バルカン半島の歴史。エーゲ文明からギリシアまで。
ドイツ出身のハインリヒ・シュリーマンがギリシアのミケーネで遺跡を発掘し、ミケーネ文明の存在を裏付ける巨大な王宮の城門(獅子門)や黄金のマスクを発見した。
イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズがシュリーマンの発掘に刺激され1900年、クレタ島クノッソスでクレタ文明の存在を示す遺跡を発掘、伝説上のミノス王の宮殿、絵文字、線文字A(ミノア文字)、線文字B、タコの絵が描かれている多数の壺を発見した。
クレタ島で栄えた青銅器文明。伝説上のミノス王に因んでミノス文明とも呼ばれ、海洋王国であったと考えられている。
クノッソス遺跡で発見された文字。クレタ文明で使用されたと考えられているが、まだ解読されていない。
クレタ文明はギリシア人の南下によってミケーネ文明に取って代わられたと考えられている。
クノッソス遺跡で発見された文字。ミケーネ文明で使用され、イギリスのヴェントリスによって1953年解読された。
アッティカ地方を除いてその都市がいずれも破壊され、線文字B(ミケーネ文字)による資料も喪失され文明の中身を窺い知ることが出来ない時代(暗黒時代)に突入した。
海の民はほぼ同時期にアナトリアにも進出しヒッタイトを滅亡させていた。そのときにヒッタイトが独占していた鉄器製造技術を会得しており、エーゲ海地方では青銅器に代わって鉄器の使用が普及した。そのため、この時代は初期鉄器時代とも呼ばれる。
BC800年頃からギリシア本土に貴族層を中心として人々の集住(シノイキスモス)が始まった。こうして形成された地区はポリス(Polis)(英語ではcity-state)と呼ばれ大小200ほど存在した。市民は主に市街地の周辺に自分の所有地(クレーロス)をもつ農民と商工業者から構成され、職業的な官僚や常備軍は存在せず市民団が直接行政を運営した。
名前 | 民族 | 地方 | 解説 |
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アテナイ (Athenai) |
イオニア人 | ギリシア南部 アッティカ地方 |
アクロポリスの丘を中心にした城壁で囲み居住区を作る。王政と貴族寡頭政を経て史上初めて民主政を実現、制度化した。ギリシアの中核となり文芸も花開いた。 |
スパルタ (Sparta) |
ドーリア人 | ペロポネソス半島 | ドーリア人が南下して形成されたポリス。リュクルゴス制とも呼ばれる厳しい軍国主義を採用、少数の市民が多数の奴隷(ヘイロータイ)と半自由民(ペリオイコイ)を隷属させた。鎖国政策をとり文化的交流が少なく文芸は育たなかった。 |
テーバイ (Thebai) |
アイオリス人 | アテネの北西 ボイオティア地方 |
ペロポネソス戦争後、将軍エパミノンダスの指導のもとでBC371年レウクトラの戦いでスパルタを破ると、さらに北方マケドニアに進出、フィリッポス(後のフィリッポス2世)を人質にとるなど権勢を振るった。 |
アテネは成立当初は王政であったが、その後貴族寡頭政に移行、後に市民が重装歩兵部隊となり軍事力の中核を担うようになると発言権を増し民主政に移行した。
市民が直接参加して開かれる市民総会で、役員の決定、外交問題、裁判などに関する最高議決機関。はじめアゴラで開かれ、後にアクロポリスの東方のプニュクスの丘がその会場となった。公職は各部族から抽選で選ばれ、日当も支給された。
(SY comment)
日本でいえば「国会」に相当する。一方、ローマの公職は選挙で選ばれ、無給の名誉職であった。
ギリシア語で「統治者」「指導者」「第一人者」。定員9人で任期が1年。行政、軍事、祭祀、法律の制定などの権限が王から与えられ最高権力をもつ役職となった。
(SY comment)
ギリシアでは、貴族と平民の対立が激しくなってアルコンを立てることができない状況を"anarchia(無アルコン)"と呼んだ。これが無政府状態/無政府主義を意味する"anarchy/anarchism"の語源となった。
アルコンは任期が終わるとアレオパゴス会議の終身会員となった。
当時市民は参政権を持たず政治を独占する貴族との対立が激しくなると、ドラコンはアルコンから委託を受けそれまでの慣習法を成文化した。これにより貴族によって恣意的に運用されていた法に一定の基準が定められた。
