イタリア史 (History of Italy)

 

古代イタリア

古代イタリア
地方 民族 解説
北部 イタリア人 インド・ヨーロッパ語族に属する民族。BC10世紀頃からイタリア半島に移住し徐々に南下、その一派であるラテン人が定住したローマが徐々に有力となった。
中部 エトルスキ人 インド・ヨーロッパ語系とは異なる系統不明の民族。BC8世紀頃、鉄器文化で栄え、その後鉄以外にも銅、銀、錫などの金属器を加工しギリシア人と交易した。BC7世紀末ごろから都市国家を建設、次第に南北しローマで王政を行った。しかし、BC509年にローマからエトルリア人の王が追放されると徐々に衰退し、イタリア人ラテン文化に同化吸収された。
南部 ギリシア人、フェニキア人 マグナ・グラエキアと呼ばれる植民都市群(ネアポリス(現ナポリ)、タレントゥム(現タラント)、シラクサ(シチリア島内))を形成して定住、半島中部のエトルリア人と交易を行う。

古代ローマ ➡ [参考リンク]

古代ローマの建国神話はウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に収められている。ローマは当初エトルリア人の支配下にあったが、BC510年にエトルリア人の王を追放すると貴族寡頭政を整備し徐々に力を蓄える。イタリア半島統一に向け領土を拡大させると平民の貧富の格差が増大し国家分裂の危機に瀕するも、その都度平民の不満を解消する政策を打ち立て危機を回避、最終的に貴族と平民が平等の権利をもつ市民共和政を実現させながらイタリアを統一した。統一後は大陸にも領土を拡大し広大な帝国を実現した。

(SY comment)
『世界史の流れ』の中でランケ(Leopold von Ranke)はローマ史について「すべての古代史は、ちょうど多くの河流が一つに合して湖に注ぎ込むようにローマ史の中に流れ入り、そうして近世史の全体は再びこのローマ史から流れ出ている、といえる。私は、もしローマ人が存在しなかったならば、歴史は全く何の価値もないものになっていただろう...」と述べている。実際、ローマ史からは学ぶことは多い。

寡頭制から共和政へ

エトルリア人の王を追放すると、ローマの政治体制は王政から少数の貴族が中心となって政策を決定する合議制(貴族寡頭制)へと変化した。

ローマにおける身分制
ラテン名 訳名 解説
パトリキ
Patricii
貴族 「パトレス(Pateres)の子どもたち」が原意。土地や奴隷などの財産を世襲し、元老院議員や上位高官の地位を独占した。
プレブス
Plebs
平民 中小農民や商工業者。当初貴族と平民は婚姻が禁止され身分は不動であった。戦時に騎士や重装歩兵として活躍し徐々に発言権を増し階級間闘争(権利闘争)を行う。
プロレタリア
Proletara
無産市民 単数形はプロレタリウス(Proletarius)。「子供(proles)しかもたない人々」が原意。武器を所有せず騎士や重装歩兵などの役職ができない極貧層、奴隷、外国人。参政権を(実質的に)もたなかった。

元老院 Senatus: セナートゥス

王政期、共和政期、帝政期における最高諮問機関。元老院議員はパトレス(Pateres:Pater((建国の)父)の複数形)と呼ばれ、定員は当初300人、30歳以上の貴族であることが就任条件で、終身制であった。

民会 Concilia: コンキリア

ローマ身分制集会の総称。政務官の選出や司法活動などを行った。

民会の種類
ラテン名 解説
クリア会
Comitia Curiata
貴族会 クリアとは氏族組織単位を表す。政務官の批准、神官の任命、養子縁組、遺言状の保証などを行った。共和政期から形骸化する。
ケントゥリア会
Comitia Centuriata
兵員会 徴税と兵役を行う成年男性のみが参加することができる投票集会。平民は兵役義務の違いによりケントゥリア(百人組)を編成(騎兵は18、重装歩兵は80、無産市民は1組など)、ケントゥリア会はこのケントゥリアを単位として投票を行い、全193組のケントゥリアの中で多数決により議決を行う。執政官(コンスル)や法務官(プラエトル)の選挙、戦争・和睦の決定、死刑の宣告などを行った。
トリブス会
Comitia tributa
区民会 トリブスとは行政区画を意味し、ローマ市民は必ずどこかのトリブスに登録された。トリブスを単位として按察官(アエディリス)や財務官(クワエストル)が選出された。まれに執政官・法務官の提案する法案の審議、重大な罰金刑に関する裁判を行った。
プレブス会
Concilium plebis
平民会 BC494聖山事件の結果設立された平民のみで構成された民会。議長は護民官となり国政に携わった。BC447年にはトリブス会で行われていた按察官(アエディリス)や財務官(クワエストル)の選出が行われ、BC287年にはホルテンシウス法成立により平民会の決議が元老院の承認が無くとも国法(全市民拘束)になった。以降、パトリキも平民会に参加、ローマ市民全員が参加するようになると、投票がトリブスごとに行われたためトリブス民会とも呼ばれローマ市民総出の総会となった。

