ペルシアの歴史。エラム王国からイランまで。
BC22世紀ごろ、イラン高原の南西部のスサを中心として民族系統は不明の民族が王国を形成していた。
イラン高原のエラム人は絵文字のような記号とそこから変化したと思われる線文字を使った。現在未解読。その後は楔形文字を使用するようになる。
エラム王国はカッシートに侵攻、ハンムラビ法典を刻んだ石柱などバビロンの文化遺産を持ち去り、その後にハンムラビ王の遺品がイランのスサ近郊で発見された。
BC640年にアッシリア帝国のアッシュール・バニパル王によって征服されエラム王国は滅亡した。
エラム王国滅亡後、インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族の人々が、イラン高原の西北部からカスピ海の西に進出した。
イラン高原東北部の遊牧民たちが信仰していたゾロアスター教(拝火教)が徐々にメディア王国に浸透していった。
メディア王国で祭官階級に属した部族。イラン語"magike(呪術)"は英語"magic"の語源。
言語 | 表記(単数/複数) | 読み |
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イラン語 | magu | マグ |
ギリシア語 | μάγος/μάγοι | マゴス/マゴイ |
ラテン語(英語) | magus/magi | マグス/マギ(メイガス/メイジャイ) |
(SY comment)
古代ローマ時代の歴史家ストラボンは「ギリシア人の目から見るならば、数ある異民族の中でもペルシア人が最も華々しい」と述べたそうである。このことに鑑み本ノートでは「イラン」の当て字には(正式には「伊蘭」であるが「伊」は「イタリア」と混同するため)「偉蘭」とする。
服属していたキュロス2世に率いられたペルシア人一派が反旗を翻しメディア王国は滅ぼされた。
ペルシア人はインド・ヨーロッパ語族に属するイラン人の一系統である。メディア人がペルシア人(族長アケメネス)の居住地(現在のイランのペルシア湾に面したファールス地方)を辺境=ペルセウス(Perseus)と呼んだことに由来している。
ペルシア人一派はキュロス2世のときそれまで服属していたメディア王国を滅ぼしアケメネス朝ペルシアを建国した。諸王は他宗教に対して寛容なゾロアスター教を信仰し保護した。
アナトリアに進出しリディア王国を滅ぼした。
バビロンに進出し新バビロニア王国を滅ぼすとバビロンの捕囚で捕らえられていたユダヤ人を解放した。このことにより旧約聖書においてキュロス大王は受膏者クロス(イザヤ記45章)(受膏者=膏(油)を受けた者=メシア)と記されている。
第2代カンビュセス王はエジプトに進出するとエジプト末期王朝を滅ぼし、アケメネス朝はアッシリアに続いてオリエントを統一した。
第2代カンビュセス王の死後反乱が起こると、ダレイオス1世はそれを鎮圧、第3代目の王位に就き広大なオリエントの領土を引き継いだ。新首都ペルセポリスの建設、港湾の建設、貨幣の鋳造、度量衡の統一など広大な領土を統治する中央集権制度を整えた。
名前 | 解説 |
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州知事(サトラップ) | 全国が20の州(サトラッピ)に分けられた際、各州に中央から派遣された統括官。 |
王の目、王の耳 | サトラップを監視するために派遣された監督官とその補佐官のこと。 |
王の道 | 首都スサから小アジアのサルデスに至る幹線道路。駅伝制を支えた。 |
イオニア人の植民都市イオニアが反乱を起こすとギリシアポリスアテネはこれを支援、反乱を鎮圧すると激怒したダレイオス1世はアテネに派兵、ペルシア戦争が勃発した。
名称 | 年代 | 解説 |
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第一次 | BC492 | 第1回遠征は暴風のため壊滅、ペルシア軍は引き揚げた。 |
