パレスチナ、もしくはカナーンと呼ばれる、東地中海沿岸、ヨルダン川西側地方の歴史。「パレスチナ」という地名は現在のガザ地区のアラブ人の起源とされる「ペリシテ人(Philistines)」から来たもので、その一方「カナーン」という地名は『旧約聖書』から来ている。
フェニキア人やヘブライ人と並ぶセム語族の民族で「イヴリム」(=ヘブライ人)と呼ばれていた。BC1200年前後にカナンの地への移住を始めシリアのダマスクスを拠点として陸上交易で活躍した。代表的アラム人はメソポタミアのウルからカナンの地へ移住した「ユダヤ教の父」とも言われるアブラハムである。
アラム人が用いたアラム語を表記するための22の子音からなるアルファベット(表音文字)。それまでの西アジア地域の文字であった楔形文字に取って代わって西アジア全域に広がりヘブライ文字とアラビア文字などの西アジアの文字の原型になると、ヘレニズム時代には中央アジアに広がって突厥文字やソグド文字など中央アジアの文字の原型にもなった。
BC8世紀にアッシリアのサルゴン2世に征服された。しかしアラム人の用いていたアラム語とアラム文字はアッシリア帝国に正式に採用され、アラム文化はメソポタミア文化の中を生き延び後世の大きな影響を与えた。
『旧約聖書』によれば、サウルが多くの部族に分かれていたヘブライ人(イスラエル人)を初めて統一しパレスチナ=カナーンの地に建国、イスラエル王国とも呼んだ。
王となったサウルは海の民の一派とみられるペリシテ人(現在のガザ地区のアラブ人)との戦いで戦死すると、南部のユダ族の出身であったダヴィデが果敢な戦いでを倒し2代目の国王となると、カナーン人などの周辺民族も統一しパレスチナ全域を支配した。
ダヴィデ王の子。エジプトのファラオの娘を王妃に迎えたり、フェニキア人のティルスと同盟を結んだりするなど周辺諸国と友好関係を結んで交易を活発化させ、稼いた富を用いて都イェルサレムにヤハウェ神殿を建設するなどして栄華を極め「ソロモンの栄華」と呼ばれた。ソロモン王の死後、南部のユダ族の支配に北部の部族が反発して両者は分離独立した。
イスラエル王国を征服したアッシリアに対しユダ王国は朝貢関係を続けながら独立を維持していた。
アッシリア帝国が滅亡すると北から新バビロニアが侵攻、エジプトの支援を期待して反乱を起こすが、新バビロニアのネブカドネザル王はBC598年に遠征軍を派遣して反乱を鎮圧しイェルサレムを占領、第一回バビロン捕囚を行った。BC587年ユダ王国は再び反乱を起こすとネブカドネザル王は再び遠征軍を派遣、イェルサレム神殿は徹底的に破壊されユダ王国は滅亡し、多数のヘブライ人がバビロンに連行された(第二回バビロン捕囚)。
アケメネス朝ペルシアを建国したキュロス2世は新バビロニアを滅ぼすとユダヤ人をバビロン捕囚から解放、ペルシアの支配下に入った。
ユダヤ人はバビロン捕囚からイェルサレムに戻ると神殿を再建し、ユダヤ教の新体制を構築した。その体制では大祭司、祭司長(貴族祭司)、長老(一般貴族や大土地所有者)、律法学者(多くがパリサイ派)ら70人から構成される最高法院が権力を有し、大祭司や祭司長は一部の家系に独占された。
パレスティナにもアレクサンドロスの遠征部隊が訪れアケメネス朝ペルシア勢力を駆逐していった。
パレスティナの南部はプトレマイオス朝エジプトに分割された。
パレスティナの北部はセレウコス朝シリアに分割された。
セレウコス朝シリアのアンティオコス4世は自身の神格性を認めさせようと、イェルサレムのユダヤ神殿をゼウス神殿と呼ばせて違反者を死刑にしようとすると、ユダヤ人は豪族ユダ・マカベウスに率いられて反セレウコス朝で結束して立ち上がり長期にわたる闘争を行った。
マカベア戦争の結果ユダヤ人は自治が認められ、BC142年ユダ・マカベウスの弟シモンを祖とするユダヤ教国家であるハスモン朝が成立した。
ローマ将軍ポンペイウスの魔の手がパレスティナにも忍び寄り間もなくパレスティナも征服された。ハスモン朝は存続したものの、実質的にはローマの支配を受けることとなりローマはシリア総督を通じてユダヤ人に課税した。
その後ハスモン家は反ローマ活動を行ったため、BC40年ローマ元老院はイドマヤ人のヘロデをユダヤ王の地位に認定した。ヘロデはBC37年最後のハスモン朝の王家の当主を殺害してハスモン朝を滅亡させた。
『新約聖書』に拠ればヘロデはまたイエスが産まれた際ベツレヘムの2歳以下の男子を皆殺しにしたとされる。
BC4年のヘロデ王が死ぬとイェルサレムで内紛がおきてローマが介入、AD6年にはローマの属州として支配されることになった。
属州パレスティナ最初のローマ総督。イエスを処刑したとされる。
ローマのイェルサレム支配に対しユダヤ人の激しい反ローマ闘争が起こった。
名称 | 年代 | 解説 |
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第一次 | 66-74 | ローマは第二次ポエニ戦争時、マケドニア・フィリッポス5世はカルタゴと同盟を結びローマに反旗を翻したためローマ軍は出兵を決定するも、ハンニバルとの戦いで大敗北を喫したローマは苦戦、マケドニアに反発していたギリシア諸都市の力を借りて和平協定に持ち込んだ。 |
第二次 | 131-135 | マケドニアの南進を恐れたギリシア諸ポリスがローマに支援を要請するとローマは派兵を決定、マケドニア軍を破った。ギリシア諸都市には自由と独立を保障して占領せずに撤退した。 |
7世紀にアラビア半島で興ったイスラーム勢力がシリア、パレスティナ=カナーンの地域に侵攻東ローマ帝国軍を破りパレスティナを支配した。
主要参考文献・サイト ⇧ top ⇧
教材工房 | 『世界史の窓』 | 『パレスチナ』 『シリア』『ユダヤ人』 |
シーセル・ロス | 『ユダヤ人の歴史』 |
(SY comment)
ただしソロモンの名やその栄華の様子は聖書以外には史料が無いそうである。