ローマの政務高官は貴族のみに開かれている名誉職(無給)であった。選挙方式は、前任者が候補者を指名し民会でその可否を決定するというものであった。後の階級間闘争により徐々に不平等が解消されていく。以下にローマ共和政期の公職を示す。

ローマ共和政期の主な政務高官
高位官職
(上のものほど高位)
別官名 初期定員 任期 役割
コンスル
Consul
執政官 統領 2名 1年 国家の最高官職。就任条件は法務官と財務官を歴任しかつ年齢が43歳以上であること。2名が互いに命令権(imperium)と拒否権(veto)を持つ。コンスルの名前は暦の該当年度に使われた。
プラエトル
Praetor
法務官 6名 1年 就任には40歳以上であることが必要。命令権(imperium)を持ち、コンスルの補佐、司法を担当。
アエディリス
Aedilis
造営・按察官 4名 1年 主に公共建築の管理、ローマの祭儀の管理を行う。
トリブヌス・プレブス
Tribunus plebis
護民官 2名 1年 tribunusはラテン語で集団の長を意味する。聖山闘争の結果設けられた平民の権利を保護する官職。平民会から選出され、平民会の主宰、政策に対する拒否権(veto)と身体の神聖不可侵権(inviolability)をもち、後に10名に増加された。
クァエストル
Quaestor
財務官 20名 1年 主に国家財政の監督、国庫の管理を職務とする。裁判を担当する者もいた。
特殊政務官
ケンソル
Censor
戸口監察官 2名 1.5年 5年に1回の戸口調査をし市民の財産を調査する職務であったが、後には元老院議員(パトレス)の有資格者の審査、風紀取り締まり、国家財政の監察なども行うようになった。任期1年のコンスルによる統治を補い、元老院を牽制する役割を果たした。
ディクタトル
Dictator
独裁官 1名 半年以内 非常時に元老院が2名のコンスル(執政官)の中から1名を選び、再任されないことを条件に独裁権を与えられた。

これらの公職の原則はローマ共和政の根幹を支えた。これらの原則が崩れると同時に共和政は崩壊していくことになる。

聖山事件 BC494, BC449

ローマ初の大規模な階級間闘争。BC494年平民が貴族寡頭政治に対抗するため、ローマ北東にあるモンス・サケル山(Mons Sacer)に立てこもった事件。その結果、平民だけで構成する民会(平民会)の設置と、その中から2名の護民官を選出し特権(拒否権、身体の不可侵権)をもつことをパトリキ側に認めさせた。

BC449年にも平民は再び立てこもり護民官の定員を10名まで増やさせた。

(SY comment)
世界史上初のストライキではないだろうか。そういえばイタリアに行った際、現在でもローマでは公共交通機関がストライキの影響でストップすることがしばしばあるため注意するようにという記事を読んだ記憶がある。日本からは労働組合がいつの間にやら解体されストライキがほとんど見られなくなってしまった。ストライキは、労働者側の最も原初的かつ基本的な権利闘争の一つである。こういうことを言っているとストライキの負の側面を強調してくる人間がしばしば出てくるが、そのような人間は資本主義から大きな恩恵を受け労働者を軽視する経営者や投資家である。ストライキはその労働の重要性を知らしめるために、その労働がない状態が如何に不便であるかを感じさせることが目的なのだから、そのストライキに負の側面があればあるほどそのストライキには意義があるのであり、金の亡者の陽言に騙されてはならない。多くの日本人労働者が権利闘争の方法をもたない/知らないことが、(日本人の闘争を好まない気質と相まって)日本の長引くデフレや低賃金労働に拍車をかけてしまったように思われる。(2018/10/15)

十二表法 BC450

それまで法律知識は神官となれる貴族に独占され平民は法律を知ることが出来なかった。このことに不満を持っていた平民は元老院に法律の公開を要求、元老院もその要求を受け入れた。10名の法典編纂委員がBC450年に十二表法として慣習法を成文化、ローマ初の成文法となった。

(SY comment)
上位階級が知識を独占していた例といえば、中世ヨーロッパにおける聖職者階級は新約聖書の知識を独占していた。後に活版印刷術が発明されるとラテン語の新約聖書がドイツ語に翻訳され大衆に普及、宗教改革につながった。

カヌレイウス法 BC445

十二表法における貴族と平民の婚姻禁止規定が修正され、貴族と平民の婚姻が認められるようになった。

リキニウス・セクスティウス法 BC377提案-367成立

貴族と平民の階級格差を縮めるべく、護民官であったリキニウスとセクスティウスが立法し、10年に渡る貴族平民間対立の末に成立した。内容は以下のようになる。

  1. 最高官職コンスルの一人を平民から選出する。
  2. 公有地の最大占有面積を制限する。
  3. 債務者がすでに払った利息は元本から差し引き、残額を3年間の均等分割払いで支払う。

この法律が成立することによって階級間闘争が実質的に終結した結果、平民からノビレス(新貴族)と呼ばれる新たな世襲貴族階級が誕生するとともに領土拡大への機運が盛り上がりローマは半島統一へと動き出す。