(SY comment)
ローマでは十二表法の立法に類似する。
貨幣経済が浸透し貧富の格差が拡大、平民の中にはなかには身体を抵当にした借財によって奴隷にされる数も増加していた。立法家ソロンは貴族と市民の対立を調停されるよう依頼されアルコンになり以下の改革を実行した。
以上の改革の目的は、貴族と平民の両者の対立をバランスよく調整し、貧富の差の拡大による市民の没落を防止して市民生活を保護し民主政を維持するところにあった。
(SY comment)
ソロンは貴族と平民のどちらか一方に与することを嫌い、改革を行うとまもなく辞職しアテネを離れることを決断した。アテネを思っての旅立ちだろう。後にギリシアの七賢人の一人に数えられる者の行動は、善政を目指す為政者にとって参考になる部分も多いだろう。
第1「五百石階級」はアルコンと財務官に、第2「騎士階級」と第3「農民階級」はその他の役職に就任できるかわりに重装歩兵となる義務を負った。役職をもてない第4「無産階級」は民会に出席して役人選挙に関与した。
ソロンの改革にも関わらず貧富の格差による対立は依然として解消しなかった。力を付けた平民の不満を背景として独裁を行うもの(僭主)が現れた。
「僭主」の本来の意味は「皇統や王統の血筋を持たずに身分を超えて君主となった者」「非合法的な手段で権力を簒奪した者」である。
BC560年頃自分の体と馬に傷をつけ政敵に襲われたと民会で訴え、自分を守る50人の親衛隊「棍棒持ち」を許可させた。それらの勢力を用いてアクロポリスを占領、民衆の人気を取り付け独裁政治を行った。
ペイシストラトスの死後2人の子供(ヒッパルコス、ヒッピアス)が権力を継承したが、ヒッピアスは残酷な独裁政治を行ったためBC510年に追放されアケメネス朝ペルシアに亡命した。親イサゴラス派と親クレイステネス派の権力争いが起こるが、クレイステネス派がそれを制するとクレイステネスはアルコンとなり以下の改革を行った。
(SY comment)
「デモス(demos)」は"democracy(民主政)"の語源となった。
イオニア人の植民都市イオニアがアケメネス朝ペルシアに対して反乱を起こすとアテネはそれを支援、ペルシア戦争が勃発した。アテネはスパルタとともにギリシア軍の中核として戦いペルシアの侵略を阻止した。
エーゲ海周辺の諸ポリスはペルシア帝国軍の来襲にそなえてアテネを盟主として軍事同盟を結び、最大200のポリスが参加した。各ポリスは一定の兵船を出して連合艦隊を編成、それができないポリスはアポロン神殿のあるデロス島に共同金庫おいて一定の納入金(フォロイ)を入れることにしたが、実際に艦隊を提供したのはアテネのみだった。
その一方、ペロポネソス半島内の諸ポリスはスパルタを盟主とするペロポネソス同盟をすでに結成しており、次第に二つの同盟の対立が深刻化、ペロポネソス戦争に発展した。
ギリシア本土の植民都市の対立に乗じてスパルタ王アルキダモスの率いるペロポネソス同盟軍がアテネの本拠アッティカ地方に侵入、長い戦争が始まった。戦中アテネでは疫病が流行するなど終始スパルタが優位に立ち、後半ではアケメネス朝ペルシアと同盟を結び資金援助を受け海軍を増強、エーゲ海を制しBC404年アテネは全面降伏した。
マケドニアとギリシアのアテネ・テーベ連合軍がギリシアのカイロネイアにおいて激突、アテネ・テーベ連合軍は善戦するも、智将フィリッポス2世の巧みな戦術に遅れを取りマケドニア軍に敗れた。
マケドニアのフィリッポス2世はギリシア本土(ヘラス)を征服、ポリス間の抗争は禁止され、マケドニアの実質的な軍事・外交上の主導権を認めさせる条約をスパルタを除いたポリスで結成させた。こうしてギリシアの軍事・外交の権限はすべてマケドニアが掌握し、前8世紀から続いてきたアテネ民主政は事実上終わるが、形式的な独立国家としては存続した。
マケドニア王国はギリシャのアルゴスに所縁がある家系アルゲアス家によるアルゲアス朝(Argead)の統治が開始され、フィリッポス2世の治世でギリシアポリスを制圧、その子アレクサンドロス大王の時に最盛期を迎えた。
ペロポネソス戦争後のポリスの衰退に乗じてギリシア本土に侵攻、BC338年カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍に対し圧倒的な勝利をおさめ、翌年スパルタを除くポリスとコリントス同盟(ヘラス同盟)を結成した。さらにペルシアへの遠征を企図していたが、BC336年暗殺されるとその遺志は子のアレクサンドロスに引き継がれた。
