メソポタミア地方の歴史。メソポタミア文明からイラクまで。
ティグリス・ユーフラテス川の流域のメソポタミアに成立した人類最古と考えられている文明。
BC9000年頃、肥沃な三日月地帯に初期の農耕文明(天水農業、土器の使用、ムギ栽培、日干し煉瓦による住居)が生まれ、その後潅漑農業が発達するようになり、前5500年頃南部の乾燥地帯に大規模な定住が進んで都市が形成された。
民族系統が不明なシュメール人がメソポタミア南部ウル、ウルク、ラガシュなどの地域で20ほどの都市国家を形成、その後国王が権力を握る王国が成立した。
シュメール人都市国家の一つ。「信仰(ユダヤ教)の父」「啓典の民の始祖」とも言われるアブラハムはこの地域出身。
泥を固めた日干し煉瓦を積み上げアスファルトで接着した、七層からなる塔の神殿で「聖塔」とも呼ばれる。BC2300年頃に南部を支配したアッカド王国や後の新バビロニア王国においても首都バビロンに建てられた。旧約聖書『創世記』において現れたバベルの塔はこのジッグラトを指すものと考えられている。
この時期のシュメール人都市国家では既に楔形文字と呼ばれる文字の使用が確認されており、粘土板に記された。1861年ローリンソンによって解読が行われた。
ウルク第1王朝時代の王ギルガメシュを主人公にした人類最古の英雄叙事詩(神話)で女神イシュタルの誘惑を振り切り不死の薬草を求めて旅をする話。粘土板に楔形文字で書かれたものが残されている。特にこの中に旧約聖書『創世記』の大洪水とノアの箱船の話の原型が含まれていることが判明、旧約聖書が世界最古の本であると信じていたヨーロッパの人々に激震が走った。
青銅器とは銅鉱石と錫を溶かして鋳造された金属器。
BC2100頃メソポタミアを支配したシュメール人のウル第3王朝のウル=ナンム王の時世界最初の法典(ウル=ナンム法典)の編纂が行われ、後の王朝も何らかの形で法典を残した。
その後セム系遊牧民アムル人がティグリス・ユーフラテス川中下流域に侵入、紀元前1900年頃バビロンを都に建設し、メソポタミア文明を継承、発展させた。(➡ [勢力図:外部リンク])
第6代目の王。官僚と軍隊を整備、駅伝制や灌漑用水路の建設を行い、交易や商業も保護、ハンムラビ法典を制定しバビロン第一王朝の最盛期を実現した。
先行するシュメール法典を集大成した法典。「目には目を、歯には歯を」という復讐法(同害報復)が規定されるが、階級法典で身分によって刑罰に差を与えることを定めた。
バビロン第一王朝はハンムラビ王の死後カッシートに圧迫され衰えると、最終的にはヒッタイトによってBC1595年に滅ぼされた。
バビロン第一王朝がヒッタイトによって滅ぼされると、民族系統が不明のカッシート(カッシュート)がバビロニアに入り、前1550年頃バビロンを都に国を建てた。シュメール人以来のメソポタミア文明を継承したためバビロン第三王朝ともいわれる。(➡ [勢力図:外部リンク])
イラン高原からエラム王国が侵攻してきてカッシートは滅亡した。
BC3000頃にメソポタミア北部アッシュールに都市国家を作っていたアッシリア人は青銅器の原料になる錫をイラン高原から採取して中継貿易で栄えていた。BC15世紀にミタンニに服属するが、ヒッタイト滅亡後鉄器製造技術を継承しBC9世紀には鉄製の戦車と騎兵からなる軍を整備し領土拡大に努め、抵抗した国は滅ぼし服従した国は属国として支配しながらメソポタミアとエジプトからなる中東地域(オリエント)を統一、世界最初の帝国を実現した。
サルゴン2世はシリアに派兵し、ダマスクスに拠点をもつセム語族のアラム人を征服した。アッシリアはアラム人が用いていたアラム語とアラム文字を採用、楔形文字で書かれるアッカド語とともに利用された。この慣習はアケメネス朝ペルシアでも続けられた。
メソポタミア地域の文化の中心地であったバビロンを支配下に収めた。
反旗を翻したイスラエル王国に派兵しイスラエル王国を滅ぼす。ユダ王国はアッシリアに朝貢することを選び属国となった。
アッシュール=バニパル王が前7世紀前半にエジプトを征服、複数の国々を統括する史上初の世界帝国となった。
広大な領土をいくつかの州に分けて総督を置き交通網を整備して各地の情報を首都ニネヴェに収集し楔形文字で保存を行った。
セム系遊牧民カルディア人が王国を建国、イラン高原のメディアと連合してアッシリア帝国を滅ぼした。(➡ [勢力図:外部リンク])
ネブカドネザル2世はBC593とBC586の二度に渡ってパレスチナに遠征しユダ王国を滅ぼすと、ユダヤ人はバビロンに連行され受けた苦難を旧約聖書に書き残した。
キュロス2世率いるアケメネス朝ペルシア軍が侵攻してきてカルデア王国は滅亡した。このときキュロス2世はバビロン捕囚となっていたユダヤ人を解放したため、旧約聖書にはキュロス大王は「解放者」として讃えられている。
ギリシアマケドニア王国からアレクサンドロスが東方遠征を開始し、アケメネス朝ペルシアの勢力を駆逐した。
アレクサンドロス大王の部将であり、後継者(ディアドコイ)の一人であったセレウコスが自立し、前312年に建国したシリア王国の王朝。現在のシリアよりも広い、古代シリアを中心に、イラン高原を含む、かつてのペルシア帝国の広大な領土をほぼ引き継いだ。(➡ [勢力図:外部リンク])
セレウコスはディアドコイ戦争を終えて領土を平定すると、アレクサンドロスが志半ばで終わったインド遠征を行いマウリヤ朝チャンドラグプタ王と争うも、敗退しアレクサンドロス大王が獲得したインドの領土をすべて失った。
セレウコス朝内からギリシア人総督ディオドトスが独立しバクトリア王国が誕生した。
パルティアの古称を持つイラン高原北東部において、パルニ族を率いていたアルシャク(アルサケス)が独立しパルティア国王として即位、遠征軍を送ったが追い返され独立の阻止に失敗した。
ローマ帝国ポンペイウス率いる軍によって滅ぼされ、ローマの支配地に組み入れられた。
ブワイフ朝の頃にシーア派の根本教義(「不可謬のイマーム論」「イマームのガイバ論と終末思想」)などが確立した。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 |
実教出版 | 『世界史B』 |