新貴族 Nobiles: ノビレス

リキニウス・セクスティウス法により平民からも国家の最高官職が選出されるようになると、元老院議員にも選出されるようになり名門として認められた。これらの上層平民は新しい世襲貴族階級を形成しノビレス(Nobiles)と呼ばれた。世襲階級が形成された理由は以下による。

  1. 上級政務官は名誉職であったため、豊かな資産や財産をもつ者のみがコンスルに就任できた。
  2. 上級政務官は前任者が候補者を指名する方式であったため、一部の上層平民組(=新貴族)にだけにコンスル職が指名される状態となった。(共和政末期までの300年間で新たにノビレスの人は全部で15名だけであったらしい。)

統一と拡張

イタリア半島統一戦争

10年もの間議論が行われたリキニウス・セクスティウス法がついに成立すると、階級間闘争は一旦休止されローマは対外政策に乗り出す。

半島統一戦争小史
名称 年代 地域 解説
第一次サムニウム戦争 BC343-341 カンパニア
(半島の中部)
ローマはサムニウム人の内紛に乗じてカンパニアに出兵した。しかしその秩序を乱すローマに対しラテン同盟市が反発、サムニウム軍とは一旦和睦し矛先をラテン人へと向けた。
ラテン戦争 BC340-338 ラティウム
(ティベル川流域)
ローマは、ラテン人とはBC493年ラテン同盟を結んでいた。しかし、サムニウム出兵にラテン同盟市が反発すると逆にラティウムを征服した。服属したラテン人にはローマ市民権を与え、ラティウムをトリブス(行政区画)に編入した。
第二次サムニウム戦争 BC326-321
BC316-304
カンパニア
(半島の中部)
サムニウム人に攻勢を仕掛けるも、サムニウム人の抵抗に会い苦戦する。その後、アッピア街道を建設し徐々に戦いを有利に進める。
第三次サムニウム戦争 BC298-290 カンパニア
(半島の中部)
追い込まれたサムニウム人はエトルリア人、ローマ北方のウンブリア人、ガリア人と同盟を結びローマに抵抗、全イタリア半島を巻き込んだ大戦争となったが、ローマ軍が重装歩兵部隊の活躍で各地で同盟軍を撃破、諸民族を服従させた。
ホルテンシウス法 BC287
マグナ・グラエキア征服 BC282-272 タレントゥム
(靴のかかと部分)
ホルテンシウス法が成立すると、ローマは半島南部のギリシア人の植民都市群マグナ・グラエキアの征服に乗り出した。BC280からタレントゥム側の援軍であるギリシア・エペイロス王ピュロス軍と戦闘、カルタゴの支援を受けローマは勝利を収めると、BC272年マグナ・グラエキアの中心であるタレントゥムを制圧した。

ホルテンシウス法 BC287

半島統一戦争で獲得した領土は有力者に分配されたため再び貧富の差が拡大、不満を持った一部の平民はヤニクルスの丘に立てこもったため、ローマは再び分断の危機に瀕した。この危機に対処するべくディクタトル(独裁官)に選任された平民出身のホルテンシウスは、平民会の決議を元老院の承認なしにローマ市民全体を拘束する国法とするという法律を成立させ、平民の不満を解消することに成功した。

この法律により平民会は国の立法機関となったため貴族(パトリキ)も参加するようになった。その結果、投票単位はトリブスになり平民会は「トリブス会」と呼ばれ市民総出の国民大会となった。

アッピア街道 BC312

イタリア半島統一戦争期において建設された重装歩兵市民団や騎士隊を迅速に南進させるための軍用道路。盲目のケンソル(戸口監察官)アッピウス・クラウディウスが指揮して建設、当初はローマからカプアまでだったが後に半島最南端のタレントゥムまで延長された。このような軍用道路がローマ支配地域全域にはりめぐらされたため「すべての道はローマに通ず」と言われた。

分割統治

ローマはイタリア半島統一戦争で服属させた都市に対し一律な統治を行うのではなく各都市それぞれ異なる統治を行う分割統治を行った。都市間同盟や条約などは一切許されなかった。

分割統治
分類 市民権 自治権 解説
植民市 × ローマ市民と同等の市民権が認められた。
自治市 軍事と裁判を除き、自治権が認められた。上層市民には自治市が設定した民法が適用された。自治市に区分された都市でも、投票権がある場合とない場合とがあった。
同盟市 × × 領土の一部を割譲させ、兵力を徴収した。

地中海覇権争い: ポエニ戦争マケドニア戦争

ローマは半島南部の制圧すると、フェニキア人系ポエニ(=カルタゴ人)の植民市が発展した商業国家であるカルタゴと西地中海の覇権を巡って争った。途中、カルタゴと同盟関係を結んで反旗を翻したギリシアとアンティゴノス朝マケドニアに派兵しマケドニアを制圧、東地中海・ギリシアまで領土を拡大、ローマは地中海支配を完成させた。海外の占領地は属州と呼ばれ、ローマ初の属州はシチリアであった。

