多神教の神殿であり多数の偶像も祀られ巡礼地として栄えていた。ムハンマドがイスラム教を創始するとイスラム教徒によって偶像はすべて破壊され唯一黒石の塗り込められた壁だけが残された。現在イスラム教の最高の聖地とされる。

(SY comment)
ムハンマドらによるこれらの行為は、近年のISによる仏像などの歴史遺産の破壊につながってはいないだろうか?彼らの蛮行が過去のムハンマドによるこれらの行為によって正当化されている可能性は否めないように思われる。

イスラム教勃興

クライシュ族の一青年であったムハンマドイスラム教に目覚め影響力を増すようになると、ジャーヒリーヤにあった価値観が根底から覆され、多神教から一神教へ、現世主義から来世主義へ、従うべき権威が先祖伝来の慣行から神の啓示へ、血縁や部族といった伝統な人間関係から唯一神信仰による神の下への統一へと変わっていった。

イスラム教国 荒) أمّة‎ Umma: ウンマ

イスラム教の勃興によりアラビア地域の血族伝統は破壊された。その一方で伝統に含まれていた悪習が否定されることにつながり、例えば、イスラーム以前の部族社会では幼児や女性などは戦力にならず人格が認められていなかったが、イスラームではそれが認められ女児殺しが禁止されたり女性にも相続権が認められるようになった。

イスラム教が(絶対的な)基準として運営される共同体はウンマとも呼ばれる。

(SY comment)
イスラム教は迫害の時代を乗り越え権勢を迎えることとなるが、これにより従来の地域血族伝統がムハンマドとその家系(クライシュ族)を頂点とする新しい血族伝統に取って代わられる結果になっている。イスラム教によりアラビア地域から血族伝統が無くなったわけではない。またイスラム教によって女性の人権蹂躙が改善され続けるとは限らず、実際例えばイスラム教を奉じる共同体において女性に対する尊属殺人が起きても実行した親族は罪には問われず見過ごされるというニュースをしばしば見かける(2019/Sep/7記)。

預言者時代 622-632 / 首都:メディナ

イスラム教の開祖であるムハンマドヒジュラを経てメディナで執政していた時代。次の正統カリフ時代とともにムスリムにとって最も理想的な時代とされる。

ヒジュラ Hijra / 622

イスラームなる新興一神教は既存の多神教や社会体制と相入れないものであったため、メッカで布教の過程でムハンマドは様々な迫害を受けた。その迫害から逃れるためメッカから(ターイフを経て)メディナへと移住し新たな伝道の拠点とした。

メディナ憲章 Madina Constitution

ムハンマドがメディナ(マディーナ)に移住後に残した法規定で、ムスリム、多神教、ユダヤ教の部族間での集団安全保障協定のこと。メディナに移住後、ムハンマドは司法、行政、外交などの政治的影響力を強めた。特に、メディナ市民で意見が割れた時には神とムハンマドに問題解決の最高決定権が委ねられた。

ジハード 荒) جهاد jihād

アラビア語で「苦闘、奮闘、努力」。

本当に信仰して移住した者たち、財産と生命を捧げて、アッラーの道のため奮闘努力〔ジハード〕した者たち、またかれらに避難所を提供して援助した者たち、これらの者は互いに友である。また信仰した者でも、移住しなかった者については、かれらが移住するまであなたがたは保護する義務はない。只し、かれらがもし宗教であなたがたに救援を求めるならば、あなたがたと盟約のある間柄の民に逆らわない限り、これを助けるのはあなたがたの義務である。アッラーはあなたがたの行うことを御存知であられる。(クルアーン8章75節)

ズィンミー dhimmī

アラビア語で「保護(dhimma)を受けた民」。ユダヤ教徒、キリスト教徒など、啓典を同じくするが征服されてもイスラム教に改宗しない人々を指す。ズィンミーはジズヤを払えばイスラム教に改宗することを強制されず生命や財産を保護された。

