ブラックホール情報損失問題とは何か?
B01班 研究代表者 飯塚則裕 (大阪大学理学系研究科)
2023年3月25日(ニュースレターより転載)
ブラックホールの情報損失問題とは、70年代にホーキングが主張した「ブラックホールが蒸発する」ということに端を発する問題で、以来長く研究者を悩ませてきた問題である。本稿ではこの何が問題なのか?をなるべく平易な言葉でかつ本質をできるだけクリアーに解説してみたいと思う。
1. そもそもブラックホールとは?
ブラックホールとは一言で言うと、アインシュタイン方程式の「真空解」である。アインシュタイン方程式は、およそ100年前にアインシュタインが提案した式で、ある場所の物質(エネルギー=質量)によりその場所の空間がどのように曲がるか?を記述する式である。アインシュタインは重力が時空のまがりによってもたらされるものと看破し、この方程式を基礎原理に基づいて提唱した。ここから非常に変な物質の存在を仮定すれば、非常に変な時空を生み出すことができるのは明らかであろう。しかしブラックホールはそうではない。「真空解」である。いま空間のとある一点にのみ質量があり、その周りの広大な領域には何も物質がないとしよう。その場合、質量のある一点を除けば、時空には何もない。この場合のアインシュタイン方程式の解を真空解と呼ぶ。真空とは「古典的には何もない」と思ってもらってよい。この(一点を除き)空間に何もなくても必ず存在する解、それがブラックホール解である。どんな物質がこの世に存在するかに全く依存せず、時空があれば普遍的に存在するものなのである。故に理論家は非常にブラックホールに興味を持っている。
2. ブラックホールの構造
次にこのブラックホール解がどのような時空を記述するかについて述べよう。ややこしい計量(metric)など言わずに直感的に説明するため次の例えで説明させてもらいたい(少し読者の想像力を要する)。皆さんは動く歩道を知っておられると思う。空港などでゲートに向かう時長い通路を歩くときに使うあれである。しかし普通の動く歩道ではない「世にも奇妙な動く歩道」があると想像してもらいたい。これは普通の動く歩道とは全く異なる。どう違うかというとまず、すごく長い。そして幅も広い。故に普通の動く歩道と違い、途中で外に出られないと仮定してもらいたい。この動く歩道の乗り口をA、降り口をBとしよう。いまこの降り口Bで火事が起こっている。非常に高温で燃えているので、降り口Bで動く歩道を降りた瞬間に焼かれて皆死んでしまうと想像してもらいたい。そう聞くと誰もこの歩道に乗りたくないと思うのだが話を続けよう。この奇妙な動く歩道、さらに特徴があって、動く歩道の速度がどんどん速くなっているのである。乗り口Aでは歩道は時速5 km(およそ人の歩く速度)で動いているのであるが、乗っていると速度がどんどん上がっていく。時速10 km, 20 km, 30 km,…とどんどん速くなる。降り口B付近では時速100 kmにもなっていると想像してもらいたい。この奇妙な動く歩道にあなたがいま間違って乗ってしまったとしよう。でも心配ご無用。もし仮にあなたが時速30 kmで走れるのであれば、間違って乗っても、すぐ乗り口Aまで走って戻れば無事降りられるであろう。乗り口A付近ではたった時速5 kmで歩道は動いているのだから、その差、時速25 kmで戻れる。乗ってしまってからもう少し進んでいても、もちろん大丈夫。しかし動く歩道が時速30 kmを超えてしまうともうダメだ。あなたが最高速度の時速30 kmで乗り口Aに戻ろうと思っても、動く歩道がそれ以上の速度でBに向かっているのであなたはもう乗り口Aに戻れない。残念だがあなたはBまで運ばれて焼け死ぬしかない。この動く歩道の速度が時速30 km時点の手前があなたが引き返すことのできるぎりぎりであることがわかると思う。この時速30 kmの地点をH=地平線と呼ぼう。このH、地平線はあなたが乗り口Aに戻るための限界である。もしあなたが燃えない宝石などのカバンを持っていたとしよう。時速30 km地点を超えて動く歩道にのっていたらあなたはBについて焼け死んでしまうが、あなたの持っていた宝石も同様である。宝石はBに蓄えられていく。降り口Bは火事がおこっていて人が死ぬなど尋常ではない地点なので特異な点、特異点=Bと呼ぼう。まとめると、奇妙な動く歩道に乗ってしまった人は地平線=Hを超えるともう乗り口Aに戻ってこられない。地平線Hを超えてしまった人、およびその人の持っている宝石は降り口Bに蓄えられる。地平線=Hには、宝石はない。宝石はBに集積される。とここまで奇妙な動く歩道について述べたが、実はブラックホールも全く同じ構造をもっている。この世で最速である光でさえ、有限の速度を持っているからだ。それはあなたが時速30 kmの有限の速度でしか走れないのと同じである。光もブラックホールの地平線を超えると、もう外に戻ってこられない。またブラックホールに吸い込まれた光が運んでいる情報はブラックホールの中心にある特異点に蓄えられる。特異点と地平線は離れた場所にあり、地平線には情報はない。情報は全て特異点にある。
3. ブラックホールの量子論