地中海覇権争い
名称 年代 地域
第一次ポエニ戦争 BC264-241 シチリア島
第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争) BC218-201 イタリア・カンネー、カルタゴ・ザマ
第一次マケドニア戦争 BC215-205 マケドニア
ヒスパニア攻略 BC205 イベリア半島
第二次マケドニア戦争 BC200-196 マケドニア
第三次マケドニア戦争 BC171-167 マケドニア・ピュドナ
第三次ポエニ戦争 BC149-146 カルタゴ

属州 Provincia: プロヴィンキア

イタリア半島外の地中海各地に獲得した領土は属州と呼ばれ、半島とは異なる統治が行われた。

属州政務官
官名 役割
総督(知事) 元老院から任命されてその統治に当たる。十分の一税と呼ばれる税を徴収した。
徴税請負人 総督にかわって属州の徴税や公共事業を請け負う人。

属州の統治権を委任された総督、徴税請負人などの有力者らは広大な占有地(ラティフンディア)を持ちそこで奴隷の労働力を用いて大農園を経営、半島に大量の安価な穀物を供給し富を蓄積、新しい富裕層(騎士層)を構成する一方、半島内の多数の中小農民は没落して無産市民となっていった。貧富の格差拡大によってローマ共和政が徐々に崩壊していく。

大土地所有地 latifundia: ラティフンディア

単数形がlatifundium。奴隷が労働力となって主にブドウやオリーブなどの果樹栽培が行われた。

騎士 equites: エクイテス

元々は騎馬兵を意味し乗馬を行うことのできる比較的富裕な平民で、元老院所属の貴族と重装歩兵部隊の平民の中間層に相当していたが、ローマが属州を獲得すると属州政務官となって活躍、大土地所有を行い富を蓄積し新興富裕層を形成した。

パンと見世物 panem et circenses: パンとサーカス

中小農民が没落して無産市民となると、有力者や為政者にパン(食料)と娯楽を要求、有力者は選挙の際の見返りを期待して要求に答えそれらを安価もしくは無償で提供した。見世物は戦車競争、ライオンと剣闘士の闘いなどで、競技場として最も有名なものがローマのコロッセオ(Colosseo)である。

(SY comment)
サーカス(circenses)は、元々は戦車競技場を意味するキルクス(circus)から来た言葉で、英語のcircuitの語源になった。

この富裕層の大土地所有の拡大と中小農民の没落による貧富の格差を是正しようと立ち上がったのが名門スキピオ家出身のグラックス兄弟である。

グラックス兄弟の農地改革の失敗 BC133,123-121

兄のティベリウス グラックスはBC133年護民官に選ばれると、BC367年のリキニウス・セクスティウス法を忠実に履行した、大土地所有を制限して自作農を創出する農地改革を提案した。しかし、元老院の保守派を中心とした反対工作によって廃案にされ、最終的にティベリウスは殺害された。その弟のガイウス グラックスも兄の遺志を継いで農地改革を実行するが、当初はうまく法を制定できたものの、後から反対派によって改革法案が否決され、最終的には弟も兄同様政敵との武力闘争に敗れて死亡した。

内乱の一世紀

グラックス兄弟の改革が失敗に終わると、ローマ共和政は崩壊の危機に陥る。

(SY comment)
内乱の一世紀の詳しい内容はプルタルコス『英雄伝』に書かれている。

ローマ支配に対する反乱

地中海世界を支配しようとするローマに対し地中海世界の住人は幾重に反乱を試みるも悉く鎮圧されていく。

ユグルタ戦争 BC111-105

BC111年、北アフリカヌミディア国王ユグルタが王位継承争いからローマに反旗を翻すと、ローマ軍が鎮圧部隊を差し向けてユグルタ戦争が勃発。ローマは中小農民没落による重装歩兵部隊の弱体化により苦戦が続き、執政官となったマリウスが兵制改革を断行してローマ軍を再編、自ら傭兵軍団を率いて出兵し、BC105年までにヌミディア国を鎮圧してアフリカを編入、地中海支配を拡大した。

マリウスの兵制改革: 徴兵制から傭兵性へ

中小農民が没落するとともに重装歩兵部隊も弱体化、ユグルタ戦争で軍の弱体化が露呈するとマリウスは軍を立て直すべく兵制改革に着手、無産市民から志願兵を募り、給与を支給しかつ掠奪や土地の配分を認めるという傭兵(職業軍人)制を開始、平民が兵役をこなして共同体を守るというローマ共和国の根幹をなしていた原則が崩れた。

兵制改革に成功しユグルタ戦争に勝利したマリウスは騎士層に大きな人気を誇り、元老院の権威や古い制度に反対する平民派(ポプラレス populares)を形成した。

同盟市戦争 BC91-88

分割統治された同盟市がローマに対して結束して蜂起、元老院はマリウスを派遣して鎮圧に当てたが、同盟市の反乱はイタリア全土に及ぶと同盟市が反乱に参加しないことを条件に市民権を認めるという懐柔策を援用、最後はスラが将軍となって反乱を鎮圧した。