アッラーも、終末の日をも信じない者たちと戦え。またアッラーと使徒から、禁じられたことを守らず、啓典を受けていながら真理の教えを認めない者たちには、かれらが進んで税〔ジズヤ〕を納め、屈服するまで戦え。(クルアーン9章29節)

ジズヤ 英) jizya

ズィンミーに課された人頭税のこと。預言者時代では土地所有者が支払う地租ハラージュと区別されていなかった。

正統カリフ時代 632-661

正統カリフがウンマを治めていた時代。正統カリフ時代にもジハードが展開され領土の拡大が行われた。(➡ [外部リンク])

正統カリフ
名前 在位 解説
アブー・バクル
Abu Bakr
632-634 初代カリフ。クライシュ族のタイム家出身。ムハンマドの友人であり娘はムハンマドの妻の一人であったため義父でもある。ムハンマドが死んだ日に信者の集会で初代カリフに選ばれると、離反したアラビアの部族を討って統一を維持、イラクやシリアに対しジハードを指揮し領土を拡張させた。634年にメディナで死去する前に後継者としてウマルを指名した。クルアーンを編纂しムハンマドの教えとして伝えられたものを整理した。
ウマル
Umar
634-644 クライシュ族のアディー家出身。娘がムハンマドの妻の一人であった。アブー・バクルから後継者に指名された。ヒジュラ以前にムハンマドを迫害していたが、後に改悛してムスリムとなったことから「イスラームのパウロ」と呼ばれる。聖戦(ジハード)を繰り広げウンマの拡張に尽力した。
ウスマーン
Uthmān
644-656 クライシュ族のウマイヤ家出身。次期カリフのアリーを含む複数の候補者からカリフに選出された。征服活動を一段落させクルアーンを再度編纂し公定したもの以外の焼却処分を行った。しかし最前線で駐屯する戦士は戦利品を手に入れることが出来なくなったことや、またウスマーンがウマイヤ家出身者を重用したことによって不満が高まり、メディナのカリフ邸に押しかけた反乱軍によってクルアーン読誦中に殺害された。
アリー
Ali
656-661 ムハンマドと同じハーシム家出身(ムハンマドの保護者であったアブー・ターリブの息子)でその娘ファーティマの夫。ウスマーンの後継者となったムアーウィヤとの激しい主導権争いの中アリーはカリフに就任したが、ムハンマドの晩年の妻で初代カリフのアブー・バクルの娘アーイシャやムアーウィヤから反発を受け内乱が発生、ムアーウィヤと和議によって内乱を治めたが徹底抗戦を訴える支持者ら(ハワリージュ派)によって最後は暗殺された。

中東攻略 635-641

ウマル軍はシリアに進出しダマスクスを攻略すると東ローマ帝国ヘラクレイオス1世の12万の軍勢を4万の軍で撃破して占領地とした。637年にはカーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍に勝利しその都クテシフォンを制圧する一方、西方にも軍が派遣され東ローマ帝国領であるシリア、エルサレム、エジプトをそれぞれ636年、638年、641年に征服した。

ササン朝ペルシア攻略 642-650

ウマル軍は642年ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアに勝利しササン朝は瓦解、最後はウスマーンの指令によって逃亡したササン朝の王も殺されササン朝は滅亡した。

アター Ata

アラビア語で「贈り物」。ウマルの時代より始まった軍人や官僚へ俸給として支払われた現金のこと。軍人登録台帳(ディーワーン)に登録されたアラブ人の戦士に支給されアラブ人の特権となった。後のウマイヤ朝アッバース朝においても継承される。

