量子情報とは何か?

A01班 研究分担者 中田芳史 (京都大学基礎物理学研究所)
2022年3月25日(ニュースレターより転載)

最近、“量子情報”という言葉を耳にする機会が増え、同時に「“量子情報”って何?」と質問されることが増えた。本稿では真っ向から“量子情報”とは何かを解説していこう。

1.“情報”とは何か

 現代社会では“情報”はとても馴染み深いものだ。しかし、改めてその意味を問われると、答えに窮するのではないか。例えば「五輪ボブスレーでAさんが金メダルを取った」という“情報”は、どう理解できるだろうか?五輪ボブスレーには30名が出場しているようだが、私は選手を一切知らない。なので、一報を聞く前の私は、「各選手が金メダルを取る確率は1/30」という確率分布で表現してよいだろう。そのような不確定な状態から「確率1でAさん」という確定した状態へと変化することが、「情報を得る」の意味と考えられる。
 確率に基づいて考えることで、“情報量”も自然と定義できる。私にとっては各選手の勝率は一様だったが、{Aが確率0.9、Bが0.05、…}と具体的に勝率を予想する人もいるだろう。その人は元から「Aが勝つだろう」と思っている訳だから、結果から得られる“情報量”は多くはない。このような「得た情報の多寡」は、確率の逆数の対数で定量化することが通例だ。確率の逆数で“驚き度”を表し、量を相加的にするために対数を取っている。
 この考察から、情報の大前提には、事象“未知”や“既知”を定量化する確率分布が存在することが分かる。これらの組は情報源と呼ばれるが、直観的には「確率で事象を出すスロット・マシーン」と考えてよいだろう。スロットを回すたびに事象が吐き出され、の情報量が得られる。また、そのスロット・マシーンの平均情報量がShannonエントロピーで与えられることも、容易に分かるだろう。
 ただし、スロット・マシーンはあくまで情報“源”であり、情報そのものではない。例えば、「情報を送ること」はスロット・マシーンを梱包して誰かに送り付けることではなく、「スロットの目がだった場合は、相手もと知る」だ。この意味では、「情報=情報源の出力と相関を持つこと」と表現してもよいだろう。

2.量子情報とは何か?

 情報源=スロット・マシーンなので、量子情報源は単純に「確率で純粋状態を吐き出すスロット・マシーン」と定義すればよい。そして、「量子情報を得る=量子情報源がどういう純粋状態を出したかを知る」ということになる。
 こう説明すると、古典を少し拡張しただけに聞こえるだろう。しかし、小さな拡張が大きな差異へと繋がるのが量子の面白いところだ。それを理解するために、

量子情報源A:{確率

量子情報源B:{確率

という二つの量子情報源を考えよう。量子情報源Aは、直交するを確実に識別できることから、古典情報源{確率}を量子状態で書いただけと見做せる。つまり、Aは本質的には古典だ。一方、量子情報源Bは、実質的にはほぼ一つの純粋状態に確定している。つまり、Bでは古典確率は大きな意味を持たず、{確率}とは全く異なる性質を持つのだ。
 このような状態の非直交性に起因する量子特有の事情は、量子情報源{, に対応する密度行列を考えて、 ()と対角化することで解消できる。量子の世界では同じ密度行列を持つ量子アンサンブルは原理的に識別不可能で、物理的に同一のものなので、{, と{, は物理的には完全に同じ量子情報源である。そのため、与えられたアンサンブルを、直交状態から構成されるアンサンブルに置き替えて議論することができて、結果、量子情報源を“古典化” できるのである。

3.改めて“量子情報”とは何か?