同盟市戦争の結果、イタリアの諸都市は自治市となり、イタリアの自由民はローマ市民権を得る一方、ローマの民会は事実上機能しなくなっていった。

ミトリダテス戦争 BC88-63

属州アシア(アナトリア)における反乱。ポンペイウスが鎮圧。

スラの独裁 BC82-79

ユグルタ戦争、同盟市戦争、ミトリダテス戦争で功績をあげたスラが元老院を中心とする既得権勢力の支持を集め閥族派(オプティマテス optimates)を形成、平民派としのぎを削る。スラはBC82年にはローマ初の無期限独裁官となり平民派を一掃、ローマ市民が権利闘争で築き上げてきた共和政を元老院を中心とする貴族寡頭制に逆戻りさせた。

セルトリウスの反乱 BC80-BC70

属州ヒスパニアにおける反乱。ポンペイウスが鎮圧。

スパルタクスの反乱 BC73-71

剣闘士奴隷(剣奴)が剣闘士学校を脱走、その中のスパルタクスが首領となってイタリア全土の奴隷を組織して反乱を起こすも2年でポンペイウスによって鎮圧された。

シリア攻略 by ポンペイウス

セレウコス朝シリア攻略 BC64

ポンペイウスはミトリダテス戦争を終結させるとそのままシリアを遠征し、セレウコス朝シリアを滅ぼすとシリアを属州とした。

パレスティナ攻略 BC63

さらにポンペイウスはパレスティナにまで遠征しユダヤ人を征服、この地を属州とした。

第一回三頭政治 BC60

BC60年将軍であるカエサル、軍人かつ政治家のポンペイウス、富豪のクラッススら三者は秘密裏に私的な盟約を結び元老院に対抗を企て、カエサルが執政官に当選すると翌年元老院の権限を牽制する幾つかの法を制定し改革に着手した。

ルッカの会談

BC59年からカエサルはガリア遠征を開始、快進撃をもたらすと離れたローマでの名声はますます高まったが、その一方で元老院の反カエサルの動きも強まった。カエサルはBC56年北イタリアのルッカにポンペイウスとクラッススを呼び寄せ、三者の間でカエサルはガリア領、ポンペイウスはヒスパニア領、クラッススはシリア領を治めることで合意し結束を固めた。

ガリア攻略 by カエサル BC58-51

コンスルになったカエサルは自ら軍隊を率いてガリア(現フランス・ベルギー)へ数回にわたる遠征を行いガリア人の抵抗を抑えつつナイン川を越えてゲルマン部族を破った。BC55年にはブリテン島にも進出したが、英仏海峡間の輸送が十分行えない中ブリトゥン人の抵抗に合い失敗する。BC52年にはウェルキンゲトリクスに指導されたガリア人が反乱起こし苦戦を強いられるもアレシアの戦いで反乱を鎮圧、カエサルはガリアのほぼ全域をローマの領土に編入した。

『ガリア戦記』

カエサルはガリア遠征の様子を『ガリア戦記』としてローマ軍とブリトゥン人の戦いを詳細に記録した。

三頭政治の崩壊

カエサルのガリア遠征の快進撃に触発されたクラッススはパルティア遠征を行い自ら指揮を執るも敢え無く戦死する。その知らせを受けた在ローマのポンペイウスは元老院との共同に転じカエサルに対しガリア遠征を中止する決定を下すと、カエサルは軍を率いたまま属州ガリアとローマ本土の境界線であるルビコン川を超える。

(SY comment)
当時ローマでは軍を率いてルビコン川を渡ることは禁じられていた。ルビコン川を渡る際カエサルは「賽を投げろ」とも「賽は投げられた」とも言ったらしい。

カエサルの決戦の覚悟を前にポンペイウスは逃亡を余儀なくされギリシアに逃亡する。カエサルは追撃を行いポンペイウスはエジプトに逃れるも、カエサルを味方に引き入れようとしたプトレマイオス朝プトレマイオス13世の兵士によってポンペイウスは殺害された。

中東攻略

エジプト平定 BC48-47

折りしもプトレマイオス朝はプトレマイオス13世とその姉のクレオパトラが内紛する状態で、クレオパトラもカエサルを味方に引き入れたい点は同じであった。クレオパトラはポンペイウスを追って上陸したカエサルと密かに面会を遂げ窮状を訴えカエサルを味方につけた。アレキサンドリア戦争に勝利しエジプトを平定しクレオパトラと結婚、間もなくカエサリオンが産まれた。

(SY comment)
カエサリオンは後にオクタウィアヌスに殺されることになる。ところでカエサリオンという名前は父であるカエサルとアレキサンドリア戦争で焼け落ちたとされるムセイオンから取ったのだろうか。

アナトリア平定

ローマに帰還する途中ポントス王を討ってアナトリアも平定した。

最高司令官 imperator: インペラトル BC45

中東を平定してローマに凱旋したカエサルに対し元老院はBC45年「インペラトル(命令権(imperium)をもつ者)」の称号を贈った。後に「ローマ皇帝」を意味するようになる。