ここまではブラックホール時空がどんな構造をもっているかを奇妙な動く歩道のアナロジーから解説した。次にこの地平線をもつ時空に量子論を適用するとどうなるかを述べる。量子論は直感的に説明するのが難しいがその特徴の一つに「不確定性」がある。古典的には、どこに、どんな速度、どんな加速度でいると断定できるが量子論では同時に全て決定できない。不確定性がある。量子論で真空(=古典的になにもない)を考えると、実は何もないのでなく粒子数が不確定になっている。真空から粒子がペアになってでてきては、ペアになって消えるということを繰り返している。このペアで生成された粒子の対は本学術変革の肝のひとつである「量子もつれ」を持っている。量子もつれをもったペアの粒子が生まれては消えるというのを繰り返しているのである。ペアの一つが正のエネルギー (E>0) 粒子で、もうひとつが負のエネルギー(E<0) 粒子だとしよう。負のエネルギー粒子(E<0)は存在しないので正のエネルギー粒子(E>0)とくっついて消えようとする。しかし地平線近傍だが少し外で生まれたペアの粒子対のうち、負のエネルギー粒子のみがブラックホールに入って正のエネルギー粒子がそのまま外にいればどうなるであろうか?負のエネルギー粒子は存在できないがブラックホールに吸い込まれた場合、単にブラックホールの質量を下げるだけで何も矛盾はない。もしこれが逆(正のエネルギー粒子がブラックホールに入って負のエネルギー粒子が外に取り残される)なら話は別である。外に一人取り残された負のエネルギー粒子は存在できないので相方である正のエネルギー粒子を求めてブラックホールに入るしかない。このように非常に大雑把な議論であるがブラックホールの地平線があれば、そこから正のエネルギー粒子を取り出すことができる。これがブラックホールの蒸発である。量子もつれの観点から述べるならば、真空の波動関数の(地平線の内側と外側の)量子もつれから、地平線の内側が見えないことによりtrace outして、外側のみの密度関数を得ると、純粋状態ではなく、統計力学で扱う有限温度をもった混合状態になるということである。つまりブラックホールの地平線がブラックホールが温度をもって蒸発する起源である。ブラックホールの蒸発は地平線でおこっている。
4. なぜ情報が損失するという結論になるのか?
話が長くなってきたのでまとめよう。奇妙な動く歩道で見たように、地平線は引き返せる限界であるが、そこに情報はない。情報はすべてそこから離れた特異点に蓄えられてある。しかしブラックホールの蒸発は地平線があるからで、地平線で起こっている。ここから次の結論が得られる。情報が蓄えられているブラックホールの中心にある特異点から離れた場所にある地平線に情報はないが、ブラックホールの蒸発が地平線で起こっている以上、ブラックホールの蒸発で出てくる粒子はブラックホールに吸い込まれた粒子と無関係、となる。つまり、ブラックホールを構成する粒子の波動関数の情報は失われる!これがホーキングの議論の肝である。結局、ブラックホールという「時空構造」を認めると、地平線と特異点の違いを生み出し、両者が異なる場所であることが情報が失われる起源である。
5. 真実は?
量子論を信奉する読者はただちに、ブラックホールの蒸発は量子論に則るはずと言うであろう。故にブラックホールの内部で特異点や地平線の違いがない。情報は特異点のみに蓄えられず地平線近傍まで蓄えられているはずである。と主張するかもしれない。その可能性もある。しかしそうだとするならばブラックホールの輻射はたんなる石炭の輻射と一見変わらない。地平線を石炭の表面だと考えれば同じである。しかしブラックホールの解が予言する時空構造は、地平線と特異点を異なる場所として予言しており、それを量子論の観点から劇的な変更をするのは容易ではない。もちろんアインシュタイン方程式は古典論であり量子論ではない。しかし太陽の質量の何万倍以上の質量のブラックホールはその地平線の面積は地球より大きい。我々が地球の表面で曲がった時空の量子論を適用して矛盾もないなら、そのような巨大なブラックホールの地平線近傍で曲がった時空の量子論が適用できると考えるのが自然である。ブラックホールの情報損失問題は、もし量子論の原理が適用されブラックホールの情報が損失されないのであれば、それは同時にアインシュタインの予言した一般相対論、およびそれに基づく曲がった時空の量子論が大いなる変更を受けるべきであるという非常に衝撃的な結論を引き起こす。と同時に、この問題を研究者が議論することによって、量子もつれと創発する時空やホログラフィーという新しい理論物理の概念が生みだされた。ブラックホールの情報損失問題は我々弦理論の研究者にとって思考のための肥やしなのである。
参考文献
[1] S. W. Hawking, Commun. Math. Phys. 43, 199 (1975).
[2] J. D. Bekenstein, Phys. Rev. D 7, 2333 (1973).
[3] S. D. Mathur, Class. Quant. Grav. 26, 224001 (2009).