第二次 | BC490 | アテネを追われた元僭主のヒッピアスに先導されペルシア軍はエーゲ海の島々を制圧しながらギリシア本土のアッティカ地方に上陸、アテネ軍とマラトン(Marathon)で激突した。ミルティアデス率いる重装歩兵密集部隊の活躍でアテネ側が勝利した。 |
第三次 | BC480 | ペルシア帝国のクセルクセス1世が大軍を率い北方からギリシアに再び侵攻、テルモピュライの戦いでスパルタ軍を破りアテネを占領した。続くサラミスでアテネ海軍と激突、テミストクレス率いるアテネ軍は婦女子を避難させ男子はすべて三段櫂船の海軍に乗り込ませるという挙国体制で臨みペルシア軍を撃退した。クセルクセス王は戦闘意欲を失い帰国するが家臣によって暗殺された。 |
第四次 | BC479 | ギリシア北部に残存したペルシア軍が翌年に再び南下してアテネに迫った。パウサニアス率いるアテネ・スパルタ連合軍プラタイアイの戦いでペルシア軍を破ると、ミュカレの海戦でペルシア海軍を殲滅、ペルシアのギリシア征服は完全に失敗に終わった。 |
(SY comment)
マラトンの戦いが終わるとミルティアデスもしくはエウクレス(Eukles)が武装したままアテネまでの35kmを走り「我ら勝てり」と告げた後に力尽きて息を引き取ったとされる。この故事を記念して第1回オリンピック・アテネ大会ではマラトンからアテネまでのマラソン競技が行われた。
マケドニア王国のアレクサンドロスによってアケメネス朝ペルシアは制圧された。
名称 | 年代 | 解説 |
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グラニコス河の戦い | BC334 | アレクサンドロス軍と小アジアで激突、主力をギリシア人傭兵部隊とするペルシア軍は敗れた。 |
イッソスの戦い | BC333 | アレクサンドロスの率いるマケドニアの東方遠征軍とダレイオス3世の率いるペルシア帝国軍が小アジアの東部イッソスで激突、アレクサンドロス軍が激戦を制しダレイオス3世は逃亡した。 |
ガウガメラの戦い | BC331 | アレクサンドロスの東方遠征軍はティグリス川を超えると、ガウガメラとアルベラの付近でダレイオス3世率いるペルシア軍と再び対決、ペルシア側は戦車部隊を動員して防衛したがアレクサンドロス軍が大勝、アレクサンドロスはバビロン、スサ、ペルセポリスに入場、王宮を破壊しペルシア帝国を滅亡させた。 |
アレクサンドロス大王の死後、その後継者(ディアドコイ)は相続地を巡って争いイランは広大なセレウコス朝シリアの領土の一部となった。(-> イプソスの戦い )
パルティアの古称を持つイラン高原北東部において、パルニ族を率いていた遊牧イラン人アルシャク(ギリシア語表記:アルサケス)がセレウコス朝シリアの支配から独立した。当時の中国(漢)からは初代アルシャクの名前をとって安息と呼ばれていた。(➡ [勢力図])
BC53年第一回三頭政治の一人であるクラッスス率いるローマ軍が国境線がパルティア王国に進軍、両軍はカルラエ(現ハッラーン)で激突した。結果はパルティア側の大勝利に終わりクラッススは戦死した。
ローマは五賢帝時代に入ると勢力を盛り返し、110年頃トラヤヌス帝の遠征を受け都クテシフォンを占領され、アルメニアとメソポタミアを一時ローマに割譲したが後に奪回。2世紀中ごろマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝軍によって再びアルメニアの侵攻を受け敗れてクテシフォンを占領された。
ローマとの戦いで次第に国力を消耗させ226年農耕イラン人が興したササン朝によって滅ぼされた。
農耕イラン人=ペルシア人が建国、国名であるササンは初代アルデシールの祖父の名から取られた。
アルデシール1世は建国後間もなく自らの正統性を示すためにアケメネス朝ペルシアのアフラ・マズダ信仰を継承すると宣言、聖典『アヴェスター』の本文の確立、各地の教徒集団をゾロアスター教教会に統合、暦の改定、死者などの偶像の破壊を行いササン朝の認めた寺院の火のみを崇拝対象とした。