(SY comment)
英語の"Emperor(皇帝)"や"Imperialism(帝国主義)"の語源である。

ユリウス暦の制定 BC45

ローマに凱旋したカエサルは圧倒的な軍事力を背景に10年間の独裁官に就任すると事実上の独裁政治を行い様々な改革を行った。その中の一つが太陰暦から太陽暦(ユリウス暦)への改定であった。当時ローマは太陰暦を使用していたが、それだと年間で11日ずつずれてくるため1年間をサイクルに行う農作業に大変不便であった。そこでカエサルはアレクサンドリアに遠征したときにエジプト人の天文学者を連れて帰り暦法を365日を1年とし4年ごとに閏日を設けるユリウス暦に改訂、BC45年元日から新しい暦が適用された。後にグレゴリウス暦に修正されるまでヨーロッパで用いられた。

カエサル暗殺 BC44

カエサルは終身の独裁官の地位に就くとパルティアやインドの征服を構想しアレクサンドロス大王の偉業を超えることを計画、カエサルの野心に恐れを抱いた元老院のカエサル反対派は共和政の伝統を重んじるブルートゥスらに暗殺を画策させ、カエサルは元老院会議場で暗殺された。

第二回三頭政治 BC43

カエサルは生前に後継者として養子であるオクタウィアヌスを後継者として指名していた。ガリア遠征などで功績を挙げたアントニウスは妥協して同じカエサルの部将のレピドゥスを仲介にBC43年に第二回三頭政治を成立させ、アントニウスは東方ギリシア/中東、オクタウィアヌスは西方ガリア/ヒスパニア、レピドゥスは地中海北アフリカ、属州の支配権をそれぞれ分割した。アントニウスはオクタウィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し、共同でマケドニアに逃れたカエサルの暗殺者ブルートゥスらを討伐した。

(SY comment)
養子継承は後に五賢帝時代に行われ、五賢帝時代の帝国の安定に寄与することになる。

アクティウムの海戦 BC32

アントニウスはオクタウィアヌスとの権力闘争を有利に進めようとパルティア遠征を企てプトレマイオス朝エジプトの協力を得ようと女王クレオパトラと会見、新しい庇護者を探していたクレオパトラはアントニウスを誘惑し協定が成立、BC37年2人は正式に結婚した。アントニウス軍はパルティア遠征を開始しアルメニア攻略には成功したがパルティアとの戦いは失敗に終わりアレキサンドリアに逃れた。2人の間には3人の子が産まれる一方、アントニウスの正妻が姉であるオクタウィアヌスは不信感を強めていく。アントニウスがローマの東方属州をクレオパトラに寄贈しようとしたことを受けローマにおける反アントニウス感情が強まるとBC32年アントニウスとオクタヴィアは離縁しアクティウムの海戦に突入、数は少ないものの機動力で勝るオクタヴィアヌス軍がアントニウス・クレオパトラ連合軍を破った。さらにアレクサンドリアを征服してプトレマイオス朝エジプトも滅ぼし地中海全域の覇権を握った。

ローマ帝国 BC27-395

元首制 Princcipatus: プリンキパトゥス

共和政を基盤としながら皇帝が全権を掌握して統治するという政治体制。

尊厳者 Augustus: アウグストゥス

アクティウムの海戦を制したオクタウィアヌスは地中海全域を手中に収めるとBC27年元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられた。しかしオクタウィアヌスは自身をプリンケプスと呼び、義父のカエサルの失敗を繰り返さないよう共和政の伝統を尊重する姿勢をとった。

August(8月)の起源

アウグストゥスはユリウス暦が無視され混乱していたので暦を調整し8月に自分の称号が付与されたことに因んで「August」と名付けた。

元首 Prīnceps: プリンケプス

元老院の議員リストの筆頭者のこと。

ネロ帝 在位: 54-68

カエサル-アウグストゥスの血をひく最後の皇帝。ストア派哲学者セネカから補佐を受けて政治を行ったが徐々に乱れていった。ローマで大火災が起こると新しい都市計画を思いついたネロの陰謀であるとする噂が立ち、それを打ち消そうとキリスト教徒を放火犯に仕立て上げるなどキリスト教徒を迫害した。その後自身の師でもあったセネカを陰謀の疑いで捕らえ死に至らしめ、ギリシアに渡ってアテネで演劇や音楽に熱中するなど人望を無くし、元老院から廃位を宣告されるとネロは自害した。その後ユダヤ戦争を指揮していたウェスパシアヌスが次の皇帝として元老院から選任された。

ペテロとパウロの殉教

ペテロパウロもこのとき捕らえられ十字架に逆さまにかけられ殉教したとされる。

ストア派=理性(禁欲)主義 Stoicism➡ [Wiki]

BC3世紀ゼノンがアテネのアゴラに面する列柱(ストア)の下で哲学を講じたことに始まる。ストイック(stoic)の語源。理性(logos)によって情動(pathos)を制して、情動から解放された状態(apatheia)に達することを理想とした。