フィリッポス2世の子として生まれ13歳から3年間、アテネから招かれた哲学者アリストテレスの教えを受けたという。
BC335に北方のトラキアとコリントス同盟を破って反旗を翻したテーベを制圧、同会議で翌年から東方遠征を行うことを表明した。
(SY comment)
テーバイの街はアレクサンドロスによって完全に無残に破壊されたとされている。東方遠征を前に反旗を翻す者に対する見せしめとしての意味があったのだろうと思われる。
父フィリッポス2世の遺志を引き継ぎアケメネス朝ペルシア制圧に向け遠征隊を率い、度重なる戦闘の末アケメネス朝ペルシアを征服した。
アケメネス朝を征服する途中、後方を確保するためエジプト古王朝に先に入り制圧、古都メンフィスを抑えた。
カイバル峠を越えてインドに侵入、ナンダ朝の象部隊と戦う。将兵の中に帰国を望む声が強くなりインダス河口付近で引き返した。
ペルシア帝国の旧都スサに戻るとアレクサンドロス大王は集団結婚式を実施、大王自らはアケメネス王家の娘を娶り、側近や兵士たちにペルシア人、メディア人、アジア人女性との結婚を認めて祝い金を与えた。集団結婚式は大王から将兵への褒賞であると同時に、遠征を共にした将兵が後に現地を相続するための地ならしとなった。
(SY comment)
マケドニアに戻って遠征につきあったくれた将兵たちを昇進させるとマケドニアを守っていた臣下との不和が生じるのは明らかで、占領地で褒賞を与えることは臣下同士に生じる軋轢を回避する効果があった。また将兵が現地住民と結婚すれば占領地住民との融和が期待でき、自らの死後将兵が現地を相続するための布石となる。集団結婚式は長きに渡る大遠征の中寝食を共にし命を懸けて戦ってくれた信頼する兵士たちへ大王からのよく考えられた褒美である、と言うことができる。実際、遠征中側近であったセレウコスはイラン人の妻アパマとこのとき結婚し大王の死後広大な領土を引き継ぎセレウコス朝を建てている。
アレクサンドロスはBC323年バビロンに戻ると熱病にかかり32歳の若さで死去した。アレクサンドロス大王の死後、その後継者(ディアドコイ)は相続地を巡って争った。
フィリッポス2世と同年に生まれたアレクサンドロス軍の最古参将軍アンティゴノス(隻眼)が王位を名乗ると、それに従わないカサンドロス(マケドニア拠点)、リュシマコス(アナトリア拠点)、セレウコス(シリア拠点)ら連合軍がアナトリアのイプソスで激突、アンティゴノスとその子デメトリオス(攻城者)の軍が敗れた。
イプソスの戦いの後デメトリオスの子アンティゴノス2世がBC276年マケドニア王国の王位に就きバルカン半島一帯の領土を支配した。
イタリア半島を統一したローマはバルカン半島にまで勢力を拡大、バルカン半島の支配権を巡ってアンティゴノス朝と激突、マケドニア王国は圧倒的軍事力をもつローマ軍の前に敗退し滅亡した。
名称 | 年代 | 解説 |
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第一次 | BC215-205 | ローマは第二次ポエニ戦争時、マケドニア・フィリッポス5世はカルタゴと同盟を結びローマに反旗を翻したためローマ軍は出兵を決定するも、ハンニバルとの戦いで大敗北を喫したローマは苦戦、マケドニアに反発していたギリシア諸都市の力を借りて和平協定に持ち込んだ。 |
第二次 | BC200-196 | マケドニアの南進を恐れたギリシア諸ポリスがローマに支援を要請するとローマは派兵を決定、マケドニア軍を破った。ギリシア諸都市には自由と独立を保障して占領せずに撤退した。 |
第三次 | BC171-167 | マケドニアがローマに戦いを挑み、BC168年のピュドナの戦いで大敗、マケドニア王国は滅亡した。マケドニアの領土は4つの共和国に分けられ、属州とされた。 |
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 | 『ギリシア』 |
実教出版 | 『世界史B』 |
(SY comment)
アテネ民主政の詳細は、アリストテレスおよびその弟子が加筆したと思われる『アテナイ人の国制』に書かれている。