アルデシール1世の後を継いだシャープール1世は小アジアからさらに地中海を目指しアルメニアに進出すると、ササン朝の拡大を畏れたローマ帝国は属州シリアを守るため皇帝ゴルディアヌス3世自らクテシフォン近くまで進出したが、244年マッシケの戦いで敗れ戦死した。さらに260年エデッサの戦いでローマと再び戦い軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜にした。
5世紀初頭中央アジアに興りインドのグプタ朝を滅亡に導いたエフタルがササン朝にも猛威を振るい国王が戦死して一時危機に陥った。その後ホスロー1世は東方のモンゴル高原から勢力を伸ばし中央アジアに進出した突厥とエフタルを挟撃し滅亡させた。
ホスロー1世はゾロアスター教を熱心に保護し、文献が散り散りとなってしまい口承のみで伝えられていた聖典『アヴェスター』の編纂を進めた。
ホスロー1世は何年も戦場で過ごし、579年ビザンツ帝国との戦いで戦死した。後を継いだホルミズド4世はクーデターで殺害されるとその子であるホスロー2世はビザンツ帝国領である小アジアに進出、614年にはイェルサレムを襲撃した。それに対抗するヘラクレイオス1世は遠征に出て628年クテシフォンを占領した。
7世紀にアラビア半島で興ったイスラーム勢力のジハードの炎がササン朝にも及んだ。「イスラームのパウロ」ことウマル軍の侵攻により637年にカーディシーヤの戦いで敗れると642年ニハーヴァントの戦いでも敗北を重ねた。ササン朝ペルシア最後の王ヤズダギルト3世は各地を転々としたが651年メルヴで従者に殺害されササン朝ペルシアは滅亡した。
ササン朝がムスリム集団に敗れるとイランにはイスラム王朝が誕生し、イラン人ムスリムがイスラム王朝の下で活躍するようになる。そしてアケメネス朝以来のゾロアスター教などに代表されるイラン文化がイスラーム文化と融合してイラン・イスラーム文化を形成する。
イラン系のターヒルがホラーサーン地方(イランの東北部からアフガニスタン、トルクメニスタン一帯)の総督(アミール)に任命され821年にアッバース朝に朝貢しながら地方政権を維持した。
アフガニスタン国境近くで興ったサッファール朝の侵攻を受けターヒル朝は滅亡した。
アフガニスタン国境近くで総督(アミール)に任命されたイラン系のヤークーブが独立を宣言しイラン南東部スィースターンを都に地方政権を樹立した。903年同じイラン系のサーマーン朝に服属した。
アフガニスタンのガズナを首都とするガズナ朝の侵攻を受け制圧された。
カスピ海南岸のダイラム地方出身の軍人であるブワイフ家の兄弟がイランにシーア派軍事政権を樹立しバグダードに入城しアッバース朝から大アミールに認定され、カリフは宗教的権威を持つのみとなった。
輩下の軍人への俸給(アター)支払いに苦慮したブワイフ朝大アミールは俸給(アター)を与える代わりに土地(イクター)の徴税権を与える方式に切り替えた。次のセルジューク朝やイル=ハン国、エジプトのアイユーブ朝でも行われた。オスマン帝国のティマール、ビザンツ帝国のプロノイア制に相当する。
ブワイフ朝の頃にシーア派の根本教義である「不可謬のイマーム論」「イマームのガイバ論と終末思想」などが確立した。
スンナ派のセルジューク朝の侵攻を受けバグダードが陥落し滅亡した。
遊牧トルコ系民族であるセルジューク族はガズナ朝に服属していたが、1038年トゥグリル=ベク(トルコ語でトゥグリルは「鷹」、ベク(=ベイ)は「長、支配者」)はニーシャープールで自立しスンナ派イスラーム国を打ち立てた。
アラビア語で「権威、権力」。アミール(総督)よりも位が高い。トゥグリル=ベクは中央アジアから西アジアに進出し1055年にバグダードに入城、アッバース朝カリフから初めてスルターンの地位を与えられた。
第3代スルターンマリク=シャーは学問や芸術の奨励政策を行い、イラン・イスラーム文化が華開いた。
イランのニーシャープールで生まれたペルシアの詩人、天文学者。マリク=シャーが建設した天文台の学者として招聘され太陽暦であるイラン暦に改良を加えたジャラーリー暦の作成に関与、またイラン文学を代表するルバイヤートを残した。