ギリシア哲学用語
ギリシア語 英語 読み 解説
λόγος logos ロゴス 理知的な精神。万物を支配する理性。パトスに対となる。
φιλια pathos パトス 情念、情動、衝動、情熱。ロゴスに対となる。
ἦθος ethos エートス 原義は「いつもの場所」。転じて、習慣、特性。英語ethics(倫理)の語源。
ἀπάθεια apatheia アパティア 情動から解放された状態。

(SY comment)
アパティア(apatheia)の境地とは仏教における涅槃(nirvana)の境地と意味するところは同じように思われる。

五賢帝時代 96-180

暴君の登場や皇帝の暗殺など不安定な時期を経て、ローマ帝国は安定期に入る。ローマ帝国の全盛期とされる。

五賢帝
名前 在位 解説
ネルウァ
Nerva
96-98 前帝ドミティアヌスが暗殺された後、元老院から指名される。翌年血縁関係のないトラヤヌスを養子に迎えて帝位を継承させる養子継承を行った。
トラヤヌス
Trajanus
98-117 属州ヒスパニアの生まれ。ドナウ川以北のダキア(現ルーマニア)と東方パルティアに対する征服活動を成功させ帝国領土を最大にした。ローマの公共広場にはダキア遠征の勝利を記念してトラヤヌス広場が設けられ、その中心にトラヤヌスの戦勝記念柱が建てられている。
ハドリアヌス
Hadrianus
117-138 属州ヒスパニアの生まれ。軍人として名を馳せトラヤヌス帝の死後間もなく養子・皇帝になると、それまでの領土拡張政策を転換し領土の安定、維持に努めた。最も遠いブリタニアにはハドリアヌスの長城(Hadrian Wall)と言われる100kmを超える防壁を築き北方のケルト人に対抗した。
アントニヌス・ピウス
Antoninus Pius
138-161 ローマ近郊で生まれた名門貴族の出身。ハドリアヌスから指名を受け形式的に養子・皇帝に即位した。その治世において問題となる出来事が起こらず元老院から"Optimus Princeps(最良の君主)"と呼ばれ、死後に"Pius(敬虔な)"の添え名が付けられた。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
Marcus Aurelius Antoninus
161-180 スペイン出身のストア派哲学者であり「哲人皇帝」と呼ばれる。同じくアントニヌス・ピウスの養子となった弟のルキウス=ウェルスも皇帝となり初の二人皇帝制であった。東のパルティア、北のゲルマン人の侵攻の対応に追われた。

SY: 養子継承

血のつながった実子ではなく養子として採った者に帝位を継承させること。養子継承はカエサル-オクタウィアヌス間ですでに行われており、五賢帝時代の帝国の安定に寄与した。

(SY comment)
養子継承により安定した五賢帝時代はまだ人々にカエサル-オクタウィアヌスの時代の影響が残っていたことを示唆している。

『自省録』

マルクス・アウレリウス・アントニヌスが人生とどう向き合うか自身に向けて述べた記録。ラテン語ではなくギリシア語で書かれている。

軍人皇帝時代 235-285

五賢帝の後に続く多くの皇帝(コンモドゥス、カラカラ、セウェルス・アレクサンデル)が立て続けに暗殺されると元老院出身ではない軍人が軍部の支持を得て立て続けに帝位に就く時代となった。最初のマクシミヌス帝が即位してから、軍人皇帝時代を終わらせたディオクレティアヌス帝が即位するまでの50年間18人が帝位に就きそのうち16名が暗殺されるという不安定な時代になった。この混乱の主な要因は

があり、以上の点は専制君主制の先駆けとなったディオクレティアヌスの四分統治によって改善される。

専制君主制 Dominatus: ドミナートゥス

専制君主
名前 在位 解説
ディオクレティアヌス
Diocletianus
284-305 自らを神格化して強権を握り軍人皇帝時代の混乱を収斂させ四分統治を実現して帝国を維持した。その一方自らの神性を徹底するためキリスト教徒に対し最後となる大迫害を行った
コンスタンティヌス
Constantinus
306-337 西の副帝コンスタンティウス1世の子として父と同じく軍人として頭角を現し父の死後継承争いを勝ち抜いて西陣の正帝となる。313年ミラノ勅令を発してキリスト教公認へ舵を切ると、それに従わない東帝リキニウスを戦いで破り単独皇帝を実現した。325年ニケーアで公会議を開いてキリスト教義の統一を行い、また330年新都コンスタンティノープルをビザンティオン(ビザンティウム)に建設して東方に統治の比重を移した。
テオドシウス
Theodosius
379-395 属州ヒスパニア出身の軍人。コンスタンティノープルで公会議を行いアタナシウスの教義を補強した三位一体説を正統教義として採用すると、392年異教徒禁止令を出しキリスト教の国教化を行った。その死後二人の息子を東西それぞれの皇帝に指名し帝国が東西に分裂した。