内乱とアリー暗殺 656-661

アリーがカリフすると間もなくムハンマドの晩年の妻で初代カリフのアブー・バクルの娘アーイシャを中心とした反乱が起き、戦闘ではアイーシャはラクダに乗って反乱を指揮した。この「ラクダの戦い」とも呼ばれる戦いをアリーは制したが、続けてウスマーンの後継者であるウマイヤ家の家長ムアーウィヤによってウスマーン殺害の嫌疑をかけられ抗争に発展、ムアーウィヤと和睦することで内乱を治めた。しかしムアーウィヤへの徹底抗戦を訴えた支持者らは失望しアリー陣営を離脱して新しい派閥ハワリージュ派を形成、660年ムアーウィヤがカリフを宣言すると、ハワリージュ派はムアーウィヤ、アリー双方に刺客を送り込みアリーは暗殺された。

ウマイヤ朝 661-750 / 初代: ムアーウィヤ / 都: ダマスクス

アリーが暗殺されるとカリフを宣言していたムアーウィヤがウンマの指導者としての地位に就いた。ムアーウィヤ以後カリフの地位はウマイヤ家に世襲されたためウマイヤ朝と呼ばれる。

カルバラーの戦い Battle of Karbala / 680

ムアーウィヤが死にその子ヤズィードがカリフの地位を世襲することが決まると、アリーの実子のフサインを中心とするシーア派がバグダード近郊のカルバラーでウマイヤ朝に対し反乱を起こした。フサイン軍70余名に対しウマイヤ朝軍4000とも言われる戦いの結末は明らかでフサイン軍は敗れフサインは従者とともに殺害された。

最盛期: アブド・アルマリク Abd al-Malik / 在位: 685-705

ウマイヤ朝第5代カリフ。領土の拡大を図ると同時に広大になった領土に対し統一政策を施した。

内乱の鎮圧 683-692

初代カリフのアブー・バクルの娘の子イブン・アッズバイルがメッカでカリフを自称すると討伐隊を派遣しイブン・アッズバイルを死に至らしめ内乱を鎮圧、その後まもなくエルサレムに岩のドームを建築した。

貨幣の統一

クルアーンの章句と自らの名前が刻まれた統一貨幣ディーナール金貨/ディルハム銀貨を発行、イスラーム圏の経済発展の基礎となり次のアッバース朝にも継承された。

言語の統一=アラビア語の公用語化 695

広大な領土を統治するため公用語をアラビア語に統一し、諸地域の行政用語(イラン:ペルシア語、シリア:ギリシア語、エジプト:コプト語)をアラビア語に転換させた。

マワーリー Mawālī

マウラ(Mawlā)の複数形で一般には「保護者」を意味し、イスラム教に改宗した非アラブ人。ウマイヤ朝前期には非イスラム教徒のズィンミーにはジズヤハラージが課せられていたため、征服された多くの異教徒はイスラームに改宗し現地の土地を捨てて都市に流れこんだ。地租収入の減少を危惧したウマイヤ朝政府はマワーリーを強制的に帰還させる政策を行ったが、このようなアラブ人優遇政策はマワーリーの不満の増大につながりクーデタ発生を引き起こすこととなる。

ハラージ Kharāj

ズィンミーマワーリーに課された地租のこと。ウマイヤ朝後期にはアラブ人ムスリムにも課されるようになった。

トゥール・ポワティエ間の戦い 732

イベリア半島制圧後、ウマイヤ朝ムスリム軍はピレネー山脈を越えてフランク王国内に侵入するも、トゥール・ポワティエ間においてメロヴィング朝の宮宰カール=マルテルが組織した軍によって進撃が阻止された。

アッバース家反乱 750

ウマイヤ朝の「アラブ至上主義」はイラン人ムスリムなどのマワーリーシーア派の反発を強めていった。アッバース家のアブー・アルアッバースは「預言者の一族をカリフに」というスローガンによって反体制派のムスリムを反ウマイヤ朝の運動に取り込んで反乱を指揮し、750年ウマイヤ朝は倒れた。生き残ったウマイヤ家の人々はイベリア半島に入り後ウマイヤ朝を建てた。

アッバース朝 750-1258 / 初代:アブー・アルアッバース / 都: バグダード


主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧

教材工房 『世界史の窓』 『シリア』
Wikipedia 詳しい解説がある。
実教出版 『世界史B』