現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。33年に8回の閏年を置き5000年毎に1日のずれを修正する暦で、3330年ごとに1日の誤差をもつグレゴリウス暦よりも正確であったが、うるう年の設定が複雑であったため実用には至らなかった。
ペルシア語で「四行詩」を意味する「ルバーイー」の複数形。ペルシア独自の詩形で、多数の著名なペルシア詩人たちによって用いられた。
アルプ・アルスラーンとマリク=シャーの2代の王に仕えた宰相ニザーム・アルムルクは、ブワイフ朝時代に増大したシーア派ムスリムの影響力を抑えスンナ派のウラマーを育成するべく主要都市(バクダード、ニシャプール、イスファハーンなど)にマドラサ=ニザーミーヤ学院を建設した。
ニザーミーヤー学院で若くして教授に抜擢されたスンナ派ウラマー。ウマル・ハイヤームからイブン・シーナーの著作に関する講義を受けたとされる(➡ [外部リンク])。体系化され始めたシャリーアが生み出す形式主義と内面の神への信仰心との乖離・離反・矛盾に悩んだあげく教授職を辞し放浪の旅に出発、ファラービーやイブン・シーナーによるギリシア哲学流の合理主義を取り入れたイスラーム哲学を批判し、感性によって神と一体化することの重要性を説くイスラム神秘主義を生み出した。
踊りや神への賛美を唱えることで神と一体化し真理に至ろうとする信仰形態。スーフィズムは贖罪や懺悔を表す羊毛の粗衣(スーフ)を身にまとった修行者(スーフィー)を語源とする。
バグダードを攻略したセルジューク朝はそのまま西進し第2代スルタンのアルプ・アルスラーンはトルコ人マムルークを中心とした強力な軍隊を組織してビザンツ帝国領のアナトリアに侵入、ビザンツ軍10万の兵とマンジケルト(マラーズギルド)で激突した。マムルーク兵を主力とするセルジューク軍は勝利を収めビザンツ皇帝を拘束、アナトリアに地方政権ルーム・セルジューク朝が始まった。
12イマームを国教とした。
イスラーム以前のイラン固有文化の復興に力を入れた。
イギリスの石油利権に対して新たな協定を結び、1バレルあたり4シリングのイラン政府の取り分を固定する60年の契約を結んだ。
「イラン(Iran)」は「アーリア人の国」を意味する言葉で、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』から引用された。
パフレヴィー2世(モハンマド・レザー・パフレヴィー)による強制的な西欧化政策。
(SY comment I)
元来フランスで白色がブルボン朝の国王を象徴する色であり「白色」は「国王、皇帝」を意味するようになった。したがって「白色転回」とは「国王が行う大改革」を意味する。その一方、国王や皇帝を倒す革命の象徴として赤色が用いられた。そのため、例えば革命家/国王が国王/革命家を暗殺する行為は「赤色テロ/白色テロ」と言われる。
(SY comment II)
"White Revolution"は通常「白色革命」と訳されているが、革命という言葉は中国史からくる用語で特別な意味を持っており"revolution"の訳としては(何か経緯があるのかもしれないが)不適切であり改められた方が良い。そのためここでは"Copernican revolution(コペルニクス的転回)"から訳をとってきている。
急激な近代化路線と親米路線による独裁的な政策の反動によりイラン・イスラーム革命が起きた。
イラン革命の際、シーア派のハディース(言行)である「毎日がアシューラー、すべての土地がカルバラー」がスローガンとして使われた。ウマイヤ朝軍と戦いカルバラーで殉教した第三代イマーム、フサインのように、パフレヴィー朝の独裁に対してもイランのシーア派信徒は戦うべきだという主張である。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』『イラン/イラン系民族』 | |
タキデ モハマッド | 博士論文:『イランにおける列強支配と民主派抵抗の闘争史―第二次大戦期~冷戦期の石油国有化問題を中心に―』 |
(SY comment)
現在ペルシアはイランに改称されているが、イラン(Iran)の名前はエラム王国(Elam)に因むところもあるのかもしれない。