四分統治 tetrarchia: テトラルキア / 286, 293

ディオクレティアヌスは、帝国の安全と秩序を維持するために帝国を東西に二分してそれぞれに正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置いて帝国を統治した。

西初陣
正帝 正都 管轄領域
マクシミアヌス ミラノ イタリア、アフリカ、ヒスパニア、サハラ国境
副帝 副都 管轄領域
コンスタンティウス1世 トリール
(ドイツ西部)
ウィエンネンシス(南フランス)、ガリアブリタニア、ライン国境

ミラノ勅令 Edict of Milan / 313

キリスト教徒迫害はディオクレティアヌス帝だけでなく次の東帝ガレリウスによって続けられたが、迫害によっては信徒の増大を食い止めることができなかった。そのためコンスタンティヌスは313年もう一人の西の正帝を名のるリキニウスとミラノで会談しキリスト教公認に舵を切った。リキニウスは間もなく東の皇帝に攻撃をかけて退位させ東の正帝として即位し、一時的に帝国全土でキリスト教徒に平穏が訪れた。

(SY comment)
皇帝による迫害はイエスの教えであるアガペーを重んじるキリスト教徒には逆効果となり信者の団結を強める結果となってしまった。またコンステンティヌスがキリスト教公認に舵を切ったことと、その母ヘレナがキリスト教徒であったことは無関係ではないように思われる。

ニケーア公会議 Nicka Council / 325

イエスの死後その教えは使徒たちを通して伝承されてきたが長い時を経てその解釈、特にイエス自身の神性を認めるかどうか、について意見が割れていた。コンスタンティヌス帝はその問題の解決に乗り出し小アジアのニケーアで会議を招集、父なる神と子なるイエスは同質であるとするアタナシウス派を正統とし、子のイエスが父なる神に従属するとするアリウス派を異端としてキリスト教の教義の統一を行った。しかし、コンスタンティヌス帝自身がその後アリウス派を認めてアタナシウス派を追放するなど混乱が続いた。

サン・ピエトロ大聖堂 San Pietro Cathedral

コンスタンティヌス帝はネロ帝の治世で殉教した使徒ペテロの礼拝墓所に教会(サン・ピエトロ大聖堂)の建設を命じた。

キリスト教国教化 392

キリスト教公認後の混乱を収束すべくテオドシウス帝は381年コンスタンティノープルで公会議を開きアタナシウス派の三位一体説をキリスト教の正統教義として確立、さらに392年これ以外の信仰や宗教を法的に禁止した。これにより帝国領内で続いていた伝統的なローマ神信仰、ミトラ教の太陽神信仰、マニ教は禁止されることになりキリスト教が事実上の国教となった。

帝国東西分裂 395

テオドシウス帝の死後その二人の息子が西ローマ皇帝東ローマ皇帝として即位し帝国を相続、実質的にローマ帝国は東西に分裂した。西ローマ帝国は都をローマ(間もなくミラノに移動)とし、ヴァンダル人将軍スティリコがその幼帝ホノリウスを補佐した。

ゲルマン民族侵入

3世紀頃からゲルマン人が帝国内に侵入を始め帝国を脅かし、帝国皇帝はしばしば遠征を行ってゲルマン人の侵入を阻止していたが、帝国が東西に分裂し強力な皇帝が不在となると、東西ゴート人、ヴァンダル人、フン人などが広大な西ローマ帝国(ブリテン島ヒスパニアチュニジア)を徐々に侵食していく。

ゲルマン人クーデタ 476

新皇帝ロムルスが即位するとローマ帝国に雇われたゲルマン人傭兵たちは土地を要求、それが拒否されると傭兵隊長オドアケルを先頭に反乱を起こし翌476年皇帝を追放、統治能力を失っていた西ローマ皇帝は完全に滅亡した。オドアケルはその後東ローマ帝国の宗主権を認め西ローマ総督の地位に就任、ラヴェンナでイタリアを統治した。

ゲルマン人王国

東ゴート人王国 Ostrogoths / 493-555 / 初代:テオドリック / 都:ラヴェンナ

西進してきたフン人に征服、支配されていた東ゴート人はフン人の衰退後にパンノニア(現ハンガリー)に移動して自立していたところ、471年東ローマ帝国からオドアケル攻撃の要請を受け、テオドリック王はイタリア半島に移動し493年オドアケルを殺害して東ゴート王国を建設した。

ゴート戦争 535-555

東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世から派兵を受け20年に渡って抵抗をつづけたが最終的に滅ぼされた。この戦争によってイタリアは土地の荒廃と度重なる飢饉により壊滅的な打撃を受けた。

ランゴバルド人王国 568-774

ゴート戦争で東ローマを支援したランゴバルド族はユスティニアヌス帝の死後反旗を翻して北イタリアに侵入、568年にパヴィアを首都としてランゴバルド王国を建国した。これをもって「第一次ゲルマン民族大移動の終焉」と言われている。


主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧

教材工房『世界史の窓』 『イタリアの歴史』
東京書籍、実教出版 『世界史B』
ミネルヴァ書房 『西洋の歴史』