 ここまでくると、改めて「量子情報とは何か?」という疑念が湧くのではないだろうか。前章冒頭では、「量子情報を得る=量子情報源{, }がにあるのか、にあるかを知る」と想像できた。しかし、量子の特性から{, }を{, }と読み替えてよいことになり、気付いたらの影も形もなくなってしまった。うぅむ、「量子情報を得る」とは、結局、何を“知る”ことになるのだろうか?
 個人的な答えは、「量子論において原理的に知ることが可能な範囲内で量子情報源から出た純粋状態を知る」ことが、「量子情報を得る」の意味だ。上述の「量子情報源{, }が純粋状態にある」という書き方では、特定のアンサンブルから状態が選ばれるかのように記述したことに混乱の種がある。実際には、密度行列が同じである限り、いかなるアンサンブルから純粋状態が選ばれても区別はつかない。それにも関わらず、頭の中でアンサンブルを{, }と固定したのがナンセンスだったのだ。
 以上の考察から、量子論を正しく考慮すると、アンサンブルではなく「量子情報を得る=密度行列ρで記述される量子情報源がどの純粋状態にあるかを知る」と定義する方が適切だと分かる。この定義が、今日における量子情報の標準的な定義である。
 ここで、密度行列ρは量子情報“源”であり、量子情報そのものではないことに注意しよう。古典の場合と同じだが、「量子情報を送る」とは、「送信者の量子情報源ρがを出したら、相手もを受信する」ことであり、密度行列ρを送ることではない。こう考えると、古典と同様に、“相関”で量子情報を定義したくなるかもしれない。そこで次に、量子相関に基づく量子情報の定義について説明しよう。
 一般に、量子系Aの密度行列は量子系AR上の「R系をtrace outするととなる純粋状態」に拡張でき、この状態をの純粋化、R系をAの純粋化系と呼ぶ。純粋化に対して、実は「の純粋化のR系を適切な基底で測定すれば、A系に、対応する密度行列がである任意の量子アンサンブルを実現可能」という事実を示せる。やや非自明に聞こえる主張だが、これはUhlmannの定理[1]の帰結である。この事実により、例えば2章の例では、量子情報源ρを{, と解釈したければ純粋化のR系をある基底で、{, と解釈したければ別の基底で測定したと考えればよい。R系の基底選択が純粋状態の集合を決定し、測定確率がそのアンサンブルの確率分布を決めるという仕組みだ。この状況ではR系はreference系と呼ばれることが多いが、この系はあくまで仮想系であり、測定結果等のやり取りは考えないことには注意されたい。
 純粋化のこの性質は、が持つAR間の量子相関と密接に関係している。そのため、ある意味では「量子情報源A」と「その純粋化系R」の間にある量子相関が量子情報を“記録”すると見做せる。このことから、「量子情報=純粋化系Rとの間の量子相関に保存されたA系の情報」と考えることも多い。この定義は密度行列のものとほぼ同義 [2]であることが知られているため、実用上はどちらを用いても問題はなかろう。
 こうして量子情報が二通りの方法で正しく定義された。しかし、量子情報の“量”は自然には定義されないことは強調しておこう。古典情報の場合、“驚き”という観点から情報量を自然に導入できたが、量子ではそもそもアンサンブルを固定できないため、「量子情報源がだった」という事象単体の“驚き”や“情報量”を定められないのだ。
 因みに、von Neumannエントロピーは“情報量”ではなく、「量子情報源が持つ本質的な自由度」と理解すべきものである。この辺りが気になる方は、是非、Schumacherの量子情報源の圧縮定理[3]を参照されたい。

4.量子情報と物理

 最後に、物理の文脈での「量子情報」はどう理解できるだろうか。例えば、Hayden-Preskillの思考実験[4]における「ブラックホール(BH)に投げ込んだ量子情報を、ホーキング放射から復元する」や、「BHの量子情報」とは一体どういう意味だろう。
前者の文章を密度行列で説明すると、「量子情報源ρから確率的に出てきた純粋状態をBHに投げ込み、ホーキング放射からを復元する」となる。この時、ホーキング放射から量子情報を復元しようとする人は、どういうが投げ込まれたかは知らないものの、量子情報源を表す密度行列ρは既知と考える場合が多い。スロット・マシーンの目と確率分布くらいは密度行列の意味で知っているだろう、というシナリオだ。
 この状況を量子相関で記述することも出来る。その場合は、量子情報源と純粋化し、A系のみをBHに投げ込む。その後、ホーキング放射にうまい操作を行い、元々「A系とR系の間」にある量子相関を「ホーキング放射とR系の間」に復元できれば、量子情報を復元できたことになる。もちろんR系は仮想系なので、一切操作できない。
 後者の「BHの量子情報」は、BHそのものが量子情報源という発想だろうか。例えば「BHの量子情報を知る=何らかの密度行列で記述されるBHが、実際にどの純粋状態にあるかを知る」と捉えることは出来る。もしくはBHの密度行列を純粋化し、その状態が持つ「純粋化系とBHの間の量子相関」を、「純粋化系と自分の手元にある量子系」へ転写する、とも表現できよう。
 量子情報の意味を厳格に適用すると、このように解釈できる。しかし、それは本当に正しい解釈なのだろうか。また、仮に正しいとしても、本当にそんなことが出来るのだろうか。そんなことが出来たら何らかの物理法則に反する気もしてしまうのだが。
 分からない。世の中は分からないことだらけ、不確定だらけだ。そんな自然の情報源から情報を取り出すという作業が物理学の目指すところであり、そこには確かな浪漫がある。その浪漫が「極限宇宙」研究の原動力となり、「情報学の精密さ」と「物理学の浪漫」を兼ね備えた発展に繋がれば、これ以上面白いことはないだろう。

[1] A. Uhlmann, Rep. Math. Phys., 9:273–279 (1976).
[2] D. Kretschmann and R. F. Werner, New J. Phys., 6, 26 (2004).
[3] B. Schumacher, Phys. Rev. A, 51, 2738 (1995).
[4] P. Hayden and J. Preskill, J. High Energy Phys., 0709, 120. (2007).

極限宇宙ガイド第1号 ダウンロード